恵林寺
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恵林寺 | |
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山門 |
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所在地 | 山梨県甲州市塩山小屋敷2280 |
山号 | 乾徳山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 大日如来 |
創建年 | 元徳2年(1330年) |
開基 | 夢窓疎石 |
別称 | |
文化財 | 四脚門(国重文) 庭園(国名勝) |
恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷(旧塩山市)にある寺院。山号は乾徳山。臨済宗の寺院で、妙心寺派に属する。庭園は国の名勝に指定されている(昭和19年(1944年)6月26日指定)。
目次 |
[編集] 沿革
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂氏が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。永禄7年(1564年)には武田晴信(信玄)が寺領を寄進し、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師に信玄の葬儀が行われた。
天正10年(1582年)4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠軍による焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したことで知られる。
信長横死後に甲斐を領した徳川家康により再建され、快川の法嗣も招かれた。また、江戸時代の将軍徳川綱吉時代に側用人であった柳沢吉保の墓所にもなっている。また、検地帳簿として『恵林寺領検地帳』が残されている。
[編集] 伽藍
明治38年(1905年)の出火で焼失した後、再建したものあるが、桃山様式の四脚門(国指定重要文化財)や夢窓作といわれる庭園がある。
- 本堂
- 明王殿
- 庫裏
[編集] アクセス
- JR中央本線塩山駅下車。
- 中央自動車道勝沼インターチェンジで降り、秩父方面へ行く。