細川氏
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細川氏(ほそかわし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流 河内源氏の流れを汲む足利氏の支流。三河国額田郡細川(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来。家紋は九曜(18世紀中頃からは「離れ九曜」)、五七の桐。
四国を中心に八ヶ国の守護職を占め、室町時代には有力守護大名および管領家の1つとなる(三管領)。畿内に勢力圏を有することもあって、次第に三管領筆頭の斯波氏や畠山氏を出し抜いて幕政を主導するようになるが、家臣の三好氏や陪臣の松永氏に権力を簒奪されて勢威は衰退し、ついには完全に零落してしまう。
傍流の細川藤孝(幽斎)は織田信長と羽柴(豊臣)秀吉に従い家運を回復し、江戸時代には近世大名となり、熊本藩主家として明治維新まで存続。明治以降は敗戦まで侯爵の爵位にあった。子孫の細川護煕は内閣総理大臣となる。
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[編集] 京兆家(管領家)
細川宗家で、室町時代の管領家。「京兆(けいちょう)」とは右京大夫の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。
足利義康の庶長子である義清が開祖で、平安時代後期に足利本家から分かれる。義清、その嫡子の義実の2代は上野国を本拠とするが、鎌倉時代には足利義氏が三河守護となり、細川義季は兄の戸賀崎義宗と仁木実国らとともに三河国細川郷へ進出し、細川郷・仁木郷・戸賀崎郷などをそれぞれ所領する。
鎌倉時代後期に細川和氏、細川顕氏、細川定禅らが足利尊氏の挙兵に参加、南北朝の争いや観応の擾乱で戦う。細川和氏は、尊氏の挙兵に際して上杉重能とともに後醍醐天皇に帰順を願う使者の役割をして、六波羅探題攻撃にも参加している。1333年(元弘3年/正慶2年)、新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子千寿王丸(後の足利義詮)を補佐するために鎌倉へ下向し、義貞と対抗して鎌倉を足利家に掌握させる。
細川頼春は兄の和氏らとともに尊氏の傘下で戦い、1334年(建武元年)に後醍醐天皇の皇子護良親王が鎌倉へ幽閉された際に警護する。観応の擾乱では一時足利直義方に付く。和氏の嫡子である細川清氏は2代将軍足利義詮の執事職となるが、佐々木道誉の讒言により失脚し南朝方に属して滅びる。
頼春の嫡子である細川頼之は中国管領、四国管領を歴任し、幕府管領となり幼少の将軍足利義満を補佐する。頼之は1379年(天授5年/康暦元年)の康暦の政変で一旦没落するが復帰、弟の細川頼元が管領職になる。明徳の乱で山名氏が没落すると畠山・斯波両氏とともに三管領の一角を占める。細川持之は、6代将軍足利義教の専制のなか人望を失う。
細川勝元は将軍家の跡目相続などで山名宗全(持豊)と対立し、東軍の将として足利義視を推戴し、西軍との間で応仁の乱が起こる。
戦国時代には、勝元の子の細川政元が明応の政変で将軍足利義材を廃立し、幕政の実権を掌握した。この時期、畠山・斯波両氏の没落もあって、政元時代の細川管領家は全盛時代を迎える。だが、政元自身は妻帯せず、細川澄之・細川澄元・細川高国の3人を養子に迎えたため、この3人が家督をめぐって争い、遂には政元が澄之を推す配下に暗殺されるなど混乱を極める。この混乱は1531年(享禄4年)に澄元の子・細川晴元が高国を打倒することで収まり、晴元はそれによって畿内に一大政権を築き上げ、細川氏を立て直した。しかし、1549年(天文18年)、家臣の三好長慶の裏切りにあって、晴元は近江に追放され、その政権は崩壊する。
晴元の嫡子である細川昭元は織田信長・豊臣秀吉の庇護を受けるが、最早政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなかった。また、傍流である細川藤孝・細川忠興との交流もなかった。昭元の嫡子である細川頼範は豊臣秀頼に仕え大坂城に在り、大坂の陣では豊臣方となったが、敗戦後讃岐国に隠棲したという。
[編集] 細川典厩家
細川氏の分家の一つ。上記細川高国は元々典厩家の出身である。細川政賢・細川尹賢の代には本家である京兆家の内紛に介入し一定の影響力を持った。のちに京兆家とともに衰退するが、典厩家の出身の細川氏綱が三好長慶に担がれて室町幕府最後の管領となる。その死後は氏綱の弟の細川藤賢が典厩家の当主となるが、足利義昭に仕えて織田信長に抵抗したものの降伏してその家臣となっている。
[編集] 阿波細川家
阿波細川氏は14世紀中頃に細川頼春の子 詮春に始まる。代々阿波守護となった。数え方によって変わるが10代で終わる。なお阿波細川氏は成之のころから讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも言う。
[編集] 和泉上守護家→ 肥後熊本藩主家(肥後細川家)
細川頼之の弟の頼有の系統で、14世紀中頃から和泉半国守護を代々務めた。その末裔の細川元有が1500年に戦死して以後は衰退し、息子元常の代には守護職も名前ばかりで山城国勝龍寺城城主として弟の三淵晴員とともに将軍足利義晴の一家臣となっていた。元常には子供がおらず、弟・晴員の次男三淵藤孝を養嗣子として家督を譲った。
細川藤孝(号して幽斎)は、はじめ将軍足利義昭を支えたが、のち、織田信長・羽柴(豊臣)秀吉に仕え、京都丹後国などを領した。 関が原の戦いの折には、藤孝の息子忠興(号して三斎)の妻ガラシャの自害などもあって東軍に属し、以後忠興は三男の光千代(細川忠利)を徳川家康に人質として差し出し、秀吉没後に家康から警戒されていた前田氏との絶縁(世子忠隆に妻千世(前田利家の娘)との離縁を命じ、反発した忠隆を廃嫡、勘当した)などを行って、徳川への臣従の意思を表す。 江戸時代に細川氏は豊前国小倉藩主を経て、忠利の時代に加藤氏に代わり54万石の熊本藩主となり幕末まで237年統治する。
肥後細川藩には上卿三家といわれる世襲家老がおかれていた。松井氏(まつい:歴代八代城代を勤め、実質上の八代支藩主であった)・米田氏(こめだ:細川別性である長岡姓も持つ)・有吉氏(ありよし)の三家で、いずれも藤孝時代からの重臣である。そのほか一門家臣として長岡姓の内膳家と刑部家があった。
江戸時代中期の細川重賢は、宝暦の改革と呼ばれる藩政改革や、藩校時習館での人材育成を行った事で知られる。肥後細川藩では江戸時代を通じて百姓一揆等が殆ど見られず農民は豊かであったとされるが藩財政は厳しく、江戸・大坂の大商人からの借金に対しては何度も踏み倒して貧乏細川と嫌われている。明治維新後に細川韶邦が版籍奉還に応じ、侯爵となる。
近衛文麿の首相秘書官であった細川護貞は政治的活動も行い『細川日記』を残している。護貞は美術、華道、茶道の愛好家としても知られるが、その父で国宝保存会会長を務めた細川護立は多数の細川家美術品などを収蔵した財団法人永青文庫を開設している。
護貞の子で1993年(平成5年)に日本新党代表として内閣総理大臣となり、非自民党連立政権を成立させた細川護熙は、細川藤孝直系の18代目の子孫である。また、その弟の近衛忠煇は近衛家を相続した。
[編集] 肥後新田支藩主家
肥後新田藩主家は肥後熊本藩からの分家。江戸鉄砲洲に住み、幕末に熊本高瀬に移ったため高瀬藩とも言う。初代細川利重から10代。
[編集] 肥後宇土支藩主家
肥後宇土藩主家は肥後熊本藩からの分家。熊本宇土に領地。初代細川行孝から11代。
[編集] 細川(長岡)内膳家
関が原の戦いの後、細川忠興は前述の前田氏との絶縁にあたり嫡男忠隆に妻千世(前田利家の娘)との離縁を命じ、それに反発した忠隆を廃嫡、勘当した。しかし後に後妻との間に生まれた子の忠恒、忠春は姓を長岡と改めて熊本藩に仕え、六千石の一門家臣として存続することになった。家紋は細川九曜紋のほかに、ガラシャ出自を偲び明智氏の土岐桔梗紋を裏紋とした。政治評論家細川隆元とその甥細川隆一郎は忠春の子孫(明治期に細川姓へ復姓)にあたる。
[編集] 常陸谷田部藩主家
常陸国谷田部藩主家は細川藤孝の子の細川興元より9代。谷田部藩は肥後細川藩の分家ではなく独立藩である。
[編集] その他の支流
- 備中家・淡路家などがある。
[編集] 系図
太線は実子、細線は養子。
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