織田信孝
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永禄元年(1558年) | |||
死没 | 天正11年(1583年) | |||
別名 | 三七、三七郎(通称)。神戸信孝(別名) | |||
官位 | 従五位下、侍従 | |||
氏族 | 織田氏→神戸氏→織田氏 | |||
父母 | 父:織田信長。母:坂氏。 養父:神戸具盛 |
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兄弟 | 異母兄:織田信忠、織田信雄。 異母姉:徳姫。 異母弟:羽柴秀勝、織田勝長ほか |
織田 信孝(おだ のぶたか)は、安土桃山時代の武将・大名。織田氏の一族。伊勢中部を支配する神戸(かんべ)氏を継いでいたため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも称する。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 信長存命中
永禄元年(1558年)、織田信長の三男として生まれる。母は側室の坂氏。幼名は三七郎(3月7日生まれだったためとも)と言われる。実は次男信雄より20日あまり先に生まれていたが、母の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、三男とされたとも言われる。
永禄11年(1568年)、父の織田信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となり、神戸氏を継ぐ。
天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけて、伊勢長島一向一揆平定戦、越前一向一揆平定戦に参加する。天正5年(1577年)の紀伊雑賀攻め、天正6年(1578年)には荒木村重討伐戦にも出陣している。
天正10年(1582年)に四国征伐の総司令官に任ぜられ、織田氏の宿老・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付された。なお、四国征伐にあたって、信孝は三好康長の養子になることが決定された。それにともなって、神戸具盛は再度神戸氏の当主扱いを受けることになったようである。
[編集] 最期
しかし堺にて渡海の準備の最中である6月2日に本能寺の変が勃発する。しかも逃亡兵が相次いだため、積極的な行動はできず、かろうじて明智光秀の娘婿である従兄弟の津田信澄を殺害した程度であった(しかも信澄が本能寺の変に加担した証拠は存在しない)。その後、摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上は総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。
清洲会議では信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、その存在は羽柴秀吉によって無視され、織田氏の後継者は信孝の甥の三法師に決定し、信孝は三法師の後見役として兄・信忠の領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。その後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介した。こうして織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、同年12月、三法師を擁して秀吉に対して挙兵する。しかしこの挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、降伏して人質を出し、三法師を秀吉に引き渡した。
翌、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。
信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られ、迫られて自害した。享年26。
命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。
[編集] 辞世の句
辞世の句は「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(昔、同じ野間で源義朝を討った逆臣長田忠致の故事に喩えて「内海」を「討つ身」とかけている。信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句である)。
この辞世が現実のものとなるのは、それから32年後の慶長20年(1615年)のことであった。
[編集] 子孫
- 秀吉に降伏したとき、人質として差し出した生母・坂氏と幼女は、秀吉によって殺されている。
- 信孝の曾孫(神戸信茂の子)・信章は越後高田松平家当主・松平光長に仕え、高田藩士として存続したという。高田では神戸三郎右衛門と称し、新田開発に功があったという。嫡男半助長経の存在も伝わるが、それ以降は不明である。藤沢宿に伝わる伝承には信孝の側室小妻氏の子信豊の子孫と称する家(川上家)も登場、現存している。これらの子孫、末裔が本当に信孝の血筋であるのかは不明である。だが信孝は侍従にまで昇進した殿上人であり、貴人が血統を保存するために側室を持つことが当然だった当時からすると側室、側室所生の子が存在し、徳川の世になってから世に出たとするのは的外れではないと考えられる。
[編集] 人物
- 信長の息子たちの中では一番容貌が父に似ていたと言われ、英雄百人一首に描かれている肖像は(服装を除けば)若き日の信長に酷似している。
- キリスト教のイエズス会に対する造詣が深く、宣教師からはその人物を高く評価されている。「彼(織田信孝)はデウスのことをよく悟り、諸侯及び大身等と共に居る時、常にデウスのことを賛美し、しばしばわがガザに来り、パードレ等を大いに尊敬している」。
- 北畠氏の養子に入って伊勢国の南部を支配した兄・信雄より器量に優れていたと言われている。もっとも、凡将で知られた信雄との比較ではあるのでその能力は未知数である。しかし、山崎の合戦後に秀吉と並んで朝廷から太刀を授かり、洛中で明智与党の詮議を行い公家衆を震え上がらせており、殿様育ちで秀吉には到底かなわないとしても、織田家の跡目を相続するだけの器量と貫目は備えていたようである。また秀吉が青地氏など信孝に仕えた武士を嫌って重用しなかったという事跡も伝わっており、柴田勝家の力を借り、一時的であったにせよ秀吉と戦うことができたことをも考慮すれば、秀吉にしても信雄ほどに与しやすい存在ではなかったと考えられる。主筋である信孝に切腹を命じたのも、それを裏付けていると言える。
- 天正9年(1581年)の京都御馬揃えの際には織田信忠・織田信雄・織田信包に次いで第4位の序列であった。このことも信孝の器量、信長の信頼を示すものといえる。