織田信高 (戦国武将)
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織田 信高(おだ のぶたか、天正4年(1576年) - 慶長7年12月12日(1603年1月23日))は、織田信長の七男。母は高畑源十郎の娘・お鍋の方(興雲院)。妻は佐々成政の娘・光秀院。子に織田高重。官位は左衛門佐従五位下。
幼名は小洞。通称は藤十郎。1582年に父・信長が死去したときはまだ幼年であったため、氏家行広に預けられて養育を受けた。その後、豊臣秀吉の家臣となり、1591年には近江国内で1060石の所領を与えられ、羽柴姓を名乗ることも許された。1595年に1000石加増。
『寛政重修諸家譜』によれば、1600年の関ヶ原の戦いに際し、弟信貞と共に東軍を支持したものの、本戦に間に合わず、凱旋中の徳川家康に拝謁したという。しかし、『関原軍記大成』などでは、弟の信吉・信貞らとともに西軍に属し、戦後に謝罪、赦免されたという。おそらくは後者が正しく、弟信吉と同様に西軍に所属し、失領したものと思われる。1603年1月23日死去、享年27。墓地は京都・大徳寺総見院にある。
なお、1616年1月、信高の長男高重は新たに幕臣として召し出されて、近江・安房に2000石を与えられたようである。高重の孫信門は高家となり、以後幕末まで高家旗本として続いた。
2005年3月に行われたフィギュアスケート世界ジュニア選手権で優勝した織田信成は、信高の子孫で、信長から数えて十七代目となり、2006年のトリノ冬季オリンピックでは日本代表の有力候補となった。
- 高家織田家第1代当主
- 不詳~1602
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- 先代:
- (織田信長)
- 次代:
- 織田高重