大久保忠教
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大久保 忠教(おおくぼ ただたか、永禄3年(1560年) - 寛永16年2月29日(1639年4月2日)は戦国時代の武将。徳川家臣大久保忠員の八男。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。幼名平助。一時忠雄とも。通称の彦左衛門で有名。子に忠名、包教、政雄。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。
[編集] 略歴
三河国上和田(愛知県岡崎市)に生まれ、17歳のときに兄忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦。高天神城攻めでは敵将岡部元信を討つなど、武勇を発揮。天正13年(1585年)の上田城攻防戦では全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。
小田原征伐の後、主君徳川家康が江戸に移封され、兄忠世、およびその子大久保忠隣が小田原城主に任じられると、三千石を与えられる。関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。
このころ、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって二万石を領していたが、忠佐の嫡子大久保忠兼が早世してしまったため、弟の忠教を養子として迎えて後を継がせようとしていた。しかしこの申し出を「自分の勲功ではない」と固辞したため結局忠佐の死後、改易となってしまう。
続けて大久保忠隣が大久保長安事件(諸説あり)に連座して失脚、改易となると、それに連座して忠教も改易されてしまうが、駿府へと召し出され、家康直臣の旗本として三河国額田に千石を拝領し復帰した。大阪の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も徳川秀忠の上洛に従い、徳川家光の代になって旗奉行となっても、晩年まで武士としての生き方を貫いた。このころ更に千石を加増されている。
寛永12年(1635年)ごろから常陸国鹿嶋に三百石ほどの地を移し、余生を送りながら三河物語の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639年)に80歳で没した。死の間際に家光から五千石の加増をうけたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。
法名:了真院殿日清 墓所:愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。 京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺。 および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立され、通称を「大久保寺」という)。
[編集] 講談・講釈の中の忠教
俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城した、という逸話や将軍家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は、後世の講談や講釈の中での創作である。 太平の世に著書「三河物語」が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果とも言える。
忠教自身、自分の出世を顧みず、常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実ではあるらしい。
いわゆる講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は鶴屋南北の弟子河竹黙阿弥 が書いた歌舞伎芝居に脚色してからである。