下間頼照
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下間 頼照(しもづま らいしょう、永正13年(1516年) - 天正3年(1575年))は、石山本願寺の坊官。官位が筑後守であったことから、通称は筑後法橋という。名は頼照のほかに頼昭、述頼(じゅつらい)。下間頼清の子で仲之の父。
頼照は平清盛に対して反乱を起こしたことで有名な源頼政の一族で、頼政の戦死後、常陸下妻に没落していた蓮位房の子孫であると言われている。1573年、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされて越前が織田領になった後の1574年、越前における織田家臣団の間で内紛が起こると、頼照は加賀における一向宗徒の総大将として越前に侵攻し、織田信長から越前を任されていた前波吉継らを討って越前を本願寺領とした。顕如はこれに喜び、頼照を越前の守護に任命した。
ところが頼照は越前の守護になったのをいいことに、それまで同胞であった一向宗徒や百姓に対して重税を強いたのである。頼照以前の領主であった前波吉継も領国に重税を強いていたため、最後は味方に裏切られる形で殺されたが、この頼照の場合は一向宗の大将であったから、一向宗徒や領民は善政を期待していた。ところが頼照は吉継以上の悪政を行なったうえ、その税で取り立てた金銭を自分の快楽に使っていたのであるから救いようがない。この頃になると石山戦争の影響から、摂津など畿内を除く一向宗徒には堕落の色も見えていたが、この頼照はまさにその象徴でもあった。また、守護権限を利用して他の宗派に対しても命令権を行使したために、反発が広まっていった。
このため、味方である一向宗徒は密かに頼照の排除を計画する。ところがこのような越前・加賀の一向宗分裂を見た信長が1575年、大軍を起こして越前に侵攻してくる。頼照は抵抗しようとしたが、すでに信望を失っている頼照に従う者はおらず、結果として本願寺軍は軍としての形態も取れずに大敗し、織田軍によって多数の信徒が虐殺された。頼照は加賀への逃亡を図った。
頼照は織田軍の追跡はかわしたが、最期は、同じ一向宗でありながら頼照の悪政に不満を抱いていた高田専修寺派称明寺の門徒によって虐殺されてしまったのである。