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西ローマ帝国 - Wikipedia

西ローマ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西ローマ帝国(にしろーまていこく)は286年ディオクレティアヌス帝によるローマ帝国の東西分割の後に、帝国の西半分に与えられた名称である。この帝国は3世紀から5世紀までの間、ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治、四分治制)、コンスタンティヌス1世が関わった再統一、ユリアヌスの治世を経て、数度にわたって断続的に存在した。テオドシウス1世が、統一されたローマ帝国を支配した最後の皇帝である。395年にテオドシウス1世が身罷ると、ローマ帝国は最終的に分割された。その後476年9月4日に幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧迫を受けて退位すると、西ローマ帝国が滅亡したというのが公式の説であるが、非公式には、480年ネポス帝が崩御した時とされる。

西ローマ帝国の滅亡したとき、西ヨーロッパの歴史において新しい時代が、すなわち中世が始まった。

片割れである東ローマ帝国(ビザンチン帝国として広く有名)が短期間の失地回復を果たしたにもかかわらず、西ローマ帝国は復興しようとしなかった。ビザンチン帝国はその後、一千年を堪え忍び、ついに1453年オスマン帝国によって滅ぼされた。

西ローマ帝国の最も重要な遺産であるカトリック教会に感化されて、新生の好戦的な蛮族の王国が、西ローマ帝国の瓦礫の中から発生し、ついにはカトリック信仰やローマの文化ローマ法を採用した。段々とこれら蛮族が、自らをローマの遺産の「真の相続者」に見立てていった。


目次

[編集] 背景

共和政ローマが版図を拡大するにつれて、ローマに置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制(クルススプブリクス)で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため属州は、共和政ローマの名のもとに、実質的には属州総督によって統治された。

帝政が始まる少し前、共和政ローマの領土は、アウグストゥスマルクス・アントニウス、レピドゥスによる二度目の三頭政治により分割統治されていた。

アントニウスは、アカエア、マケドニアエピルス(ほとんど現在のギリシャ)、ビチュニア、ポントゥス、 アシア(現在の小アジア)、シリアキプロス、キュレナイカと呼ばれる東方を手に入れた。こうした地域は、紀元前4世紀アレクサンドロス大王によって征服された地域で、ギリシア文化にかなり同化されていた。主にギリシアやマケドニアに起源がある貴族性を取り入れており、王朝の大多数はアレクサンドロスの将軍の子孫であった。また、ギリシャ語は殆どの都市では共通語のように使われた。

帝政開始前の共和政ローマ
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帝政開始前の共和政ローマ

アウグストゥスは反対に共和政ローマの西方を手に入れた。すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、ガリア(現在のフランス)、ガリア・ベルギカ(現在のベルギーオランダルクセンブルグの一部)およびヒスパニアイベリア半島)である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように文化的にケルト人に支配されている地域もあった。

レピドゥスは属州アフリカ(現在のチュニジア)を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、アウグストゥスはレピドゥスから属州アフリカとギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。

アントニウスを破ったアウグストゥスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは一時的に東方を代理として支配した。同じことはティベリウスが東方に行った際に甥に当たるゲルマニクスによって行われた。

ローマ帝国には異なる多数の文化があったが、それら文化は全て段階的にローマ化されることになっていた。ギリシア語は西方でも使われていたし、ラテン語もまた東方でも使われていた。全体としてギリシア文化はラテン文化と競合することは殆どなく、事実ローマ帝国の文化の融合に役立っており、2つの文化は、対等の立場でギリシア・ローマ世界で扱われた。 それにもかかわらず、後に政治問題が原因となって軍事上の緊張が高まるとローマ帝国は分裂し、さらには、ギリシア文化圏がビザンチン帝国として再編されることになった。

[編集] 反乱と暴動、政治への波及

平時には、首都ローマから帝国を統治することはわりあい容易であった。ときには反乱の兆しが見られたり、実際に時どき反乱が起こったが、将軍や属州総督は、個人的なカリスマや信頼感に単なる賄賂を取り混ぜることで、士官たちの忠誠を勝ち取るのが常だった。征服された部族は叛逆するものだし、征服された都市は蜂起するものだ。歩兵隊は国境を中心に配備されるので、反乱の首謀者は、常態においては、1つか2つの軍団を指揮するのがやっとだった。体制派の歩兵隊は、帝国のよその土地から動員され、仕舞いには叛逆者と血で血を洗う結果となった。このような顛末は、反逆者が激しい軍事経験を経ていないような、狭い地域の先住民による暴動の場合に、いっそう起こりやすかった。皇帝が、軟弱だったり無能だったり、憎まれたり、各地で蔑まれたりしていない限り、こうした謀叛は、局地的で単発的な出来事でしかなかった。

しかしながら、第1次ユダヤ戦争のように、反乱や暴動から本当の戦争が起きた時、戦局は完全に、そして恐ろしいほどに様変わりした。本格的な戦役においては、ウェスパシアヌスのような将軍に統御された軍団が、より多く投入されたのである。したがって、偏執的な皇帝か賢帝ならば、指揮官の忠誠を確かなものとするために、将軍の身内の数人を人質にとるのだった。実際にネロ帝は、ウェスパシアヌス将軍から、幼子ドミティアヌスと、オスティア総督だった義弟クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスを人質にとっている。ネロの治世は、(後の皇帝)ガルバに抱き込まれた近衛団の蜂起によって、やっと終わりを告げた。近衛団の存在は「ダモクレスの剣」であった。近衛団は、忠誠心を買収することができたので、段々と貪欲になったからである。近衛団の例に続いて、国境警備隊もまた次第に内戦に加わっていった。

西方において主な敵は、ライン川ドナウ川のむこうの蛮族だったと言ってよい。アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。しかし蛮族は、互いに抗争させておくために平時は野放しにされていたし、あまりに数多くの部族に分かれていたために、深刻な脅威とはならなかった。

ローマ帝国の最大の敵国パルティアの最大版図 紀元前60年
ローマ帝国の最大の敵国パルティアの最大版図 紀元前60年

一方で、東方にはパルティアがあった。パルティアは、遠すぎて征服することはできなかった。パルティアの侵略に立ち向い、たいていは撃退することができたものの、脅威そのものをなくすことは結局できなかった。

ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて、襲撃と掠奪を行なった。 二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に統治することは難しかった。もし皇帝が東の国境近くにいれば西方にいる野心的な将軍が反乱を起こすチャンスが高まるし、皇帝が西にいれば逆もまた成り立った。皇帝は軍隊を統治するためにその近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。

[編集] 西ローマ帝国における経済の不振(産業の空洞化

ローマとイタリア半島では、産業貨幣の移転が始まると、経済の失速が始まった。紀元2世紀初めまでにイタリア経済の不振は、トラヤヌス帝やハドリアヌス帝のように、属州出身の皇帝の場合に顕著であった。経済問題は深刻化し、頻発するようになった。

[編集] 3世紀の危機

[編集] 軍人皇帝時代

235年3月18日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。今日では軍人皇帝時代として知られている。パルティア に起こったササン朝ペルシアは東方におけるローマ帝国の脅威となった。その脅威は増してウァレリアヌス帝は259年シャープール1世の捕虜となった。彼の最も年上の息子で相続人でもあるガリエヌスは東方の戦線で戦い勝利を収めた。ガリエヌスの息子が、サロニヌスと前法務官シルウァヌスであり、アグリピナ植民地(いまのケルン)で地域の兵の忠誠心を維持すべく抵抗をしていた。 にもかかわらず属州ゲルマニアの総督マルクス・カッシアヌス・ラティニウス・ポストゥムスは反逆し、アグリピナ植民地を激しく攻撃し、サロニヌスと法務官を殺した。彼らはガリア帝国として知られる独立政権を樹立した。

その首都はアウグスタ・トレヴェロルム(いまのトーリア)で、この政権は急速にゲルマン人とガリア人の統制を拡大していきヒスパニアブリタンニアの全域に及んだ。 この政権は独自の元老院を有し、その執政官たちのリストは部分的に現在に残っている。この政権はローマの統治機構、言語、そして文化を維持し、他のローマ人よりよくゲルマン人と戦った。 しかし、クラウディウス・ゴティクスの治世に(268年270年)、大きな広がりを見せたガリア帝国はローマの支配下に戻った。

ほぼ時を同じくしてパルミラの女王ゼノビア (パルミラ女王)によって東方が掌握されてしまう。

272年アウレリアヌス帝はようやくパルミュラを陥落させて帝国の領土を取り戻した。 東方が穏やかになったことで彼は注意を西方に向けて、翌年ガリア帝国を陥落させた。 これはアウレリアヌスとガリアのリーダーのテトリクス1世及びその息子のテトリクス2世との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。 アウレリアヌスは彼らの命を助けて反乱した二人にイタリアでの重要な地位を与えた。

[編集] テトラルキア(四分割)

ローマ・テトラルキアの彫刻
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ローマ・テトラルキアの彫刻
詳細はテトラルキアを参照。

3世紀の危機の間、275年のアウレリアヌスの死から10年後のディオクレティアヌスの即位までに少なくとも8人の皇帝が暗殺されたが、外的な国境争いはほぼ平穏であった。

ディオクレティアヌスのもと、286年テトラルキアを通じてローマ帝国 の政治的分割が始まり、彼はマクシミアヌスを正帝として西部を与え、コンスタンティウス・クロルスを副帝に任じた(ディオクレティアヌス自身は東の正帝になった。副帝はガレリウス)。このシステムは効果的に、帝国を4つに分割し、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、ローマに対し分離した首都を作った。西では、首都はマクシミアヌスのミラノコンスタンティヌストーリアであった。305年5月1日、2人の正帝が退位し2人の副帝が昇格した。

[編集] コンスタンティヌス

詳細はコンスタンティヌス1世を参照。

西帝コンスタンティウス・クロルス306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマの支配権を要求して、危機が訪れた。308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、リキニウスという名の新参者とで、権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、今や天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが324年9月18日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。

テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が崩御すると、帝国はたびたび東西に分割されたる様になった。

[編集] 再分割

ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されたが、コンスタンティヌス1世337年に崩御すると、3人の息子たちの間で内乱が勃発し、帝国を3分割することになった。西ローマは340年に再統一され、帝国全土の再統一は、353年コンスタンティウス2世によって果たされた。

コンスタンティウス2世は自らの権力のほとんどを東ローマに集中させたので、しばしば最初のビザンチン皇帝と見なされている。その支配のもとで、コンスタンティノープルとして再建されたばかりのビザンティウムの都市は、ローマ帝国の首都として完全に整備されたのである。

361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて崩御すると、コンスタンティウス・クロルスの孫で、コンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが即位した。ユリアヌスが、先帝のササン朝ペルシアとの対戦を継続中に363年戦死すると、ヨウィアヌスがその後を襲ったが、その治世は364年までしか続かなかった。

[編集] 最後の分割

テオドシウス1世没後のローマ帝国の分割。両者の国境は黒線にて表示(白線は現代の国境)。 ██ 西ローマ帝国 ██ 東ローマ帝国
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テオドシウス1世没後のローマ帝国の分割。両者の国境は黒線にて表示(白線は現代の国境)。

██ 西ローマ帝国

██ 東ローマ帝国

皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝国を再び分割し、東側の領地を弟ウァレンスに譲った。東西のどちらの側もフン族ゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、安定した時期がなかなか実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、異教徒が引き起こす政治的な反撥であった。379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの集会所(クーリア)から撤去した。そして高位聖職者(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。

388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝を僭称すると、グラティアヌスの息子である西帝ウァレンティアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。391年にテオドシウス1世が、異教の禁止を西側に発令し、キリスト教化を施行すると、392年フランク族で異教徒の指揮官(en:magister militum)アルボガステスがウァレンティアヌス2世を暗殺した。エウゲニウスという名の元老院議員が西帝として即位するも、394年にテオドシウス1世に倒された。テオドシウス1世は、395年に崩御するまでの1年間、東西の両方を統治した。これは、ローマ帝国の東西を単独の統治者が支配した、最後の機会だったのである。

西ローマは、(摂政スティリコに操られた)皇帝ホノリウスのもとで一時的な安定期を迎えるも、408年にスティリコが死ぬと、その期間も終わった。それから2つに分かれた帝国は、文字通り別々の道を歩んだ。東ローマがゆっくりと建て直しに入って地固めを進めていったとき、西ローマは完全にばらばらになろうとしていたのである。

[編集] 経済とのかかわり

ローマ帝国への蛮族の侵入経路
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ローマ帝国への蛮族の侵入経路

ローマ帝国末期を通じて、西ローマが経済的な下降線を辿ったのに対して、東ローマは、とりわけコンスタンティヌス大帝コンスタンティウス2世のような皇帝が、莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、さほどの経済的な衰微は起きなかった。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ崩壊の伏線となったのである。税収が不十分では、高くつく職業的な軍団を維持することも、雇い入れた傭兵を当てにすることもままならなかったからである。

中央の権力が弱まると、国家として国境属州を制しきれなくなり、致命的なことに、地中海をも掌握できなくなった。歴代のローマ皇帝蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、ひとたびヴァンダル族北アフリカを征服してしまうと、西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。西ローマの諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。

経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。古典古代の時代の経済は、たいてい農業に依拠していたために、耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。これはすなわち、不幸にして、東ローマによる西ローマの建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。

[編集] ローマ征服と西ローマ帝国の滅亡

408年スティリコが没すると、ホノリウス帝が親政を執り、423年に没するまで帝位に就いていたものの、その治世は蛮族(とりわけヴァンダル族東ゴート族)の侵入と帝位簒奪者とが相次いだ。410年に、紀元前4世紀ガリア人の侵入以来、初めてローマが掠奪される。西ローマ帝国において、簒奪者たちによって一貫して引き起こされた不安定状態は、蛮族にとって征服の手助けとなり、5世紀になると蛮族が帝位簒奪者に成り果てた。475年には、かつてアッティラの腹心だったオレステスが、ユリウス・ネポス帝をラヴェンナから追放し、わが子ロムルス・アウグストゥスが皇帝であると宣言したのである。

トレミシス金貨に描かれたネポス帝
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トレミシス金貨に描かれたネポス

いくつかの孤立地帯においてローマ帝国の支配が続いたものの(例:執政官シアグリウス支配下のガリア北西部、アウレリウス・アンブロシウス支配下のブリタニア)、西ローマ全域における帝国の支配権はとうに失われていた。476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠して帝位のしるしをコンスタンチノープルに送り返し、自らイタリア王として立った。

[編集] 最後の皇帝

トレミシス金貨に描かれたロムルス・アウグストゥス帝
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トレミシス金貨に描かれたロムルス・アウグストゥス

西洋史では、西ローマ帝国は、476年9月4日にオドアケルがロムルス・アウグストゥスを廃した時に滅んだとする。しかしながら、事態はそう簡単でも明瞭でもないのである。

ユリウス・ネポスは、まだダルマチアの西ローマ帝国の残骸を支配しており、引き続き西ローマ帝国の統治権を宣言して、東帝ゼノンや、ガリアにおけるソワソン管区(西ローマ帝国の飛び地)の維持に腐心していた将軍シアグリウスからも、正当なる西帝として認知されていた。オドアケルは自らをイタリアの支配者と宣言し、東帝と交渉を始めた。ゼノンは結局オドアケルをローマ帝国のパトリキとして認め、イタリアの副王として受け入れたが、オドアケルがネポスを西帝として公式に承認すべきだとも主張した。オドアケルは譲歩して、ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。オドアケルは主権を決してネポスに返さなかったからである。ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を征服してしまう。

シアグリスも486年にフランク族に敗れるまで、ガリア北部でネポス帝の名で貨幣を鋳造した。しかしながら、西洋史ではユリウス・ネポスはたいてい忘れられており、ロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及されるに過ぎない。

[編集] テオドリック

西ローマ帝国の廃墟の中から振興した東ゴート王国の領地
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西ローマ帝国の廃墟の中から振興した東ゴート王国の領地

ローマ帝国再統一の最後の希望は493年に訪れた。この年オドアケルが、テオドリック大王に掃討されたからである。テオドリックは、帝国の西側、特にローマ市を征服すべく、東ローマ皇帝ゼノンに徴募されていた。テオドリックは東ローマ皇帝に従属し、その副王に任ぜられていた。実のところは、皇帝と対等だったのだが。

テオドリックが526年に没したとき、西ローマはもはや東ローマとは別物になっていた。西側はすっかり蛮族が群雄割拠する地となったのに対して、東ローマは蛮族を斥けてギリシャ化していった。東ローマはその後たびたび西ローマの遺領を征服し直そうと努めたが、往年のローマ帝国の版図を再現するには至らなかった。

[編集] ビザンチンによる再征服

550年の東ローマ帝国。緑色の部分がユスティニアヌス1世によって奪還された領地。
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550年東ローマ帝国。緑色の部分がユスティニアヌス1世によって奪還された領地。

ビザンチン帝国中世を通じて幾度か、蛮族によって占領されていた西ローマの故地を奪還しようとした。最大の成功は、ユスティニアヌス1世の二人の将軍、ベリサリウスとナルセスが535年から545年に行なった一連の遠征である。ヴァンダル族に占領された、カルタゴを中心とする北アフリカの西ローマ領がビザンチン領として奪回された。遠征は最後にイタリアに移り、イタリア全土と、イベリア半島南岸までを征服するに至った。

当時はこれでローマ帝国が救われたかのように思われた。しかしながら、蛮族の影響は、すでに経済的にも文化的にも、ローマのかつての属州に深すぎる損害をこうむっていた。これらの土地は、保持するにはひどく経費がかさんだ上に、これらの地域における蛮族の侵入と人口増加は、帝国を一つにまとめていたローマの文化やアイデンティティを破壊し、もしくは大きく損なっていたのである。

その後もビザンチン帝国は、時々かつての西ローマ領を征服したにもかかわらず、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかった。東西の差異が大きくなると、2つの区域は競争関係に入った。

ビザンチン帝国はユスティニアヌス1世の後にも存続したものの、その後は財政破綻と宗教対立、サーサーン朝との紛争に苦しめられ、さらには新興勢力イスラム帝国スラヴ人などによって多くの領土を失い、一時はイスラム軍にコンスタンティノープルを包囲されるまでになってしまった。このため、歴代皇帝は主にバルカン半島とアナトリアを中心とした地域の防衛に集中せざるを得なくなり、軍事力を東方のイスラム対策に割かねばならなくなってしまったのである。

[編集] 遺産

ヨーロッパにおけるロマンス諸語
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ヨーロッパにおけるロマンス諸語

西ローマ帝国がばらばらになるにつれて、属州を支配におさめた蛮族将軍が、ローマの数々の法規や伝統を覆そうと、できる限り頑張った。これらの蛮族はすでにキリスト教化していたが、たいていアリウス派の信者だったのである。彼らも早晩カトリックに改宗し、ローマ化していた地域住民の忠誠と同時に、強力なカトリック教会の認知と支持を得ようとした。また、当初は部族の掟にしたがっていたが、徐々にローマ法に感化され、次第にそれを用いるようになった。

ローマ法、とりわけユスティニアヌス1世の勅命で編纂された『ローマ法大全』は、近代大陸法の基礎となった。対照的に英米法は、古いイギリス法に基づいている。

ラテン語は死語になってしまったが、言語として消え去ったわけではない。俗ラテン語蛮族の言語と混じり合って、イタリア語フランス語スペイン語ポルトガル語ルーマニア語ロマンシュ語といった現代のロマンス諸語の起源となった。また英語ドイツ語オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。ラテン語の「純粋な」かたちはカトリック教会において余命を保ち(ミサの挙行では1970年までラテン語が使われた)、多くの国々でリングワ・フランカとしての役割を果たした。過去においては論文や理論書の執筆にラテン語が使われており、今でも医学法律学外交専門家研究者に利用されている。ちなみに学名のほとんどがラテン語である。

ラテン文字は、JKWZが付け足され、文字数が増えた。ローマ数字は(たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいて)依然として使われているものの、ほとんどがアラビア数字に取って代わられた。

単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。フランク王国ロンバルディアの支配者カール大帝は、800年に教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠された。これが神聖ローマ帝国の由来であり、フリードリヒ1世フリードリヒ2世は「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執し、カール5世ヨーロッパ新大陸にまたがる世界帝国の盟主となった。ビザンチン帝国が滅びると、ロシアツァーリは自らを「第3のローマ」の皇帝をもって任ずるようになった。これだけでなく、ビザンチンを滅亡させた当の(しかもキリスト教国ですらない)オスマン帝国スルタン(たとえばメフメト2世スレイマン大帝)でさえ、(コンスタンティノポリス総主教を庇護することにより)自分をローマ皇帝の真の後継者であると主張して憚らなかった。しかし、ローマ帝国の再生の目論見に成功した者は、誰一人としていなかったのである。

西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、5世紀後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。蛮族が侵入するにつれて多くの改宗者を生み出すと、中世の中ごろ(9世紀10世紀)までに中欧西欧北欧のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。

西ローマは、帝国として倒れてからも、ゲルマン人スラヴ人に最終的に勝利し、これらを圧倒した。教会に援助された宣教師が北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中にはびこっていた異教を駆逐したのである。

[編集] 西ローマ皇帝

[編集] ガリア皇帝(259年-273年

  • ポストゥムス: 259年-268年
  • ラエリアヌス: 268年(簒奪者)
  • マルクス・アウレリウス・マリウス: 268年
  • ウィクトリヌス: 268年-271年
  • ドミティアヌス: 271年(簒奪者)
  • テトリクス1世: 271年-273年
    • テトリクス2世: 271年-273年(テトリクス1世の息子で共同統治者)

[編集] テトラルキア(四分治制) (293年-313年)

まず正帝を記し、字下げして副帝および摂政を併記する。

[編集] コンスタンティヌス朝 (313年-363年)

[編集] 王朝無し (363年-364年)

[編集] ウァレンティニアヌス朝 (364年-392年)

  • ウァレンティニアヌス1世: 364年-375年
    • グラティアヌス: 367年-375年
  • グラティアヌス: 375年-383年
    • ウァレンティニアヌス2世: 375年-383年
  • マグヌス・マクシムス: 383年-388年 (簒奪者)
  • ウァレンティニアヌス2世: 383年-392年

[編集] 王朝無し (392年-394年)

[編集] テオドシウス朝(394年-455年)

[編集] テオドシウス朝断絶後 (455年-480年)

オレステスは、蛮族の傭兵の叛乱軍によって殺害された。その指導者オドアケルが、西帝ネポスと東帝ゼノンの正当な代理人として、イタリアの支配権を引き受けた。

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