三頭政治
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三頭政治とは古代ローマでとられた政治体制。カエサルの躍進の切欠となった。
[編集] 第一回三頭政治
紀元前60年、執政官をめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級(経済界)を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに三頭政治が結成される。三頭政治はある種の秘密協定であり成文化された協定が結ばれたものではない。民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。
[編集] 第二回三頭政治
独裁者となったカエサルが殺害されると、その後に権力を握ったのはカエサルの後継者たちであった。その中で、カエサルの遺書で後継者として指名されたオクタウィアヌス、カエサルの配下でガリア戦争やポンペイウスの内乱の鎮定などで活躍したマルクス・アントニウス、カエサルの副官で最高神祇官のレピドゥスの三人が組んで第二回三頭政治が展開された。 三人は国家再建三人委員に就任し、永年の政敵キケロ、カエサル暗殺の首謀者ブルートゥス、カッシウスなどの共和政派の巨頭を次々と粛清していった。
この三頭体制は、カエサルによる第一回三頭体制が実力者同士の非公式の密約であったのと異なり、市民集会によって認定された正式な国家機関であった。しかし、そもそも元老院や共和派に対抗するための一時的な同盟関係という側面が強かったため、政敵が排除されると各自は次第に勢力を競い合うようになっていった。
第一回三頭政治が当時無名だったカエサルを一気に実力者に押し上げたのと同じくように、カエサルが暗殺された当時弱冠18歳だったオクタウィアヌスは第二回三頭政治の成立によって実力を蓄えていき、後に帝政を開始する基盤を整えた。