執政官
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執政官(しっせいかん、consul、コンスル)は、古代ローマでの政務官の職名。「執政官」の他に訳語として統領を用いることもある。
都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。元老院が候補者を選び、民会で選任される。しかし、元老院の影響力が強く、その権限はかなり限定されている。任期は1年で、元来再選は許されなかったが、次第に再選も許されるようになった。毎年1月1日に就任する(紀元前153年より前は3月1日)。定員2名。2名としたのは、独裁を防ぐためであり、それ以前の王政が復活するのを防ぐ意味もあった。ラテン語の consulus は「共に歩く者」を意味する。1月1日に就任する執政官は、正規執政官と呼ばれる。執政官が任期中に死亡すると後任が選挙によって選ばれる。この執政官はとくに補充執政官(consulus suffectus, 略して cons. suff.)と呼ばれる。
古代ローマでは、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。以下に例示する。
- 「執政官 Publius Cornelius Scipio AfricanusとPublius Licinius Crassus が治めた年」(西暦では紀元前205年に相当)
執政官には、先導警士(リクトル)が付く特権があった。このリクトルはファスケスと呼ばれる斧の柄を束ねたものを捧げ持ち、これは執政官がローマ市民から権力を委任されたことを示す権威の標章であった。このファスケスは現代イタリア語ではFascio(ファッショ)で、ファシズムの語源ともなった。
執政官が初めて置かれたのは、伝説では共和政へ移行された紀元前509年と信じられている。しかし初期のローマ共和国史は伝説の域を出ず、また執政官も連続して置かれたわけではなかった。戦時において選出される執政官には、軍事的才能と名声が重んじられたが、執政官の選挙は常に政治的な関心を集めた。初期には執政官は貴族(パトリキ)のみに独占されていたが、紀元前366年はじめて平民が執政官となった。たびたび元老院によって独裁官が置かれることがあった。
共和政を廃し帝政に移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、皇帝やその後継候補者が就く栄職として残った。しかし541年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀にギリシャ語が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。
現在は領事官にconsulの名が残っている。