東ゴート王国
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東ゴート王国(Ostrogoths、またはEastern Goths、493年 - 552年)は、大王テオデリックによって建国された東ゴート族アマル王朝の王国。首都はラヴェンナ。東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ帝国滅亡後、イタリアのほぼ全域を支配下においた。
テオデリックの治世において、東ゴート王国は西ローマの政治機構を再整備し、それまでのローマ法を遵守しつつ新たな国家の構築が進められた。しかし、テオデリックの死後、後継者問題や宗教対立によって国内は混乱しはじめ、ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世がこれに乗じて東ゴート王国に軍を派遣。東ゴート王国はこれに屈服して滅亡した。
王国としては短命であったが、ローマ帝国末期から続く戦乱の中にあって、諸外国と政治的・軍事的均衡を保ち、つかの間ながらイタリア半島にゴート人とローマ人による共存と平和を実現した。
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[編集] 歴史
[編集] 王国の成立
東ゴート王国の建国は、476年に西ローマ帝国が滅びたことに始まる。ゲルマン民族の一派でスキル族の出身であった西ローマ帝国の親衛隊長 オドアケルは、宰相の地位に収まっていたオレステスを討伐、彼の子で皇帝となっていたロムルス・アウグストゥルスを廃位した。
オドアケルは東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの交渉により西ローマ帝国の宰相としての地位を得、またヴァンダル王国との折衝ではシチリア島の返還に成功、西ゴート王国は南プロヴァンスの割譲によって国境線問題を解決するなどの成果を収めた。 しかし、対外的な成功を収めたオドアケルは次第に東ローマ帝国の内政に干渉するようになり、公然と反ゼノン派を支持するようになった。このため、ゼノンは東ゴート族の王テオデリックと同盟を結び、イタリア遠征とその統治を約束した。
東ローマ帝国からの正式な要請を受けたテオデリックは、488年、民族を引き連れてモエシアを出立した。489年8月28日、イゾンツォ川に到達したテオデリックの軍は、オドアケルの派遣した軍と衝突、このイゾンツォの戦いでテオデリックは勝利を収め、翌月にはヴェローナに到達した。
ヴェローナのオドアケル軍に勝利したテオデリックは、続いてメディラヌム(現ミラノ)を占拠、当地でのオドアケル側軍事長官であったトゥファを味方に引き入れることに成功した。しかし、テオデリックの命でラヴェンナ攻略に向かったトゥファは再度寝返り、テオデリックの軍をティキヌム(現パヴィア)に後退させ、オドアケルの援軍とともに市を包囲した。
490年、西ゴート王国の王アラリック2世の援軍を得たテオデリックは、ティキヌムを包囲したオドアケルの軍勢を放逐すると、イタリア各地を占領、逆にオドアケルが籠城するラヴェンナを包囲した。海上を全面封鎖され、陸戦でも戦果を挙げられなかったオドアケルは、493年3月5日、ラヴェンナ司教ヨハネスの仲介により降伏した。テオデリックは彼を謀殺し、イタリア王に即位。東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世は、497年に王位の認可を下し、東ゴート王国が成立した。
[編集] 大王テオデリックによる治世
イタリアとパンノニアを平定したテオデリックは外交に力を入れ、近隣国と積極的に婚姻関係を結んだ。それまで、テオデリックは側室のみを持っていたが、493年3月にはフランク王クロヴィス1世の娘オードフレダを正室に迎えた。また、娘のティウディゴートを西ゴート王アラリック2世に、オストロゴートをブルグント王ジギスムントに嫁がせ、500年頃には妹のアマラフリーダをヴァンダル王トラサムントに輿入れさせた。
こうした婚姻政策は、諸勢力との軋轢を排除するためのものであったが、フランク王国は502年にブルグント王国を占領、507年には西ゴート領であった南フランスに侵入し、勢力の拡大を計った。フランク王国の拡大を警戒したテオデリックは、フランク王国に抵抗するチューリング王国やアルマン人を保護したほか、508年、将軍イッバの指揮する軍を差し向け、アルルを占拠、南フランスからフランク王国の影響を一掃した。
しかし、テオデリックのフランク王国封じ込めの動きや、パンノニアの国境にあった山賊集団の支援は、東ローマ帝国に警戒感を持たせることになった。東ローマ帝国は、テオデリックを牽制するため、イタリア沿岸に艦隊を差し向けたほか、ヴァンダル王国の懐柔に乗り出した。 518年には、東ローマ皇帝となったユスティヌス1世がアリウス派を弾圧しはじめ、ローマ総主教がこれに同調したため、東ゴート王国は動揺をきたした。
東ローマ帝国の圧力は、まずヴァンダル王国との反目というかたちで現れた。523年にトラサムントが死んだことによって、ヴァンダル王国は東ローマ帝国よりの姿勢を採り、テオデリックの娘アマラフリーダら親東ゴート派を殺害した。さらに東ローマ帝国は、ローマ貴族で宮廷執政官であったボエティウスの処刑をアリウス派による迫害とし、アリウス派への信仰を禁止した。これに対してテオデリックは、ローマ総主教ヨハネス1世をコンスタンティノポリスに派遣して弁明を行ったが、全く効果はなかた。テオデリックは期待に応えられなかったヨハネス1世を軟禁し、憤死させたが、これがかえって東ローマ帝国との軋轢を深めることになった。
[編集] アマル王家の断絶
526年、テオデリックは男子後継者をもうけることなく死に、テオデリックの娘アマラスンタの子アタラリックが国王に即位した。しかし、アタラリックは幼少であったため、アマラスンタが摂政として政治の一切を取り仕切った。彼女の政治はテオデリックの理念に忠実なもので、東ゴート王国はしばらく平穏だったが、532年から533年にかけて情勢はにわかに剣呑になっていった。かねてよりテオデリック、アマラスンタと反目していたテオデリックの甥テオダハドや、軍最高司令官であったトゥリンら国内の反アマラスンタ勢力は、公然と彼女の政治批判を行うようになり、アマラスンタは東ローマ帝国への亡命を真剣に考えるようになった。しかし、彼女はフランク王国の軍勢が北イタリアのアルルに侵攻したことを機に、トゥリンら反逆の中心人物を鎮圧に派遣、同地で刺客に襲わせて殺害した。
534年10月2日 、アタラリックが早逝したため、アマラスンタは東ゴート王国の女王として即位した。この女王即位に関して、彼女はユスティニアヌスとの同盟交渉を行い、その承認を得ている。反目していたテオダハドを懐柔し、彼を共同統治者として指名したが、結果的にはこれがアマル家没落の原因となった。534年12月、テオダハドは突如反乱を起こし、アマラスンタをローマ北方のボルセーナ湖のマルタナ島に幽閉した。東ローマ帝国からの積極的な庇護も受けられなかった彼女は、535年4月30日、暗殺された。
テオダハドは、ユスティニアヌスにアマラスンタ暗殺の釈明をおこなったが、東ローマ帝国は庇護者である女王暗殺を帝国に対する挑戦とし、開戦の準備を始めた。一方テオダハドは、アマラスンタ暗殺を知ったローマ人たちが争乱を起こしかけたため、国内の内乱を防止するために軍を展開せざるを得なかった。テオダハド討伐のために派遣された将軍ムンドの陸戦部隊は、535年末までにダルタティア全土を制圧、また将軍ベリサリウス率いる艦隊は535年12月31日にシチリアを落とした。
皇帝軍の侵攻を畏れたテオダハドは、皇帝使節のペトルスに対し停戦交渉をはじめたが、ベリサリウスがカルタゴの反乱鎮圧に向かい、北ではゴート軍がダルマティアのムンド率いる東ローマ軍を殲滅したため、テオダハドは一転して東ローマに対する強硬姿勢をとりはじめた。536年、カルタゴを平定したベリサリウスはイタリア本土に向け進軍、レッジョ、ナポリを陥落させた。政治的にも軍事的にも有効な手段をとらなかったテオダハドは、ローマ郊外に集結したゴート軍に合流したが、ゴート軍の司令官たちは536年11月 、テオダハドに退位を迫った。このため、テオダハドは陣地からラヴェンナに逃走するが、途上でゴート軍の刺客に暗殺された。
[編集] ゴート戦争と王国の滅亡
王位は、ゴート軍指揮官ウィティギスに継承された。彼は北イタリアの全軍の集結と王位の確立を計るためラヴェンナに撤退したが、この間、ベリサリウスに、ローマ、ペルージャなどを占領された。ウィティギスは王位継承を正当なものとするため妻と離婚、アマル家の生き残りでアマラスンタの娘マタスンタと強引に婚姻関係を結んだ。
537年、フランク王国との交渉でプロヴァンス一帯を譲渡するかわりに和平を結ぶと、11月末には全軍をラヴェンナに集結させ、ローマに進軍した。537年2月21日に始まるローマ攻城は1年以上にも及び、双方とも壮絶な消耗戦となった。結果的にローマを落とせなかったウィティギスは休戦を申し入れたが、ベリサリウスは密かに騎兵部隊を迂回させ、ラヴェンナ直轄領に攻撃をしかけた。このためゴート軍はローマの包囲を解き、ラヴェンナに撤退した。
538年6月21日、ベリサリウス率いる皇帝軍はローマを出立し、アウクシムム(現オジーモ)の要塞を包囲、同じ頃ジェノヴァに揚陸した東ローマ軍はミラノを占領した。ゴート軍はフランク王国からの援軍を得てミラノを奪還したが、フランク軍がミラノを略奪したため市民感情は険悪なものとなった。さらにテウデベルト率いるフランク軍が北イタリアに進軍し、ゴート軍も皇帝軍も見境なく攻撃したばかりか、ポー川に女性を人身御供として沈めたため、以後、ゴート軍はフランク王国との交渉を断った。両軍の戦闘はアドリア海沿岸に拡大したが、遂に539年、ベリサリウス率いる皇帝軍はラヴェンナを包囲、海上を封鎖した。ウィティギスはベリサリウスとの交渉の末、540年5月、城門を開放し、降伏した。
和平交渉を利用してラヴェンナに入城したベリサリウスは、ウィティギスを捕えた後、東ローマに帰還した。しかし、ゴート軍は西ゴート王国の王テウディスの甥ヒルデバルトを新王とし、なお抵抗を続けた。ヒルデバルトはウィティギスの甥ウライアスとの確執から暗殺されるが、彼の甥でトレヴィゾ方面軍を指揮していたトティラが王位に就き、東ゴート軍は勢力を回復することになった。東ローマ軍はラヴェンナを出立し北上したが、劣勢のはずのトティラの軍勢に敗北して後退、542年にはファウェンティア(現ファエンツァ)の戦いでも大敗北を喫し、戦線はずるずると南下した。東ローマ軍の小部隊はイタリア各地の防備を固めていたが、トティラはこれを無視して南下、543年にはナポリを奪還した。ゴート軍は各地の東ローマ軍と衝突し、重要拠点を陥落、546年12月にはローマを落とし、一時的に優位に立った。ベリサリウスは再びイタリアに赴任したが、地元の指示を得られず、その後の戦況は膠着状態に陥った。
552年4月、本国に召還されたベリサリウスに代わり、総司令官ナルセスが東ローマ軍を率いて北方からイタリアに侵入した。ナルセス軍は工兵隊を駆使してラヴェンナを落とし、補給を行うとローマに向けて進軍を開始した。552年、ローマを出立したゴート軍とナルセス率いる東ローマ帝国軍は、ブスタ・ガロルム高原で対峙した(タギナエの戦い)。この戦いで、ナルセスは前線を全て弓兵でかため、突撃するゴート軍を殲滅、トティラを討取った。
トティラ亡き後、残存兵を引き連れたテヤが王となったが、サレルノ近郊のモン・ラクタリウスの戦いで戦死した。ゴート軍はその後も王を担ごうとしたが実現に至らず、東ゴート王国は滅びた。
[編集] 統治機構
東ゴートの王位は、テオデリックとゼノンの間の公約に基づき、東ローマ帝国が承認する。テオデリックは王の称号を得ており、実質的には執政官と軍司令長官としての役割を担った。東ローマ帝国は、テオダハドを除いて、テオデリックからウィティギスまでを東ゴートの王と認めている。敵対していたウィティギスを王位に認めたのは、テオデリックとゼノンの公約を正式に無効にするためである。ちなみにテオダハド、ヒルデバルト、トティラ、テヤは東ローマ帝国の認める東ゴート王ではなく、盟約においてらは反乱軍であり、実際、東ローマ帝国はそのように対処していた。
東ゴート王国の政治機構は、ローマの元老院、執政官の制度をほぼそのまま受け継いだが、新たにゴート人による監督官と呼ばれる各地方を管轄する軍官を置いた。軍事関連の任務を遂行するが、裁判権も有し、紛争に際しては法規に詳しいローマ人による補佐が必須とされた。しかし、このような政治機構が機能しえたのは、テオデリックからアマラスウィンタまでの平和な治世においてである。
東ゴート軍は騎馬部隊を中心とする陸戦隊が編成されており、もっぱら長槍による騎馬突撃を得意とした。歩兵も精強であった。海軍はまったくといって良いほど組織されなかった。軍は基本的にゴート人によって編成されたが、地方単位でもローマ人との混成部隊が組織され、なかにはユダヤ人らが参加した地元民兵組織もあった。
[編集] 文化
国家としては短命で、かつ平和な時期も短かったため、ローマ文化とゴート文化の融和により生成されるべき独自の文化は育たなかった。テオデリックが東ローマの宮廷で育ったこともあり、文化面ではビザンティン文化の影響が強く、アマラスンタはアタラリックにローマ的な教育を行っていた。
今日、東ゴート王国の文化と呼べるものはあまり残ってはいないが、ラヴェンナにはテオデリックによって建設されたサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂、アマラスンタによって着手されたサン・ヴィターレ聖堂、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂が残っている。これらはビザンティン建築の代表的な遺構であるが、特にサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は数少ないアリウス派教会堂の遺構としても貴重である。ローマ人と東ゴート族が折り合わなかった理由はいくつかあるが、とりわけ彼らがアリウス派キリスト教徒であったことは大きい。アリウス派美術は東ゴート族が残しえることのできた美術だったかもしれないが、ラヴェンナが東ローマ帝国の属州に再編入された時、そのほとんどが失われた。
[編集] 関連作品
『闇よ落ちるなかれ』Last Darkness
- テオドリック大王の死後の東ゴート王国に迷い込んだ現代アメリカ人が大活躍する歴史改変小説。