コンスタンティヌス1世
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コンスタンティヌス1世、全名ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(Gaius Flavius Valerius Constantinus, 272年2月27日 - 337年5月22日)は、古代ローマ帝国の皇帝(在位306年 - 337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことからコンスタンティヌス大帝の名で広く知られる。また、キリスト教を公認してその後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、さまざまな教会で聖人とされている。
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[編集] 概略
ディオクレティアヌスの時代に副帝を務めていたコンスタンティウス1世の子として生まれたコンスタンティヌスは、312年に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス引退後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。330年には帝国東方の交易都市であるギリシャ人の植民都市ビュザンティオン(現在のイスタンブル)に新首都コンスタンティノポリスを建設した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌスは官僚制を整備し、属州における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制を強化した。経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った。
宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、ネロ以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパへ浸透するきっかけとなる一方、教義決定に皇帝の介入を受けることにもつながった。
コンスタンティヌス自身は、ブリタニア出身のキリスト教徒ヘレナを母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受けた。
東方正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇され、コンスタンティノポリスを首都とした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、彼と同じ名(ギリシャ語形はコンスタンティノス)を持つ皇帝が多数即位した。のみならず、東ローマ帝国はコンスタンティヌスのしいた専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌスを「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ歴史家もいる。
[編集] 生涯
[編集] 皇帝になるまで(272年 – 306年)
コンスタンティヌスが生まれたのは、272年か273年の2月27日、モエシア属州のナイッスス(現セルビアのニシュ)であった。ローマの将軍コンスタンティウス・クロルスとその初めの妻へレナとの間の子である。ヘレナは宿屋の娘で、当時まだ16歳だった。父コンスタンティウスは、292年頃にへレナと離縁して、西ローマ帝国の皇帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアーナ・テオドラと結婚し、テオドラとの間にコンスタンティヌスと半分血が繋がった弟妹6人をもうけた。
293年にテトラルキア(四分統治)が始まり、2人いる副帝の片方に父が任命された。若きコンスタンティヌスはニコメディアにあるディオクレティアヌス帝の宮廷に仕えた。305年、正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが揃って退位し、父コンスタンティウスがマクシミアヌス帝の西側正帝の地位を引き継いだ。権力争いの結果、新しい副帝には、皇帝の嫡男(コンスタンティヌスやマクシミアヌスの子マクセンティウス)ではなく、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクシミウス・ダイアとが選ばれた。
その後、コンスタンティヌスはニコメディアを去って、ガリアにいる父コンスタンティウス帝のもとに行った。ところが、コンスタンティウス帝は、カレドニア(現スコットランド)のピクト人に対する遠征の途中で病を発し、306年7月25日にエボラクム(ヨーク)で亡くなってしまった。アレマン族の血を引くクロクス将軍をはじめとする軍団は、亡きコンスタンティウス帝を慕っており、息子コンスタンティヌスを新しい正帝とするとの宣告を直ちに発した。
コンスタンティヌスは、東の正帝ガレリウスに対し、父の後を継ぎ西の正帝となったことを承認するように求めた。しかし、テトラルキア制度の元でコンスタンティヌスによる皇位継承は適法ではない。前正帝コンスタンティウスは次に正帝となる副帝を指名しているのだから、いきなり正帝を名乗るコンスタンティヌス(またはその軍団)は305年に制定した皇位継承ルールを無視していることになる。このためガレリウスは、コンスタンティヌスが父の遺領をそのまま支配することを認めたものの、位は副帝として、西の正帝の座にはセウェルスを昇進させた。
[編集] 並立する皇帝の1人として(306年 – 311年)
コンスタンティヌスの支配領域はブリタンニア、ガリア、ゲルマニア、およびヒスパニアだった。そして彼は、重要なライン川国境線を拠点に、ローマ軍団の中でも大軍を指揮した。ガリアはローマ帝国の中でも肥沃な地域だったが、3世紀の危機で被害が大きく、広い地域が荒れ果て、都市は破壊されていた。このため、ガリアに駐在した(主にトリーアに居住した) 306年から316年にかけて、コンスタンティヌスは父と同じくライン川国境の守備とガリア属州の再建とに尽力した。
コンスタンティヌスは、父の死後すぐに、父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻ってフランク人の蜂起を鎮圧した。308年にも再びフランク人制圧のために遠征した。これにも勝利した後、ライン川の右岸に常設の要塞を築こうと考え、ケルンにてライン川を渡る橋を築いた。310年にも再び遠征したが、マクシミアヌスの反乱(下記参照)のために途中で中止となった。フランク人制圧にコンスタンティヌスが最後に遠征したのは、イタリアから帰還した313年で、このときも勝利を収めた。治世の安定を目的とするコンスタンティヌスは、短時間で目的を達成するためには厳しい手段も選んだ。反逆する部族に対して冷酷なまでの厳しい処罰を与えることも多く、軍事力を誇示するためにライン川国境の内側で敵を倒したり、競技場で囚人を虐殺したりすることもあった。結果的にはこの方法は成功し、コンスタンティスの残る治世の間、ライン川国境は比較的平穏だった。
テトラルキアの元での帝国内部の争いには、コンスタンティヌスはあまり関らなかった。307年、正帝マクシミアヌス(305年に退位したが、この頃政界に復帰していた)がコンスタンティヌスを訪ね、マクセンティウス帝とセウェルス 帝およびガレリウス 帝との争いでの助力を願った。コンスタンティヌスはマクシミアヌスの娘ファウスタと結婚して同盟を結び、マクシミアヌスによって正帝への昇格を認められた。しかし、これにも関らず、コンスタンティヌスはマクセンティウスの動きに何も干渉することは無かった。マクシミアヌスは、息子マクセンティウスを退位させることができないまま、308年にガリアに戻った。この年の終わりにカルヌントムで会合が開かれて、ディオクレティアヌス、ガレリウス、マクシミアヌスが会談した結果、マクシミアヌスは再び退位を余儀なくされ、コンスタンティヌスは副帝に戻されることになった。
309年、コンスタンティヌスがフランク人を制圧する遠征に赴いている間に、マクシミアヌスは義理の息子であるコンスタンティヌス対して反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧され、マクシミアヌスは落命した(殺されたか自殺に追い込まれたかは不明)。
コンスタンティヌスもマクシミウス・ダイアも、自分たちが副帝でリキニウスが正帝になったことを不満に思い、自分で勝手に正帝として振舞った。この既成事実を310年にガレリウスが追認したので、公式に4人の正帝が並立する事態となった。311年にガレリウスが死ぬと、テトラルキア制度を守ろうとする権威者はもはやいなくなったため、この制度は急に退歩していった。この後に続く権力争いでは、コンスタンティヌスアはリキニウスと同盟を結び、マクシミアヌスは未だ公式には簒奪皇帝とみなされているマクセンティウスに接近した。
[編集] 唯一の皇帝になる(312年 – 324年)
312年の初めの頃、コンスタンティヌスは軍隊を伴ってアルプスを超え、マクセンティウスを襲撃した。彼はトリノとヴェローナで戦ってイタリア北部をすばやく征服し、ローマに兵を向けた。そして、ミルヴィオ橋の戦いでマクシミアヌスを破って西の正帝となり、西ローマ帝国全体の支配者となった。その後、彼は徐々に軍事力を強化し、テトラルキアで競合する他の皇帝たちに優位になっていった。
313年、彼はミラノでリキニウス帝と会談し、半分血が繋がった妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアーナをリキニウスに嫁がせて同盟を固めた。この会合において、2人の皇帝は連名でいわゆるミラノ勅令を発し、帝国内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。ところがこの会談中に、リキニウスに敵対するマクシミアヌス・ダイア帝がボスポラス海峡を渡りリキニウス領土に侵攻したとの知らせが入り、会談は打ち切られた。戦地に向かったリキニウスは結局マクシミアヌス・ダイアを破り、東ローマ帝国の完全な支配を取り戻した。この後、2人になった皇帝コンスタンティヌスとリキニウスの関係は冷え込んでいき、314年か316年に争いが起こってコンスタンティヌスが勝利した。317年のマルディアの戦いにて両者は再び衝突し、その結果、コンスタンティヌスの息子クリプスおよびコンスタンティヌス2世と、リキニウスの息子リキニアヌスを副帝に据えることで両者は合意した。
320年、リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加えた。これがやがて西のコンスタンティヌス帝への対決につながって内戦となり、その内戦は324年に最も激しくなった。古来から伝わる異教崇拝(ペイガニズム)の勢力を代表するゴート族の傭兵がリキニウス帝を支えた。コンスタンティヌス帝と配下のフランク人はキリスト教を象徴するラバルムの旗印の下に行軍した。かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、数では劣ったようだが熱意に勝るコンスタンティヌス軍が、324年のアドリアノープル、ヘレスポント、クリュソポリスなどの戦いを制した。敗れたリキニウスは翌年に死去し(コンスタンティヌスに対する陰謀の罪で処刑された)、これによって、コンスタンティヌスは全ローマ帝国で唯一の皇帝となった。[1]
[編集] ローマの新首都の建設
リキニウスの敗北が意味したものは、過去のローマの時代の終焉であり、東ローマ帝国がローマ帝国の中心となる時代の始まりでもあった。教育も富も文化財も、東に中心が移ることとなった。コンスタンティヌスはビュザンティオンの都市を再建してノバ・ローマ(新ローマ)と名づけ、ローマに倣って元老院や役所を設置した。この都市は聖十字架やモーゼの鞭をはじめとするキリスト教の聖遺物に守護されていたと言われる。ローマの神々への崇拝も残るものの[2]、旧来の神々を描いた図の多くは、キリスト教の象徴主義の図に代えられたり、加筆されたりした。アプロディテ神殿が建てられるべき場所には、新しく聖使途教会が建てられた。後の世の人は、コンスタンティヌスはこの場所に導く啓示を受けて、彼だけが見える天使が案内したと伝えた。死後、彼が作り上げた新しい首都はコンスタンティノポリスと呼ばれるようになった。[1]
[編集] 晩年まで(326年 – 337年)
326年、長男クリプスがコンスタンティヌスの2度目の妻ファウスタと密通したとの告発を信じ、コンスタンティヌスはクリプスを裁判にかけて処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとして、ファウスタも処刑された。
神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、コンスタンティヌスは337年に亡くなる少し前に洗礼を受けた。これは当時の風習で、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった[3]。ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、異端とされたアレイオスを信奉するアリウス派でありながらも司教の座を保っていたニコメディアのエウセビウスに説得されたためだった。
キリスト教に改宗したにもかかわらず、彼は神格化された(これは、キリスト教に帰依した後の他の皇帝も同様である)。彼の遺体はコンスタンティノポリスに運ばれて聖使徒教会に埋葬された。
[編集] 後継者
コンスタンティヌスの後継者には、彼とファウスタの間に生まれた息子3人、すなわちコンスタンティウス2世、コンスタンティヌス2世とコンスタンスがなった。コンスタンティウスの支持者によって多くの血縁者が殺害された。彼には2人の娘コンスタンティアーナとヘレナがおり、ヘレナはユリアヌス帝の妻となった。
[編集] コンスタンティヌス1世とキリスト教
コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教皇帝として有名である。
それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年-68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年-305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは自由だったが、公式に認められてまではいなかった。
5世紀の歴史家ソゾメン(en:Sozomen)によると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者バートランド・ラッセルを始めてとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。
伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルヴィオ橋の戦いに向かう行軍中に、太陽の前に逆十字とギリシア文字ΧとΡ(ギリシャ語でキリストの先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。なお、この伝説はラクタンティウス(Lactantius)などいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4~5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。
[編集] 年譜
- 272年 - 誕生。当時、父コンスタンティウス1世(クロルス)はまだ士官であった。
- 292年 - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となったガレリウス(在位:305年 - 311年)に従軍する。
- 306年 - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタニア滞在中の父コンスタンティウス(在位:305年 - 306年)のところへ向ったが、父コンスタンティウスが死去。ガレリウスの部下セウェルスが西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。
- 312年 - イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスをミルウィウス(ミルヴィオ)橋の戦いで破りローマへ入城、西方の正帝となる。
- 313年 - ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認。
- 324年 - 東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。
- 325年 - キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。
- 330年 - ローマからバルカン半島のビュザンティオンに遷都し、「コンスタンティヌスの町」を意味するコンスタンティノポリスに改称。
- 337年 - 小アジアのニコメディアで洗礼を受け、その直後に死去。
[編集] 脚注
- ↑ 1.0 1.1 MacMullen, 1969
- ↑ エルミタージュ美術館に収蔵されるカメオ[1]にはコンスタンティヌスが新都市の運命の女神ティケに戴冠されている図が描かれている
- ↑ この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた。(Thomas M. Finn(1992), Early Christian Baptism and the Catechumenate: East and West Syria.、Philip Rousseau(1999). "Baptism", in Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World, ed. Peter Brown)
- ↑ 「ラバルム」を参照
[編集] 参考文献
- The Cambridge Companion to the Age of Constantine (Cambridge Companions to the Ancient World), edited by Noel Lenski. New York: Cambridge University Press, 2005 (hardcover, ISBN 0-521-81838-9; paperback, ISBN 0-521-52157-2).
- Chuvin, Pierre; Archer, B. A. (translator). A Chronicle of the Last Pagans. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1990 (ISBN 0-674-12970-9).
- Chapman, John. "Donatists", The Catholic Encyclopedia (1909).
- "Constantine", Encyclopaedia Britannica (1911).
- Eric Robertson Dodds. The Greeks and the Irrational. Berkeley: University of California Press, 1964.
- Dodds, Eric Robertson. Pagan and Christian in an Age of Anxiety: Some Aspects of the Religious Experience from Marcus Aurelius to Constantine. Cambridge University Press, 1965.
- エウセビオス. The Life of the blessed Emperor Constantine in four books from 306 to 337.
- Fowden, Garth. "The Last Days of Constantine: Oppositional Versions and Their Influence", The Journal of Roman Studies, Vol. 84. (1994), pp. 146–170.
- Charles George Herbermann; Grupp, Georg. "Constantine the Great", The Catholic Encyclopedia (1908).
- Holloway, R. Ross. Constantine and Rome. New Heaven, CT; London: Yale University Press, 2004 (hardcover, ISBN 0-300-10043-4).
- Jones, A.H.M. Constantine and the Conversion of Europe. London: English University Press, 1948; London: Macmillan, 1949.
- Kousoulas, D.G. The Life and Times of Constantine the Great: The First Christian Emperor. Bethesda, MD: Provost Books, 2003 (paperback, ISBN 1-887750-61-4).
- Lactantius, (240–320). Of the Manner the in Which the Persecutors Died.
- MacMullen, Ramsay. Constantine. Dial Press, 1969.
- MacMullen, Ramsay. Christianizing the Roman Empire A.D. 100–400. New Heaven, CT; London: Yale University Press, 1984.
- MacMullen, Ramsay. Changes in the Roman Empire: Essays in the Ordinary. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1990.
- MacMullen, Ramsay. Enemies of the Roman Order: Treason, Unrest, and Alienation, Harvard, 1966.
- Odahl, Charles Matson. Constantine and the Christian Empire. Cambridge, MA: Harvard University Press, 2004.
- Rassias, Vlassis R. Es Edafos Ferein, 2nd edition. Athens, 2000 (ISBN 960-7748-20-4).
- Wilken, Robert L., Christians As the Romans Saw Them. New Heaven, CT; London: Yale University Press, 1984.
- Sources on the Antonine Plague:
- ガレノス. On the Natural Faculties.
- Marcus Cornelius Fronto. Letters of Marcus Cornelius Fronto.