マルクス・アントニウス
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マルクス・アントニウス(Marcus Antonius, 紀元前83年 - 紀元前30年)は古代ローマの政治家、軍人。共和政ローマ末期に第2回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後初代ローマ皇帝アウグストゥスと争い敗北、エジプトで没した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でもよく知られている。
ガイウス・ユリウス・カエサルの配下としてガリア戦争やポンペイウスとの内乱などに従い活躍した。
カエサル暗殺後はその有力な後継者と目されていたが、カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)を後継者に指名する遺言状が公開されるとその立場は微妙なものとなった。オクタウィアヌスが元老院と結ぶと、アントニウスはガリアにいたカエサルの副官であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスらと同盟しオクタウィアヌスに対抗した。
当初は対立した両派であったが反共和派、反元老院で一致しアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの三者による同盟が成立。その勢力によってローマの支配権を掌握した。三人は国家再建三人委員に就任し第2回三頭政治と呼ばれる形でローマを支配した。このとき三人委員会によって粛清が行なわれ、そのなかでアントニウスは長年の政敵であったマルクス・トゥリウス・キケロを処刑している。その後ギリシアに逃れていたブルートゥス、カッシウスら共和派をオクタウィアヌスと共にフィリッピの戦いで破り、共和政の息の根を止めた。
三頭政治はもともと権力争いの一時的な妥協として成立していたため、各人は同盟関係にありながらも自らの勢力強化に努めた。アントニウスはローマを離れ、共和派に組していた東方の保護国王らと会見し関係を強化した。このときエジプトプトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世とも出会っている。
こうしたなか紀元前41年の冬にアントニウスの弟ルキウス・アントニウスとマルクスの妻フルウィアはイタリアでオクタウィアヌスに反抗して蜂起した。この戦争にはオクタウィアヌスが勝利したが、ここで改めて三人の同盟の確認が行なわれた。アントニウスは死亡した妻フルウィアの後妻にオクタウィアヌスの姉オクタウィアを迎え、婚姻関係によって同盟は強化された。同時に三頭官はイタリア以外の帝国の領土を三分割し、東方はアントニウス、西方はオクタウィアヌス、アフリカはレピドゥスとそれぞれの勢力圏に分割した。
カエサルの果たせなかったパルティア征服という偉大な軍事上の成果を上げることで、競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することを目論んだアントニウスは、紀元前36年にパルティアに遠征した。この遠征の後背地としてアントニウスは豊かなエジプトを欲し、女王クレオパトラとの仲を再び密接にしていた。しかしこの遠征は失敗しローマ軍団のシンボルである鷲旗もパルティアに奪われている。
こうしたアントニウスの不運を見たオクタウィアヌスはアントニウスとの対決を決断し、エジプトのクレオパトラに対するかたちでアントニウスに宣戦を布告した。オクタウィアヌスの軍とアントニウス・エジプトの連合軍はギリシアのアクティウム沖で激突。このアクティウムの戦いで敗北したアントニウスとクレオパトラはエジプトに敗走した。
この敗戦により趨勢は決し、オクタウィアヌスはエジプトの首都アレクサンドリアへと軍を進めた。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き自らも命を絶ったという。但しこれは誤報で、駆けつけたクレオパトラの腕の中で息絶えたとされる。