フランク王国
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フランク王国(フランクおうこく、仏:Francs 独:Fränkisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。
ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギーを領土とした。
[編集] 成立
フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍としてシカンブリ人など他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜はシカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。メロヴィング朝は衰退したものの、王朝替えしたカロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)のとき、フランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。カロリング朝ではローマ教皇との連携を重視し、カール大帝の父王ピピン3世はイタリアのロンバルド王国討伐で征服したラヴェンナ地方を教皇に献上して、それがローマ教皇領の始まりとなった。
[編集] 分割と衰退
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割するよう遺言した。 814年にカールが72歳で死去した後、王国は唯一生存していた息子、敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)に継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。
ルートヴィヒが840年に死亡した後、息子の1人ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、2人の弟は兄に反旗を翻して軍事的勝利を得た。その結果3年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つに分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、ごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。
うち、西フランク王国はのちのフランスに相当し、東フランク王国は後の神聖ローマ帝国からドイツにつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国(のちに「ロタールの王国」と言う意味の独:ロートリンゲン 仏:ロレーヌの語源となった)は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国の2つの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝のイタリア王国の王位として兼任される様になった。
西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年で途絶えた。それぞれの断絶の直接の理由は王位を継承し得るカロリング家系の消滅であるが、傍系の王族は残っており、諸侯の台頭と相対的に低下した王権の衰退が考えられている。