ヴァンダル族
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ヴァンダル族(Vandal)は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた東ゲルマン人の一部族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。
彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)は、おそらくヴァンダル族に由来する地名である。また彼らの名前は、ヴァンダリズムの語源ともなっている。
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[編集] ヴァンダル族の起源
19世紀の研究により、ヴァンダル族はPrzeworsk文化に属することが明らかになった。また、ゲルマン人ともケルト人ともいわれるリュージイ族(Lugii、Lygier、Lugier、Lygians)との関係も議論されており、リュージイ族が後にヴァンダル族と呼ばれるようになったか、ヴァンダル族はリュージイ族の連合体の一部だったとする説がある。ヴァンダル族の起源については、名前の類似性から、ノルウェーのハリングダール(Hallingdal)、スウェーデンのヴェンデル(Vendel)、デンマークのヴェンドシッセル(Vendsyssel)が彼らの故郷ではないかという意見がある。
紀元前2世紀に、ヴァンダル族はバルト海を渡ってポーランドに到着し、紀元前120年頃からシレジアに定住するようになったと推測されている。98年に、ゲルマニア地方を流れるオーデル川とヴィスワ川の間に彼らが居たことが、ローマの歴史家タキトスや後の歴史家によって記録されている。
ヴァンダル族は、シリンジイ(Silingii)とハスディンジイ(Hasdingii)の2つの系統に分けられる。シリンジイは、マグナ・ゲルマニア、のちのシレジアと呼ばれる地域に何世紀にも渡って住んでいた。2世紀に、ハスディンジイは、王のラウスとラプトに率いられて南に移動し、ドナウ川下流でローマ帝国を攻撃しはじめた。その後、ローマ帝国と和睦しルーマニアの西ダキアとハンガリーのローマンに定着した。
400年から401年にかけて、おそらくフン族の侵入によって、ゴディギゼル王のもとヴァンダル族はスエビ族などの他のゲルマン諸族やサルマティア人のアラン族と一緒に西方への移動を開始した。シリンジイはのちに彼らに加わった。
この頃、すでにハスディンジイはキリスト教化されていた。ゴート族の初期と同じように彼らも、イエス・キリストは父なる神と等しい存在ではないとするアリウス主義を取り入れていたが、イエス・キリストは神に最も近い存在として特別に創造されたものだとしていた。 これは、ローマ帝国において主流であったキリスト教の信仰とは正反対のものであった。
ヴァンダル族はドナウ川沿いに西方へと移動したが、ライン川にたどりついた辺りで、北ガリアにあるローマ帝国の属国にいたフランク族の抵抗にあった。この戦いによって、ゴディギゼル王を含めて2万人のヴァンダル族が死亡したが、アラン族の助けを借りてなんとかフランク族を負かすことができた。406年12月31日、ヴァンダル族はライン川を渡り、ガリアに侵入した。ゴディギゼルの息子グンデリク率いるヴァンダル族は、ガリアの西や南へ略奪して回った。
409年10月、ピレネー山脈を越えてスペインに入った。そこは、ローマ帝国から建国を許された土地であった。アラン族がポルトガルとカルタヘナ一帯を領有し、ヴァンダル族はガリシアとアンダルシアを得た。しかし、スエビ族がガリシアの一部を支配し続け、また西ゴート族がローマ帝国からフランス南部の土地を受け取る前にスペインに侵入し、ヴァンダル族やアラン族との紛争の原因となっていた。
[編集] ゲイセリックとヴァンダル王国建国
グンデリクの兄弟ゲイセリック(ガイセリック)は、艦隊の建造を始めた。38歳のゲイセリックが王になった後の429年、ジブラルタル海峡を渡り、アフリカ沿岸をカルタゴに向かって東方に移動しはじめた。435年に、ローマ帝国は北アフリカのいくつかの領土を彼らに与えたが、439年、ヴァンダル族は自らカルタゴを占領した。ゲイセリックはここにヴァンダル族とアラン族からなるヴァンダル王国を建国した。この王国は地中海における一大勢力となり、シチリア島、サルデニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服している。
455年には、ローマを占領し、468年には彼らを征服するために派遣されたバシリスクス率いる東ローマ(ビザンティン)帝国艦隊を壊滅させた。477年、ゲイセリックが死去するとその息子フネリックが王となった。彼の治世には、ミトラ教とカトリック教会への迫害があったことで有名である。フネリックの次の王グンタムント(484年-496年)は、カトリック教への迫害を止め、平和的な関係を実現しようとした。
[編集] ヴァンダル王国の衰退
ゲイセリックの死によって、ヴァンダル王国の対外的な力は衰え出した。グンタムント王は、東ゴート族によってシチリア島の大半を失い、また増大するムーア人の侵入に押されている状況にあった。ヒルデリック王(在位523年-530年)は、先のローマ占領の際に連れてこられた西ローマ帝国の皇女の血を引いていたため最もカトリック教寄りの王であったが、戦争にはほとんど興味なく、身内のホアメルに任せていた。ホアメルがムーア人との戦争に敗北すると、王家の一部が反乱を起こし、ゲリメル(在位530-533)が王位に就いた。ヒルデリックやホアメルらは牢獄に入れられた。
[編集] ヴァンダル王国の滅亡
かねてよりローマ帝国の復興を企図していたビザンティン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の血を引くヒルデリック王が倒されたことを口実にヴァンダル王国に対する戦争を開始し、サーサーン朝ペルシャとの戦いで活躍したベリサリウス将軍を派遣した。ヴァンダル王国の艦隊のほとんどがサルデニア島の反乱の鎮圧に赴いていることを知ったベルサリウス将軍は、 迅速に移動してチュニジアに上陸し、カルタゴに入城した。533年晩夏、ゲリメル王はカルタゴの南10マイルの所でベリサリウス将軍と戦った。(アド・デシミウムの戦い)ヴァンダル王国軍は、初戦に勝利したが、ゲリメルの甥ギバムントが敵に捕らえられてしまったことで士気を喪失し、崩壊した。ベルサリウスは、残党と戦う一方で、すばやくカルタゴを占領した。533年12月15日、カルタゴから20マイルほどのチカメロンで再び両軍は会戦した。そしてまたもやヴァンダル軍は敗れ、戦闘の最中にゲリメルの兄弟ツァツォが捕らえられてしまった。 ベルサリウスはすぐさま、ヴァンダル王国第二の都市ヒッポに軍を進めた。534年、ゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡した。
[編集] ヴァンダル王国における宗教問題
ヴァンダル族のアリウス主義とカトリック主義やドナティストたちの混在は、アフリカ国内における絶えざる火種となっていた。 ヒルデリックを除くほとんどのヴァンダル王は、程度の差はあれ、カトリック教徒を迫害した。フネリックの治世の最後の数ヶ月は例外として、カトリック教徒はめったに公に禁止されることはなかったが、ヴァンダル族へ布教することは許されず、その聖職者たちの扱いも良いものではなかった。
[編集] ヴァンダル人達のその後
中世になると、ヴァンダル族はポーランド人の祖先ではないかという通念がうまれた。実際に、一部のヴァンダル人は東ドイツやシレジアに戻っている。この移動は、のちのヴァンダロルム国(regionem Wandalorum)とともに記録に残されており、そこでフランク王国のピピンがヴァンダル族と出会っている。ドイツのこの地域は、2000年経った今でもヴァンダロルムと呼ばれている。
東ゴート族のテオドリック大王と西ゴート族の指導者は、ヴァンダル族やブルグンド族、クローヴィス1世を王とするフランク王国との政略結婚によって同盟関係を結び、生き残りを計った。