岡田有希子
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岡田有希子(おかだ ゆきこ、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は愛知県名古屋市熱田区出身(出生は同県一宮市)のアイドル歌手。名古屋市立向陽高等学校→堀越高校卒業。身長155cm。体重42kg。スリーサイズはB86・W58・H84。血液型はO型。所属事務所はサンミュージック。当時キャッチフレーズは「ステキの国からやってきたリトル・プリンセス」。その後「いつまでも、一緒にいてね」と変わった。
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生涯
概要
本名は佐藤佳代(さとう かよ)。『スター誕生!』第46代チャンピオン。1984年にデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。愛称は「ユッコ」。「ユッコスマイル」と呼ばれる愛らしい笑顔と、笑顔に似合わないグラマラスな肢体で親しまれた。ポスト松田聖子と評され、「純アイドル」の典型的なスタイルである。
デビューする以前の出来事
- 1974年4月に名古屋市立高蔵小学校に入学する。
- 1980年3月に同小学校を卒業をする。
- 1980年4月に名古屋市立沢上中学校に入学する。
- 1982年、中学2年生の終わり頃、本人の芸能人への憧れは強かったが、両親に大反対される。ただ本人も芸能界入りを強く希望していた為、中学3年生の時に両親より学校のテストで成績が学年で1番になること、中部統一テストで5位以内に入ること、第一志望の高校の試験に合格すること、と言う3つの条件を提示される。その3つの条件をクリアして、スター誕生のオーディションを受けることになった。ちなみに、アイドル誌(Dunk)に昔の成績表を公開する企画があった際、岡田自身のものは、5段階評価でほとんどが5であった。
- 1983年3月に芸能界入りするためのオーディションのスター誕生が後楽園ホールに開催されその日に学校を無断欠席してまで故郷の名古屋から東京へ行き、そのオーディションに出場し合格する。そしてこのオーディションの合格がきっかけでプロダクションのサンミュージック入りが決定する。この頃に中学校を卒業する。
- 1983年4月に名古屋市立向陽高等学校に入学する。
- 1983年8月、芸能界にデビューするために実家がある名古屋から東京の成城にあるプロダクションの社長宅に引越する。
- 1983年9月、堀越高等学校に転校する。
デビュー以後の1984年(4月~12月)
- デビューした1984年にいくつかの音楽最優秀新人賞をとったが、デビュー時の1984年春から1985年の終わりまでヒットには恵まれなかった。その原因としては、竹内まりやと尾崎亜美がプロデュースしたシングル曲は有希子よりもやや先にデビューしたアイドル松田聖子・早見優・堀ちえみなどを意識したキャラクター性や彼女達の様な夏をテーマにした歌であり、またそれに合う高音歌手向きの歌詞であったのに対し、有希子は優等生のイメージが強すぎた事、前記の彼女達と比べて違和感がある事、声が低音であったためにキャラクター性や声が合わず地味な歌であったともいわれ、必ずしも有希子の魅力を十分に発揮しうるものではなかった。
- また、有希子がデビューした当時は1980年デビュー組の松田聖子・田原俊彦・河合奈保子・岩崎良美・柏原芳恵、翌1981年デビューの近藤真彦、さらに花の82年組と呼ばれた中森明菜・小泉今日子・シブがき隊・堀ちえみ・早見優・松本伊代・石川秀美等の人気アイドル達が第一線で活躍していたので、1980年代半ば当時はアイドルの激戦期であった。
- この年の暮れ、前記のとおりいくつかの音楽新人賞を取る。候補であった菊池桃子は受賞の価値が解らなかったことですべての賞を蹴ってしまう。また同じく最有力候補であった吉川晃司は賞を取り損ねる結果となり、FNS歌謡祭では有希子は会場内にいた吉川晃司の女性ファンからバッシングを受けてしまう。
1986年(1月~3月)の活動時
- 1986年の初めに発売されたシングル曲「くちびるNetwork」が初の大ヒット。
- この年の3月に堀越高等学校を卒業する。
自殺する1週間前以内での出来事(1986年4月1日~4月7日)
4月4日
- デビュー当時から住んでいた成城のプロダクションの社長宅から南青山のマンションの一室に引越し、一人暮らしを始める。
- プロダクション社内で歌と振り付けのレッスンをする(このことが自殺後にテレビ放映される)。
- 歌謡ドッキリ大放送の収録に出演(この時に「くちびるNetwork」を歌う)した際、スタジオ内の客席で座って観ていた小学生の女の子に「岡田有希子さんは痩せていて体が小さいのにどうして胸が大きいのですか」と質問され困り果てた表情をしている映像が流れた。この番組は自殺後放送され、歌のあとにテロップが出た。
4月5日
- 友人であり当時アイドルであった南野陽子と都内某所で映画「女優フランシス」を鑑賞する。[1]
- この日に渋谷公会堂の公演があり20曲を熱唱する。この内の17曲は自分の歌を歌い、後の3曲はビートルズの「Tell Me Why」杏里の「悲しみがとまらない」早見優の「PASSIONN」をカバーした。
4月6日
- 名古屋で公演があるため新幹線で東京から名古屋へ向かうが、その新幹線の同車両内に当時無名であった落語家時代のタレントの伊集院光が乗っていて、有希子のことを目撃していたと言う。(伊集院光は有希子さんの歌は容易く聞くことが出来ないと言った。-[2])その帰りに名古屋にある実家に寄る。このときが家族との人生最後の対面となる。この日の20時53分の名古屋発新幹線で東京へ帰還。
4月7日
自殺直前の出来事(1986年4月8日)
- 1986年4月8日午前10時頃、人気絶頂のさなか南青山にある自宅マンションの室内でガス自殺に加えリストカットによる自殺を図る。マンションの管理人がガスの臭いに気づき警視庁指令センターに110番通報し、同センターより東京消防庁赤坂消防署に連絡、これを受けて消防隊と救急隊が急行した。このガス自殺は未遂に終わったものの、救急車で北青山病院に搬送され治療を受けた。病院からは所属事務所の福田時雄専務と溝口伸郎・山崎結美の両マネージャーが駆けつけた。当時、社長の相沢秀禎は都内の歯科病院で歯の治療を受けていたため、病院に駆けつけることが出来なかった。その後、北青山病院から所属事務所へ戻る車内で、自殺を図ったことで福田専務より説教を受け、有希子は泣いた。サンミュージック本社がある大木戸ビルに戻った後、有希子は福田専務に対して「ちょっとティッシュを・・・」と告げた後、ビルの螺旋階段で屋上へ上がり、午後0時15分に屋上から飛び降り自殺。享年18。
死後の出来事
自殺直後の出来事(1986年4月8日)
自殺の原因
岡田有希子の自殺原因については複数存在するが、いずれも噂であり、正確な原因は現在も不明である。
- 俳優の峰岸徹に弄ばれた
- 恋の仲であると噂されていた神田正輝の子を妊娠していた
- 前日の4月7日に事故死したレーシングドライバーの萩原光の後を追った
岡田有希子の自殺騒動
- 青少年の連鎖的な後追い自殺が直後に発生した為、国内年間の自殺者数が前年度よりも急上昇、「有希子シンドローム」と称され、当時の国会でも取り上げられる程の社会問題にまで発展した。また当時の総理府の「青少年の自殺問題に関する懇話会」が報道機関に対し「人命を尊重した理念で(報道は)行われるべきである」との声明を発表し、日本自殺予防学会では新聞、テレビ、雑誌各社に報道の自制を求める緊急の要望書が出される事態にまでなった。こうした事態を重く見た報道機関の中には自殺報道を自粛する動きが出た。当時テレビ朝日系で放送されていた「ニュースステーション」ではキャスターの久米宏が番組の終わりに、「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」と発言、また女優で冒険家の和泉雅子が「あなた自身の“北極点”を持って!」と、更には先輩で“兄貴分”の森田健作が「おはようナイスデイ」で組まれた自殺防止特集で、早まらないよう呼びかけた事がこれを物語っている。
- 有希子の自殺から2日後の1986年4月10日、TBS系『ザ・ベストテン』(生放送)のエンディングで、黒柳徹子が落胆したファンを慰め、後追い自殺を戒めるコメントを出した。同日出演していた中森明菜や南野陽子そして荻野目洋子らも岡田の突然の訃報に涙した。いつもの『ザ・ベストテン』のエンディングの曲ではなく、くちびるNetworkをバックに流し、過去に出演した時の岡田有希子のコメント映像を放送しながら番組のエンドロールが流れ、この日の放送は終了した。6日後の4月13日に放送されたテレビ東京系「ヤンヤン歌うスタジオ」でも、司会のあのねのねがオープニングで夭折を惜しむ旨述べ(通常の形式ではなく調整室で撮影)、デスクに立てられた遺影に献花した。
- 有希子が自殺した直後の写真映像が週刊誌Emma(1986年5月10日号)に公開され、その週刊誌の表紙にはドラマ「禁じられたマリコ」内での峰岸徹との2ショットが掲載され、その週刊誌の内容は有希子の人生を描いた写真や当時卒業したがばかりの堀越高等学校の卒業アルバム内の記念写真、そして有希子が描いた絵画が掲載された。別のコーナーでは無名時代の山口智子・麻木久仁子・鈴木保奈美のグラビアが掲載されていた。
葬儀での出来事
有希子が自殺した翌日の4月9日夜、所属事務所の近くにある新宿区四谷の大宗寺でファン達のための通夜が営まれた。告別式は、通夜の翌日4月10日に堀越高校近くにある中野区の宝仙寺で社葬を以って行われ、告別式が終わった後、遺体は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。その翌日4月11日、遺骨は故郷の名古屋に戻り、名古屋市中区の東本願寺名古屋別院でも告別式が行われた。東京での告別式は、所属プロダクション社長相澤秀禎が、「お金はいくらかかってもいい」と言った程の盛大なものであった。葬儀には、遺族をはじめ、所属プロダクション相澤秀禎社長、プロダクションの大先輩である森田健作、桜田淳子、その他芸能関係者や「ザ・ベストテン」で共演した黒柳徹子、中森明菜、竹内まりやに加え、プライベートでも親しかった南野陽子に荻野目洋子、さらに吉川晃司と舘ひろしらが参列した。このとき、吉川と舘はサングラスを掛けたまま参列したため、ダン池田は著書「これでいいのか芸能界」の中で、2人がサングラスを掛けていた事を批判した。
遺書
現在もサンミュージック本社内の金庫の中に保管されている。 内容はごく近い血縁関係の遺族しか見ていないと言われ、所属していたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎社長ですら、見ていたか否かは定かではない。遺書の中には自殺のきっかけとなったといわれるMの名前が書かれていると言う説かある。
有希子の自殺で幻となった企画
有希子の自殺で幻となった公演・シングル発売・ドラマ出演は以下のとおり。
- 1986年4月13日:鶴岡市民文化会館での「Heart Jack」中止。
- 1986年5月2日:大阪厚生年金会館での「Heart Jack」中止。
- 1986年5月5日:よみうりランドでのコンサート中止。
- 「花のイマージュ」:有希子の幻のシングル曲(1986年5月14日発売予定であった)。約12年10ヵ月後の1999年3月17日に発売された『有希子』のアルバム「メモリアルBOX」内に「花のイマージュ」が収録された。
- 「ママ母vsママ子! 家出令嬢の課外授業」:1986年渡辺典子主演単発ドラマ。有希子の自殺で典子が代役になった作品である。
- 「素敵な休日」:堀ちえみのシングル曲(1986年10月21日発売)。有希子が歌う予定であったが有希子の自殺でちえみが代わりに歌ったとされている。
自殺後の出来事
- 有希子の自殺後、プロダクションは今後岡田有希子をテレビや雑誌に登場させることを禁止し、一部のワイドショーを除いて有希子のことをテレビでは伝えなかった。有希子の自殺から約10年10ヶ月後の1997年2月9日放送のテレビ朝日系列の特別番組、ザ・スーパーサンデー「完全保存版・臨終の瞬間!栄光の最後のメッセージ」で岡田有希子を取り上げた。当日の各新聞のテレビ欄にはトップで掲載され、しかも往年の石原裕次郎・松田優作・夏目雅子・逸見政孝等といった大物たちを凌いでの事だった。さらに放送の数日前にワイドショーやスポーツ紙でも特集され、それほど有希子についてテレビで放送することは珍しいことであった。この放送以降、有希子についていくつかのテレビ番組や雑誌でも特集された。
- 1998年に有希子の13回忌にちなみ、新宿文化センターで「岡田有希子展」が4月6日から4月8日までの3日間開催された。
- 2000年7月19日に有希子のマネージャーであった溝口伸郎がプロダクションがある大木戸ビルの5階のトイレ内で首吊り自殺した。その次の日のスポーツ紙・新聞の報道・テレビ欄には「酒井法子のマネージャーが自殺」と発表された。
岡田有希子に捧げられた曲
- インディーズ時代のスピッツが1989年に『アイドル』と言う曲をアマチュアライブで披露(ボーカルの草野マサムネが「同じ年に生まれたけれど、もう歳を取らない岡田有希子さんにこの曲を捧げます」と当時のライブで発言)。
- 竹内まりやのアルバム「Quiet Life」(1992年発売)の歌詞カードでも、「ロンサム・シーズン」の部分に“Dedicade for memory of Yukiko Okada(岡田有希子さんの思い出に捧ぐ) ”の言葉が入れられている。
- Rhymesterのアルバム「HEAT ISLAND」(2006年発売)の「LIFE GOES ON feat. Full Of Harmony」の中にある宇多丸のパートでは、全て岡田有希子について唄われており、そのパートの殆どが有希子を失った悲しみと怒りを具体的に表現した歌詞となっている。また命日の4月8日には大木戸ビル前広場に黙祷を捧げに行く。[1]
有希子の墓
- 成満寺の納骨堂には、数々の岡田有希子に関する品々が納められている。
- 納骨堂の他にも有希子の墓前にはファンたちによる有希子へのメッセージのメモ帳やファンからの品々が置いてあり有希子とは無関係の物は他のファンに取られたり寺関係の方たちに捨てられるケースがある。
- 有希子は星のイヤリングが好きであったためにファンの多くは星のイヤリングをお供えする。
- 有希子関係による貴重な物(例えば遺品)が成満寺の倉庫に保管されている。
- 法名は「有楽院釈尼佳朋(ゆうぎょういんしゃくにかほう)」であるが、これは、有希子・音楽・佳代から一文字ずつ取り、“みんなに愛されたアイドル”を意味する朋の字を入れたものである。
ファンの主な活動
- 21世紀となった今でも、有希子のお墓参りで知り合ったファン同士で、全国各地の小会場で慰霊コンサート興行を行なったり、有希子をテーマにしたビデオを製作したりしている。
- 岡田有希子の死後、ファン達によって「岡田有希子記念館」を故郷の名古屋市中区内か有希子の墓(成満寺)がある愛知県愛西市内に建立をしようとしたが、マスコミが有希子を「自殺したアイドル」と強く印象づけるような報道をしてしまい地元の住民達に反対された。現在計画は全くというほど無い。
ファンが起こした出来事
- 1986年5月6日、21歳の男性ファンが有希子が投身自殺を図った大木戸ビルの隣のビルの屋上から投身自殺を図った。
- 2003年12月の上旬頃、四谷四丁目の大木戸ビル前の広場の花壇に有希子のファンの誰かが有希子の慰霊碑を東京都の無許可で建てた。しかしこの年の12月19日に東京都・新宿区・国土交通省・警視庁によって慰霊碑が撤去された。慰霊碑が撤去された変わりに「慰霊碑を無許可で建てていた・・・」と言う知らせの看板2003年の12月下旬頃から2004年の3月頃までの間に設置された。現在は記念館計画と共に計画はまったく無い。
著名人
- お笑い芸人:坂本ちゃん‐有希子の坂本ちゃんへのメッセージ入りのサインを持っていて生涯一番好きなアイドルだと言われている。「100万人が選ぶアイドルポップス (2002年 宝島社)」 にて掲載
- お笑い芸人:松村邦洋‐歌手の中森明菜の大ファンでありその次にアイドルであった斉藤由貴や有希子のファンであったと有希子のファンから伝えられている。有希子の主演ドラマであった「禁じられたマリコ」を視聴していたとプライベート上で松村本人が言っていた。また日本テレビ系列速報!歌の大辞テン(1999年11月24日放送)にゲストで出演し有希子の映像が流れる前に「有希子さんはねっ、僕と同い年なんですよっ、今生きていたら32歳(当時)なんですよっ。」と発言した。
- 漫画家・タレント:山咲トオル‐松田聖子の次に2番目に好きなアイドルだと言われている。命日に大木戸前広場へお参りに行ったともいわれている。
- ミュージシャン:村上てつや(ゴスペラーズ)‐ラジオ番組で有希子のお墓参りに行ったことを告白した。
命日の出来事(4月8日)
大木戸ビル前広場
- 2006年以前の命日:有希子が自殺した大木戸ビル前の広場に午前11時頃から毎年30人ぐらいのファンたちが集まり、それぞれ花束・線香などを持って来て広場の隅っこで立っている。その理由は、近所の住民達や他の歩行者達の迷惑にならないため。また演奏のパフォーマンスは特に迷惑になるためタブーとしている。その日の広場周辺には春の全国交通安全運動のテントが設置されている。ファンの一部は地方からも新幹線や飛行機でやって来てくる。有希子が大木戸ビルの屋上から投身自殺をした時刻である12時15分に一斉に花束を有希子が自殺した場所に供えてお参りをして、それから1時間ほどその場を離れずにいる。13時30分頃にファン達は有希子が自殺した場所を後にする。警察官が見回りに来て受動調査される事がしばしばある。以前は命日にサンミュージックの相澤秀禎社長がファン達を自宅に招いてパーティーを行っていたが、ここ数年はパーティーを行っていない。
- 2006年の命日:休日であったためかいつもの年よりも2倍近い、100人程のファンがやって来て、それぞれ花束を持って有希子が自殺した場所辺りにお供えをした。12時15分になると前年までは行われていなかったファンの代表者の音頭による黙祷が居合わせたファン大半で行われた。12時頃から大雨に見舞われたが、雨は12時50分頃に上がり快晴となった。13時30分頃にファン有志がお供えをした花束を持って成城にある相澤会長の自宅へ向かい、大木戸ビル前を後にした。
音楽
シングル
- ファースト・デイト(1984年4月21日)
- リトル プリンセス(1984年7月18日)
- -Dreaming Girl- 恋、はじめまして(1984年9月21日)
- 二人だけのセレモニー(1985年1月16日)
- Summer Beach(1985年4月17日)
- 哀しい予感(1985年7月17日)
- Love Fair(1985年10月5日)※東芝「パソピアIQ」CM曲
- くちびるNetwork(1986年1月29日)※'86カネボウ春のキャンペーンCM曲
- 花のイマージュ(1986年5月14日、発売中止)
- 作詞作曲編曲:かしぶち哲郎
- Believe In You(2002 Strings Version)(2002年12月4日)
- 作詞:吉沢久美子 作曲:梅垣達志 編曲:服部隆之
アルバム
- シンデレラ(1984年9月5日)
- さよなら・夏休み
- リトル プリンセス
- 彼はハリケーン
- 丘の上のハイスクール
- 潮風のラブ・レター
- 風の中のカフェテラス
- 憧れ
- Plastic Girl
- 作曲作詞:山口美央子編曲: 萩田光雄
- ソネット
- 作曲:吉沢久美子 作詞:梅垣達志 編曲:萩田光雄
- ファースト・デイト
- 贈りもの(1984年11月28日、ベストアルバム):レコード発売で結う一単独でのCD発売はされていない。
- ファースト・デイト
- そよ風はペパーミント
- リトル プリンセス
- ―Dreaming Girl― 恋、はじめまして
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:森田光雄
- 気まぐれTeenage Love
- 恋のダブルス
- Believe In You
- 作曲:吉沢久美子 作詞:梅垣達志 編曲:萩田光雄
- FAIRY(1985年3月21日)
- 風の魔法で
- Walking In The Moonlight
- 目をさまして、Darling
- 二人だけのセレモニー(Album Version)
- 森のフェアリー
- おしゃれな雨音
- 作曲:吉沢久美子 作詞編曲:松任谷正隆
- ストライプのジェラシー
- Lady Joker
- 作曲:吉沢久美子 作詞:堀川まゆみ 編曲:松任谷正隆
- あなたを忘れる魔法があれば
- ポップ・アップ・リセエンヌ
- 十月の人魚(1985年9月18日)
- Sweet Planet
- みずうみ
- 花鳥図
- 哀しい予感
- ロンサム・シーズン
- 流星の高原
- Bien
- ペナルティ
- 十月の人魚
- 作曲編曲:松任谷正隆 作詞:高橋修
- 水色プリンセス ―水の精―
- 贈りものII(1985年12月5日、ベストアルバム)
- 二人だけのセレモニー
- Summer Beach
- 哀しい予感
- Love Fair
- PRIVATE RED
- 星と夜と恋人たち
- 作曲:MAYUMI 作詞:吉沢久美子 編曲:松任谷正隆
- 恋人たちのカレンダー
- 二人のブルー・トレイン
- 子羊NOTE
- ヴィーナス誕生(1986年3月21日)
- WONDER TRIP LOVER
- 愛…illusion
- ヴィーナス誕生
- 作曲:木下伸司 作詞:前川由佳 編曲:かしぶち哲郎
- Spring Accident
- 銀河のバカンス
- 作曲:三井一正 作詞:高橋修 編曲:かしぶち哲郎
- ジュピター
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
- くちびるNetwork
- 眠れぬ夜のAQUARIUS
- 水晶の家
- 愛のコロニー
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
アルバム(BOX版・メモリアル版)
- ALL SONGS REQUEST(2002年5月15日、ベストアルバム)
- さよなら・夏休み
- リトル プリンセス
- 憧れ
- ソネット
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- ファースト・デイト
- ―Dreaming Girl― 恋、はじめまして
- 二人だけのセレモニー
- あなたを忘れる魔法があれば
- Sweet Planet
- ロンサム・シーズン
- 水色プリンセス ―水の精―
- Summer Beach
- Love Fair
- くちびるNetwork
- 花のイマージュ
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
- Believe In You
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- 贈りものIII~岡田有希子CD/DVD-BOX(2002年12月18日)
- シンデレラ + α
- FAIRY + α
- 十月の人魚 + α
- ヴィーナス誕生 + α
- 「OTAKARA マキシシングル」Believe In You(2003 Strings Version)
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- Fly Up! Angel
- 作曲作詞編曲:
- 二人だけのセレモニー(Single Version)
- Believe In You(2003 Present-Mix Version)
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- 「All Songs Request オリジナルカラオケ」(+ 哀しい予感)
- 「YUKKO PV & CM COLLECTION」
カバーしたミュージシャン
- 竹内まりや:「ロンサム・シーズン」
- 中島美智代:「ロンサム・シーズン」
- 酒井法子:「恋人たちのカレンダー」
- 中谷美紀:「WONDER TRIP LOVER」(中谷美紀版では曲名が「クロニック・ラヴ」となっており、曲は同じだが歌詞はまったく別である。)
ビデオ
- Yukiko in SWISS(1985年8月21日)
- Memories of Switzerland(1985年12月5日)
DVD
- Memories in Swiss(2002年12月18日―上記テープ2巻を1枚のDVDに収めた物)
出演
テレビドラマ
- 中学生日記:歌手としてデビューする前、脇役ではあったがレギュラー出演していた。
- 真田太平記(1985年、NHK総合)
- かぐや姫・とんで初体験!?(1985年、フジテレビ):「月曜ドラマランド」にて放送された単発ドラマ。ライバルであったおニャン子クラブのメンバーである福永恵規との共演。
- 禁じられたマリコ(1985年-1986年、TBS):峰岸徹と共演、これがきっかけで交際との噂があった。自殺後、再放送はされていない。再放送の予定はあったが、“事件に便乗した視聴率稼ぎと思われるのは心外”との局側方針から無期延期が決まった。
ラジオ
- 何かいいことないか仔猫ちゃん(毎日放送)
- 奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ(1984年4月~1985年10月7日、東海ラジオ他)
- ちょっとおあずけ(1984年10月8日~1985年10月7日、ニッポン放送)
- 夜遊びしナイト!(1985年10月13日~1986年4月6日、ニッポン放送系)
CM
- 江崎グリコ セシルチョコレート
- グリコ乳業 カフェゼリー
- 東芝 パソピアIQ
- 東芝 パーソナルテレビU-30
- 東芝 Let's Chat
- 東芝 つくばEXPO'85 東芝館
- 牛乳石鹸共進社 ラブジュ シャンプー&リンス
- 旺文社 中一時代
- 旺文社 ハイトップ
- エスエス製薬 エスタック顆粒
- エスエス製薬 ブロン液W
- 尾崎商事 カンコー学生服
- 尾崎商事 カンコー女子通学服
- 月星化成 ベンチャートランザム
- 月星化成 ベンチャーΣ
- 郵政省 電子郵便
ポスター
書籍
有希子をテーマにした書籍
- アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子(1984年、学研)
- 瞳はヒミツ色(1985年、ワニブックス)
- 岡田有希子はなぜ死んだか(上之郷利昭 1986年、 新森書房)
- 愛をください(遺稿集 1987年、朝日出版社)
有希子について掲載されている書籍(又は参考文献)
- 夭折の系譜 (2001年、 アートブックの森)
- 100万人が選ぶアイドルポップス(2002年、 宝島社)
- 歌謡曲という快楽 (宝泉薫 ファッシネイション 2002年、 彩流社)
- 音楽誌が書かないJポップの批評(尾崎豊) (2003年、 宝島社)
- 「おたく」の精神史--1980年代論 (大塚英志 2004年、講談社現代新書)
- 蘇る!夭折のスター達 (2005年、 セントラルSOG)
- 昭和・平成の「怪死」事件史 (2006年、 宝島社)
写真集
- 岡田有希子special(1984年、近代映画社)
- 岡田有希子写真集・あなたとふたりきり…(1985年、近代映画社)
- もっと逢いたい…有希子(1985年、講談社)
- SWEET LOVE DREAM(写真 武藤義 1985年、音楽専科社)
- ヴィーナス誕生(1986年、扶桑社)
- さよなら…有希子(1986年、シーズ)
- SWEET LOVE DREAM(2002年・復刻版、音楽専科社)
- ヴィーナス誕生(2002年・復刻版、扶桑社)
受賞歴
- 1984年:第3回メガロポリス歌謡祭最優秀新人ダイヤモンド賞
- 1984年:第17回日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞
- 1984年:日本レコード大賞最優秀新人賞
- 1984年:第11回FNS歌謡祭最優秀新人賞
- 1984年:日本テレビ音楽祭新人賞
- 1984年:あなたが選ぶ全日本音楽歌謡祭最優秀新人賞
- 1985年:ゴールデンアロー賞
- 1985年:あなたが選ぶ全日本音楽歌謡祭金賞
- 1985年:第12回FNS歌謡祭優秀歌唱音楽賞
- 1985年:日本テレビ音楽祭金の鳩賞
その他
交流関係
お宝関係
- デビュー前の1981年(中学2年生の時)に「ニコン・フレッシュギャルコンテスト」で優勝。写真家・立木義浩が撮影した雑誌広告がある(選出されたフレッシュギャル達のポートレートを月刊「太陽」で連載)。
- 写真集「ヴィ-ナス誕生」:有希子が自殺する4日前の1986年4月4日に発売され、有希子が自殺した次の日の4月9日に発売中止の絶版となってしまい、5日間しか発売されてなく「幻の写真集」と言われていて、その後は全国の各古本屋(特に神田神保町の本屋街)では2万~3万円台で売られていた。しかしそれから約16年8ヵ月後の2002年12月4日に「ヴィーナス誕生」が復刻版で再発売された。その後古本屋で売れらていた旧写真集の値段が一気に下がり、再発売された復刻版・写真集の値段に降下した(3500円ぐらい)。復刻版には2003年のカレンダーが新たについていた。
- 写真集「SWEET LOVE DREAM」:1985年に旧版が発売。復刻版が2002年12月4日に写真集「ヴィーナス誕生」の復刻版と同年月日された。旧版と復刻版の違いは旧版はカバーなしで表紙の右上に「アイドルNo.1」と言うロゴが小さく書いており、復刻版はカバーつきで表紙に前文のロゴが書いていない。
- ポスターは全国のアイドルショップ(特に神田神保町の荒魂書店)では1万円~6万円の値段で売られている。
- サインの色紙は最低で3万円、最高で300万円の価額がついている。
幻の未来像
- 岡田有希子は生前雑誌でよく23歳(1990年)で結婚引退宣言をしていた。
関連項目
関連用語
関連人物
外部リンク
- 岡田有希子BETTY`Sチャンプル → 成満寺への行き方・画像掲示板・掲示板・チャット・データなど
- 岡田有希子情報基地
- 岡田有希子とかのんのページ
- アイドルリング集(岡田有希子)
- YUKIKO NO OHEYA
- ファンサイト
- YukikoOkada
- 岡田有希子は誰が殺したか → 中山美穂との貴重な2ショット映像が掲載
(ファンサイドの懐かしのポスター内で:その年の自衛隊の紹介パンフレットの表紙に岡田有希子の写真が載っていたが、そのままでは配布ができない上、予算の関係のためか再度刷り直しもできなったため、別の写真のシールを上に貼って配っていた)