アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
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アウシュヴィッツ強制収容所 |
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アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の有名な鉄道引込線 | |
(英名) | Auschwitz Concentration Camp |
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(仏名) | Camp de concentration d'Auschwitz |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | 文化遺産(6) |
登録年 | 1979年 |
拡張年 | |
備考 | 負の遺産 |
公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
地図 | |
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(独語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)とは、ナチス・ドイツがヨーロッパ各地で実行したホロコーストの中でも最大の惨劇がおこなわれたアウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウを指す。ポーランドを占領したナチス・ドイツはオシフィエンチム市をアウシュヴィッツとドイツ語名に変え、付近に3つの強制収容所をつぎつぎと建設した。現在、第一と第二強制収容所が一部現存してポーランド国立オシフィエンチム博物館の名称の下にアウシュヴィッツ強制収容所の跡として保存・公開されている。第二次世界大戦による負の世界遺産として広島の原爆ドームと並び有名。
地元の人々はアウシュヴィッツという名前がナチス・ドイツによって一方的に変えられた名前であること、オシフィエンチムにとってマイナスイメージになることなどから「アウシュヴィッツ」と呼ばれるのを嫌っている。
目次 |
[編集] 収容所の概要
アウシュヴィッツ第一収容所は1940年6月に既存のポーランド軍兵営の建物を再利用して開所した。最初の収容者はポーランド人の政治犯728人。増築、改築をして合計28棟の建物があった。収容者が多くなったため、1941年アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウがブジェジンカ村に増設。更に1942年アウシュヴィッツ第三収容所がモノヴィッツ村に増設。1942年から1944年の間にモノヴィッツ村周辺約40ヶ所に小さな労働収容所(囚人が働く工場・鉄工所・炭鉱付近に作られた)があった。ドイツの総合化学会社 イーゲー・ファルベン社が合成ゴムや合成石油の製造工場を設けていた。同社は戦後戦争犯罪で告発される(イーゲー・ファルベン社裁判)。アウシュビッツ第三収容所モノヴィッツはソ連軍により爆破破壊されたため、現存せずに農地や空き地になっている。
収容所の正門のアーチには「Arbeit Macht Frei(働けば自由になる)」と表示されている。周囲は電流が流れる鉄条網で囲まれている。28カ国、約150万人が収容され、その9割は生きて帰れなかったと言われている。死因は様々だが、栄養失調や、不衛生であったため流行したチフスやカイセン病、銃殺、ガス室で殺害などである。不衛生の理由としては、囚人服を洗うことを許可されなかったこと、下水道が完備されていなかったことが挙げられる。 ビルケナウ収容所では百数十万人が殺害されたとされているが、実際のその人数は非ユダヤ人も含め13万人程度であったと、戦後ソ連が持ち出した資料によって記されている。
[編集] 収容所の存在・抵抗組織
当時のユダヤ人社会では、「ある夜、突然家から人が消えることがしばしばある」と語られていたが行く先はわからなかった。だが現在もオシフェンチム博物館内に展示されてあるギリシャ系ユダヤ人が極秘撮影したアウシュビッツ内部の写真フィルムがロンドンに亡命したポーランド人やユダヤ人の抵抗組織の人々の手に渡る。するとたちまち強制収容所の存在とその実情が明らかとなった。強制収容所周辺の一般住民は勿論SS隊員から口止めされていた。
だが、収容所内の抵抗組織は周辺ポーランド住民とひそかに連絡を取り、収容所に食料や薬品を送り込んでもらった。またSS隊員の名簿や収容者の名簿、SS犯罪の資料も外部へひそかに送られていた。抵抗地下活動では芸術活動も盛んであり、現在も収容所内で描かれた絵画が多数残っている。
[編集] 収容所での暮らし
貨車に乗せられた人々は、それぞれオシフェンチムの貨車駅、1944年からはブジェンスカ(ビルケナウ)に作られた鉄道引込線に到着すると、SS将校とSS医師が働ける者と働けない者(妊婦・幼児・老人・病人)に選別した。働けないと認定された者はガス室へと送られた。
働けると認定された者は荷物を取り上げられ、髪を切られ、消毒され、正面・正面を向き視線を右上に上げたもの・横向きの写真を撮影された。1943年からはその代わりに左腕に囚人番号を刺青された。
切られた頭髪は物資不足だった当時のドイツで毛布や紳士服の布地にされたり、ベッドのスプリングの代用品として使用された。
与えられた生地の薄い囚人服には、三角形のワッペンが付けられた。ワッペンの色で収容理由が判別できるようになっていた。囚人服は何ヶ月かに一度しか着替えをもらうことが出来ず、防寒服もなかった。
囚人は早朝に起床し点呼を受けると約500ccのコーヒーと呼ばれるにごった水を与えられ、それぞれ点呼を受けて労働へ向かう。昼食は殆ど具のない腐った野菜で作られたスープが1リットル、労働の途中で水を飲むことは規則で禁じられていた。重労働から戻った後の夕食は300gほどの黒パン・3グラムのマーガリン・薬草の飲み物を与えられた。
住環境は劣悪であった。アウシュビッツ第一収容所はポーランド軍の兵営のため暖房設備は完備されていたものの、50人用の部屋を通常200人で一部屋を使用した、三段ベッドの1段を二人で使った。掛け布団は汚れて穴だらけの毛布だけだった。SSに協力した者には個室とまともな食事が与えられた。第二収容所ビルケナウは囚人が増えたため慌てて作られた収容所のため、常に約15,000人から20,000人がレンガか木造のバラックで暮らした。多いときは男女合わせて約100,000人が収容されていた。暖房は簡素なものがあったが、隙間風だらけであった。ビルケナウ収容所のバラックは湿地の上に基礎工事なしで作られた建物なので、ほとんどのバラックは床がなく、地面は土泥化していた。また、ビルケナウ収容所は上下水道が完備されていなかった(汚水は収容者が敷地内に溝を掘り、そこへ流された)。バラックは排水がままならない不衛生なトイレを真ん中にはさむ形で三段ベッドが並べられていた。木で作られた三段ベッドにはマットレスのかわりに腐ったわらを敷き常に約8人で寝ていた。
[編集] 懲罰・人体実験・拷問・死刑
簡単な懲罰には鞭打ち・後ろ手に縛り体を杭に吊るす・特別監房ブロックへの移送・過重労働・懲罰点呼・懲罰班への入隊である。現在も鞭打ち台・移動絞首台・体を吊るした杭が博物館で展示されている。懲罰班に入ると食料を減らされ、労働も体力を酷使するものを課せられた。
地下にある監房には収容所付近の囚人を助けようとした一般市民、脱走して捕らえられた者の仲間の囚人、銃殺を待つ囚人、SSに規則違反とみなされた囚人が収容された。中でも立ち牢は90センチ×90センチの大きさのなかに四人が収容され、小さな空気穴がついているが殆ど役に立たず、窒息寸前のまま点呼で起こされ、そのまま重労働へ向かうという特記すべき過酷な拷問である。特に画家や作家など思想で生計を立てていたものがSSから好まれてこの牢に入れられた。
餓死室は中でも異質の死刑牢である。餓死を宣告された囚人は裸にされ、この地下の一室に入れられ、死ぬまで一滴の水も与えられることがない。後にヨハネ・パウロ2世により聖人の称号を与えられたマキシミリアノ・コルベ神父は他人の身代わりにこの餓死室に入っている。
ガス室死刑の他にも銃殺刑・絞首刑があり、オシフェンチム地区に今でも残る死の壁という場所で執行された。
またSS医師は囚人を人体実験の材料として使っていた。カール・クラウベルク教授とホルスト・シューマン博士は、スラブ民族撲滅研究のために男女の断種実験、ヨーゼフ・メンゲレ博士は双子や身体障害者を使った遺伝子学や人類学の研究をしていた。他にも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験が行われていた。実験で命を落とすものは数百人、生き残った人々にも障害が残った。
[編集] ガス室・焼却炉 そして解放
ガス室は到着したばかりの働けないと認定された人々以外にも、SSの気分次第で軽い規則違反を行ったものも送られた。ガス室送りになる人々は脱衣所で全裸になり、SS先導のもとガス室へと入る、鍵がかけられると室内上の穴から毒ガス(チクロンBであった可能性が高い)が散布された。
ガス室で殺された人々は遺体を焼く焼却炉へ運ばれる、これは囚人たちの仕事であった。焼却された遺体からは金歯が抜かれ、金は延べ棒にされドイツへ送られた。遺体の灰は肥料として利用されていたが、収容者が増加し、ガス室で殺害される人数が増えるとガス室から運び出された遺体は大きな穴へと投げ込まれ、埋められて処理された。遺体焼却の仕事にかかった囚人は充分な食料を与えられるなどの待遇を受けたが、3-4ヶ月で口封じのためにSSは殺害していた。
ソ連軍が近づいていることを知ったSS隊員たちは、強制収容所の痕跡と存在を消すためにガス室・遺体焼却炉・バラックを爆破。囚人たちは他の強制収容所へ移送されるかガス室で多くが殺された。アウシュビッツ第一収容所では一日約350人が処刑、3つの焼却炉で焼かれた。焼却炉はドイツのエルフルト市にあるトップ・ウンド・ジーネ社が製造。SSにより破壊された焼却炉塔は、残された当時の焼却炉の蓋からすべて復元され、現在展示されている。
初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスは、戦後ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた後、この焼却炉の建物の前で1947年に絞首刑に処された。
約175ヘクタールの広さにすし詰めにされた第二収容所ビルケナウの囚人たちは2塔の焼却炉・ガス室で毎日惨殺が繰り返された。現在も爆破された跡だがガス室・焼却炉の跡がはっきりとわかる。第二・第三焼却炉の間には元アウシュビッツ収容所のナチス政権下犠牲者国際記念碑がある。記念碑は1967年に除幕された。
1945年1月27日、ソビエト軍がついにアウシュビッツを解放する。残っていた数千人のユダヤ人は帰宅を許可され、SS隊員は追跡・逮捕される。アウシュビッツに関わったSS隊員のうち裁判にかけられ生き残ったのはわずか一割である。
収容所には囚人の髪の毛・没収された荷物・ガス室で使われた毒薬チクロンBの空き缶が残された。それらは現在オシフェンチム博物館展示室(アウシュビッツ第一収容所)に展示されている。
[編集] 否認主義
最近ではアウシュヴィッツの大量殺人(ガス室)は無かったのではないかと、歴史修正主義者の間で論争されている。幾つかの国では歴史修正主義は非合法(フランス、ドイツ、スイス、ポーランド)なので、彼らのシンポジウム及びレクチャーはバルト三国、アメリカ、イタリア、ロシアといった国で行われる。
戦後からこのような疑問提起・否認主義は存在したが、論争が一気に加速したのは旧ソ連邦が崩壊してからのことだった。「カチンの森事件」で共産党による虐殺がナチス犯行説へと捏造されたことから、修正主義者からは「ホロコースト正史は左翼勢力のカードとして機能していた」と唱えられることが多い。
[編集] 現在のアウシュビッツ
1979年、ポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が訪問。2006年5月28日にベネディクト16世が訪問、イタリア語で「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人の教皇として耐え難いことだ」と述べ、祈祷と記念式典を行っている。 世界の要人も非公式だがこの地を滞在することが多い。 最近は日本人の訪問も増えてきており、かつては1~200人だった日本人の年間訪問者も今では5000人を超えている。
日本にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた、アウシュビッツ平和博物館が福島県白河市に存在する。
[編集] 登録基準
この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている。)
[編集] 文献
- ルドルフ・ヘス(著)、片岡哲治(訳)、『アウシュヴィッツ収容所;私は人間の尊厳を傷つけた・・・所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』、サイマル出版会、1972年
- Wolf H. Wagner(著)、アウシュヴィッツの子供たち、Wo die Schmetteringe starben; Kinder in Auschwitz, Dietz Verlag, 1995, ISBN 3-320-01867-1
- 中谷剛(著)、ポーランド国立オシフィエンチム博物館唯一の外国人公式ガイド、『アウシュヴィッツ博物館案内』、凱風社、2005年、ISBN 4-7736-2907-X
[編集] 関連項目
- ルドルフ・フェルディナント・ヘス(アウシュヴィッツ強制収容所長)
- ロイヒター・レポート
- ポーランドの世界遺産
- 世界遺産の一覧
- マキシミリアノ・コルベ
- ヴィクトール・フランクル
- アンネ・フランク
- アドルフ・ヒトラー
- 国家社会主義ドイツ労働者党
- マルコポーロ事件
- サイモン・ヴィーゼンタール
- ヨーゼフ・メンゲレ
- ソフィーの選択
[編集] 外部リンク
- アウシュヴィッツ=ヴィルケナウ強制収容所公式サイト (ポーランド語、ドイツ語、英語)
- アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
- アウシュヴィッツ平和博物館Webサイト
- 日本人による訪問記国立オヒシフィエンチム博物館訪問 アウシュビッツビルケナウ強制収容所 そこは、絶滅収容所 (前館長のインタビューや写真がわかりやすく掲載されている)
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