キエフ
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市の紋章 | キエフ市の位置 |
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キエフ市のデータ | |
面積 : | 827 km² |
総人口 : | 2 514 227 人(2005年) |
地域 : | 10区 |
Webサイト : | kmv.gov.ua |
市長 : | オレクサンドル・オメリチェンコ |
座標 : | 北緯50度27分、東経30度30分 |
キエフ(ウクライナ語:Київ(Kyijv、Kyiv);ロシア語:Киев(Kiev, Kiyev)は、ウクライナの首都で、同国最大の都市である。
目次 |
[編集] 名称
- ウクライナ語:Київ(Kyiv, Kyijv, kyjiv)で、発音は「クィーイィフ」に近い。
- ロシア語:Киев(Kiev, Kijev, Kiyev)の発音の表記としては「キーイェフ」が最も近いカタカナ転写であるとされる。
- 日本語:「キエフ」、又はロシア語の発音に近づけた「キーエフ」と表記されることがほとんど。ウクライナ語の発音に近づけた「キーイフ」や「キーイヴ」、「クィーイィウ」、「クィーイィヴ」などはほとんど使用例がない。この他、「キイウ」、「キーウ」、「キイフ」、「キーフ」等の表記もあるという。
ロシア語の使用は政策として制限されている。また、ロシア語に沿ったラテン文字表記である Kiev(Kiyev)も同様の扱いである。また、ロシア語表記はかつてのロシア帝国・ソ連の支配を快く思わないウクライナの人々の感情を害しかねないこともあり、最近の英語等外国語の出版物では、ウクライナ語式に綴って Kyiv(クィーイィウ)と書かれることが多くなっている。特に、ウクライナからの亡命者の多い北米ではその傾向が強い。
[編集] 概要
週末になると、歩行者天国になる市の中心部を通るフレシュチャートゥィク(Хрещатик、Khreshchatyk)通りや、2001年の独立10周年を記念して整備され、地下ショッピングセンターなどを備えた独立広場(マイダン・ネザレージュノスチ, Майдан Незалежності, Maidan Nezalezhnosti)などで人々が賑わっている。
市内には広義のロシア最古級の建築物が多数残されているが、モンゴルのハーンもくぐったゾロティ・ヴォロータ(黄金の門)のように、第二次世界大戦(大祖国戦争)時にドイツ軍に破壊されたものも少なくない(その上で、ゾロティ・ヴォロータのように復元されたものも少なくない)。 ウクライナは両大戦において主戦場となったためそれにまつわる多くの記念碑が建てられているが、キエフ市内及び郊外にも数多くの記念碑が見られる。 それ以外には、現在のキエフに戦火の傷跡を見つけることは難しい。
町は年々発展しており、ロシアの主要都市などと比べても外観・内容ともに豊かである。
[編集] 地理
キエフの旧市街は、ドニエプル川(ドニプロー川)を見下ろす小高い丘の上にある。
市はドニエプル川を挟んで広がっているが、その内丘陵地帯の西岸側が古い建物の残る従来の市街地で、それに対し低地である東岸側は、高層建築物の目立つ新市街となっている。また、川の中州にはかつてドイツ軍に破壊された村の跡にヒドロパールク(水公園)がつくられている。
[編集] 歴史
- 主要記事:History of Kiev
[編集] 創建
キエフはおおよそ5世紀頃に建設され、コンスタンティノープルとスカンジナビア半島の間の交易の拠点となっていた。 6世紀のゴート人の歴史家ヨルダネスは、「ドニエプル川の町」という意味のダナピルスタディル(Danapirstadir)という名で記録している。 ルーシと呼ばれるようになるこの地域がスラヴ人の統治下に入ると、この町はキエフと呼ばれるようになり、町の建設者キーフの名に因むという伝説が生まれた。
[編集] キエフ大公国
882年から1169年まで、ルーシの中心都市となったキエフはキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の首都として繁栄した。最古の東スラヴ語文献である「原初年代記」はこの頃ペチェールスィカ・ラーヴラ(修道院)で書かれた。なお、同修道院には現存するルーシ最古の壁が残されている。12世紀頃からルーシのほかの都市の発展に押されて衰退を始める。
1240年のモンゴル帝国による征服時の破壊により、決定的な打撃を受けたこの都市を支配する勢力は、1264年までのハールィチ・ヴォルィーニ公国から非スラヴ系国家のリトアニア大公国に移り、1569年にリトアニアが同君連合を結んでいたポーランド王国とルブリン合同を結んで併合されるとポーランド領に入った。 ポーランド・リトアニア連合王国の支配下で、ドニエプル川の中流に興ったザポロージエ・コサックの統治地域に加わり、コサックのもとで復興を遂げたキエフは、1648年には短命に終わることになるウクライナ・コサック国家(ヘーチマーン国家)の一部としてポーランドから独立した。 キエフはヘーチマーン国家の文化的中心として再び栄え、ウクライナ・バロック文化が養われた。
1654年、ヘーチマーン国家はモスクワ大公国・ロシア帝国に対する政治的な闘争に破れ、その宗主権下に入ることとなった。1667年、ウクライナ・コサックを巡るポーランドとロシアの戦争が講和を迎え、キエフを含むヘーチマーン国家は正式にロシア帝国の版図と定められた。
その後、キエフは徐々にロシアの一地方に地位を落としていったが、それでもやはりウクライナ文化や政治運動の中心地のひとつとしての機能を担っていた。そのため、モスクワ政府はキエフを強力な監視下に置くようになり、時期により差異はあるとはいえ、ウクライナの文化的あるいは政治的運動は「マゼッパ主義」や「裏切り独立主義」などと呼ばれ弾圧を加えられた。
[編集] ウクライナ国民共和国~ソビエト連邦の形成
1917年のロシア革命後、ウクライナはロシア内戦・ウクライナ内戦の主戦場となった。ウクライナの中心都市であったキエフは多くの勢力によって次々に支配をされた。
1917年秋、キエフのウクライナ中央ラーダがウクライナ国民共和国の事実上の独立宣言をするとロシアのボリシェヴィキはウクライナに侵攻を始め、ウクライナ・ソビエト戦争が開始された。共和国の首都となったキエフは赤軍による攻撃を受けた。1918年1月29日、ウクライナ国民共和国軍はキエフ郊外のクルトィ駅の戦いで赤軍に破れ、ウクライナ勢力の劣勢が決定的になった。その後、ロシアの占領軍によってキエフの住民の虐殺が行われた。
- この内戦で、ウクライナの古都キエフはウクライナ民族主義の拠点となった。
- 一方、ロシア赤軍に協力するウクライナ人民共和国(ウクライナ・ソビエト共和国)の首府は、ロシア人やユダヤ人の多いハリコフに置かれた。
1918年4月29日にはドイツ軍によるクーデターが行われ、傀儡国家となるウクライナ国がキエフに建設された。だが、12月にはドイツ軍の撤退により同国はドィレクトーリヤに倒され、ドィレクトーリヤはウクライナ国民共和国を再建した。 1918年から始まったポーランド・ソビエト戦争の主戦場の一つとなった。
1920年には、ポーランド軍と合同したドィレクトーリヤ軍によるキエフ攻勢が実行され一時はキエフを奪還したが、最終的には赤軍に敗れた。 結局、ウクライナの独立各派は相互の協力に失敗し、またイギリスやフランス、そしてポーランドなどのような外国勢力も非協力的であったことからソビエト政府に対して敗北を喫し、ウクライナの独立は潰えた。 それに伴い、ソ連時代初期のウクライナ社会主義ソビエト共和国の首都は民族主義熱の高かったキエフを避け、1934年にキエフに戻るまでハリコフに置かれた。 1937年、国号はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に改称された。
第二次世界大戦中の1941年9月19日、侵攻して来たナチス・ドイツ軍がバルバロッサ作戦の一環としてキエフを占領した。 同年の9月29日と30日に、キエフ近郊のバービー・ヤールで、ナチス親衛隊の特別殺戮部隊が、33771人のユダヤ人を虐殺した。 キエフ市は1943年11月6日に赤軍によって奪還されるまでドイツの占領下にあった。 市街や郊外はドイツ軍による激しい破壊を受けたが、戦後復興に力が入れられ、比較的早い時期に復興を果たした。
[編集] ウクライナ独立
1991年にウクライナが独立してソ連が崩壊すると、キエフは新たな独立国ウクライナの首都となった。
独立後は、それまでのロシア語優遇政策が改められ、市内の表記も広告等ふくめ全てウクライナ語に制限されるようになった。 ただし、ウクライナには専らロシア語を使う人々も少なくないことには注意を要する。そのため、新聞などはロシア語のものの発行が許されている。また、テレビ放送はロシアで製作されたものも多く、その場合はウクライナ語字幕つきロシア語放送となっているものが多い。外国映画等の放送は、ロシア語吹き替えにウクライナ語字幕がつくという具合である。
[編集] 行政
[編集] 交通
- 地下鉄, 3路線 これらは現在も建設中であり、今後路線数及び総延長は伸びる計画である
- 路面電車(トラム)のキエフ市電、バス、トロリーバス、マルシュルートカ(ワゴン車・マイクロバス等を利用した個人経営のバス)が無数に運行されており、交通網は非常によく発達していると言える。
バスやトロリーバスには、旧ソ連時代の車両の他、真新しい国産車やドイツ製のものも多く見られる。
[編集] 空港
- キエフ・ジュリャーヌィ国際空港(市内) 主に国内線、国立航空博物館(ウクライナ空軍の使用機等を展示)を併設
- キエフ・スヴャトーシノ空港(市内)
- キエフ・チャイカ空港(隣接)
- ボリースピリ国際空港(ボリスピリ市) 国際線、東隣のボリスピリ市に位置しており、キエフからのアクセスは不便である
- ホストーメリ空港(ホストメリ市)
[編集] 教育
国立シェフチェンコ記念キエフ大学を始め多くの大学がある
[編集] キエフの風景
[編集] 建物
キエフの聖ソフィヤ教会は、キリスト教を広めようとするビザンティン帝国の協力の下、ビザンティン様式の華麗な教会を模して、1037年に建てられた。コンスタンティノープルにあるハギア・ソフィア大聖堂と同じように、「聖なる知恵」に捧げたものであったが、建物の姿形は全く異なるものである。四角い建物の上に一つの半球状のドームがあるコンスタンティノープルの大聖堂に対して、キエフのハギア・ソフィアは、円柱状の建物の上に13のたまねぎ状のドームがある。中央のドームは他より大きいがこれに特に意味はない。この教会は過去に幾度か損傷を受け、最近の修復作業により装飾しなおされている。
大祖国戦争を記念する栄光の公園(パールク・スラーヴィ)にあるローヂナ・マーチ像 |