通勤五方面作戦
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通勤五方面作戦(つうきんごほうめんさくせん)とは、首都圏における日本国有鉄道(国鉄)の通勤路線(国電)における輸送量増強を目指し、1964年(昭和39年)に国鉄の通常常務会で策定された壮大プロジェクトの総称である。
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[編集] 五方面作戦の背景と計画
戦後の高度経済成長と都市部の過密化により、東京近郊路線の通勤時間帯における混雑は「通勤地獄」と称されるほど深刻なものになっていた。一例として、定員に対する乗車人員数で表される乗車率の最大値を見ると、1960年(昭和35年)度には、総武本線で312%、東北本線で307%、山手線で299%、中央快速線で279%、常磐線で247%に達している。
それまでも国鉄は、72系に代表される旧型国電や客車列車を新性能電車(101系・113系など)に置き換え、列車本数を増やすことで混雑緩和を図っていた。しかし、輸送量の増加に見合うものではなく、混雑を解消するには線増を伴う抜本的な輸送力強化が必須とされた。
国鉄の路線図を見ると、東京都心への輸送は西から時計回りに東海道本線・横須賀線、中央本線、東北本線・高崎線、常磐線、総武本線が担っていることが分かる。これら5方向へ放射状に伸びる路線を複々線化するなどして抜本的な輸送力増強策を計画・実行したことが、「通勤五方面作戦」と呼ばれる所以である。
また運転業務面においても、増発に次ぐ増発を行っても、当時の輸送人員はそれ以上に増加していたため、このプロジェクトの早期完成によって混雑緩和ならびに列車増発が可能になるので、運転担当者も早期の完成を強く国鉄当局に要請した。
[編集] 輸送力増強の内容
[編集] 東海道本線・横須賀線
東海道本線と横須賀線は、それまで東京駅~大船駅間で線路を共有して運行されていた。これが双方路線の列車増発の障壁となっていた。
この状況を打破するため、俗に「SM分離」(両路線電車の列車番号の末尾英字の組み合わせから)と呼ばれる対策が取られた。具体的には、平行する東海道貨物線を旅客化して横須賀線電車をそこに移し、貨物列車は新たに建設する貨物線を利用する方向で検討がなされた。また、横須賀線は東京駅~品川駅間で総武快速線と相互直通運転を行えるよう地下線を新設した。全ての工事が完了したのは1980年(昭和55年)10月である。
詳しくはSM分離を参照のこと。
[編集] 中央本線
中央本線系統では、既に完成していた御茶ノ水駅~中野駅間の複々線を三鷹駅・立川駅まで延伸する事と、建設が開始されていた営団地下鉄(現・東京地下鉄)東西線へ中野駅から国電が直通する事が計画の基本となった。
1966年(昭和41年)に中野駅~荻窪駅間の複々線化が完成して地下鉄東西線との直通運転が開始され、続く1969年(昭和44年)には三鷹駅までの複々線化が完了した。しかし三鷹駅~立川駅間に関しては完成には至らないまま現在に至っている。
詳しくは中央本線複々線の沿革についてを参照されたい。
[編集] 東北本線・高崎線
この系統では、東北本線・高崎線列車と京浜東北線電車が赤羽駅~大宮駅間で線路を共用していたのを分離する事とした。この工事は「ヨンサントオ」改正の実施に合わせて1968年(昭和43年)10月に完成している。
[編集] 常磐線
常磐線では、北千住駅~取手駅間を複々線化し、快速電車や中距離電車・特急列車と各駅停車を、それぞれ常磐快速線と常磐緩行線とに分け、常磐緩行線電車は、全てが新規に建設される営団地下鉄(現・東京地下鉄)千代田線と相互直通運転する事とされた。
1971年(昭和46年)4月に我孫子駅までの複々線化と、霞ヶ関駅まで開通していた営団地下鉄千代田線との直通運転が実施され、1982年(昭和57年)11月には緩行線の我孫子~取手駅間の開業がなっている。しかし、各駅停車列車が上野駅に直通しないことや、営団の運賃が割高であったこと等から「迷惑乗り入れ」といわれる社会問題も引き起こした。
詳しくは常磐緩行線建設の経緯と問題点を参照のこと。
[編集] 総武本線
総武本線では、錦糸町駅~千葉駅間において、快速電車・特急列車と各駅停車をそれぞれ総武快速線と総武緩行線とに分離する複々線化を行った。また同時に東京駅~錦糸町駅間に地下新線を建設して東京駅に乗り入れ、さらに横須賀線電車との相互直通運転の実施を計画した。また前述した地下鉄東西線へも、一部緩行線電車が西船橋駅~津田沼駅間で相互乗り入れを行う事とした。
東西線との相互乗り入れは1969年(昭和44年)に開始され、東京駅~錦糸町駅~津田沼駅間の新線・複々線は1972年(昭和47年)7月に、津田沼駅~千葉駅間の複々線は1981年(昭和56年)10月に完成している。常磐線の場合と異なり、こちらでは東京駅へのアクセスが、従来は秋葉原駅で乗換える必要があったところが、改良後は快速が直接乗り入れるようになったので、沿線住民から絶賛された。
詳細は総武快速線建設の経緯を参照のこと。
[編集] 五方面作戦と国鉄財政
以前より行われていた優等列車の増発とは異なり、通勤ラッシュへの対策は投資額の割には増収・増益には結びつきにくい。都市生活を支えるインフラ整備に近い面を保つことを考えても、その費用は主として国ないし自治体が請け負うべき事業であったと考えられる。
にも関わらず、通勤五方面作戦には国鉄の、しかも主に借款による資金が主として利用された。その負担は地方ローカル線の衰退や新幹線の建設などにより悪化していた国鉄財政には耐えられるものではなく、国鉄分割民営化の一つの遠因となった、とも言われている。
ちなみに、国鉄のPR映画『見えない鉄道員』(岩波映画)では、当時の最新鋭コンピュータ(紙テープおよびラインプリンタ)を用いた、五方面作戦の計画図を作成する様子が描かれている。
[編集] 参考文献
- 猪口 信「国鉄時代の大プロジェクト 『首都圏5方面作戦』とは何だったのか」
- 交友社『鉄道ファン』2004年9月号 No.521 p105~p109
- 向井慧文「1960年代 東京の国電」
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年1月号 No.756 p23~p34
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