国鉄分割民営化
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国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)とは、中曽根康弘内閣が実施した政治改革。 日本国有鉄道(国鉄)をJRとして6つの地域別の旅客鉄道会社(JR東日本・JR東海・JR西日本・JR北海道・JR四国・JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)などに分割し民営化するものである。これらの会社は1987年4月1日に発足した。
中曽根内閣は、それ以外に憲法改正や教育改革にも取り組もうとしたが、実現したのはこれだけだった。電電公社や日本専売公社、のちの日本道路公団や日本郵政公社民営化など、自由民主党による一連の民営化政策の目玉である。なお、分割・民営化に現場で辣腕を振るったのは、運輸大臣の三塚博だった。
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[編集] 目的
[編集] 巨額債務の解消
東海道新幹線の建設費に端を発し、赤字ローカル線建設などによって膨れ上がった国鉄の長期債務は金利負担などによってもはや自力では返済不可能なほどに膨らんでおり、さらに東北新幹線及び上越新幹線などが建設されるに至り、国鉄にとって相当の負担となっていた。1982年8月2日の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止等が確認された(ただし1985年のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止)。一方、経営改善を理由に行なわれた度重なる国鉄の運賃値上げが乗客の「国鉄離れ」を進ませる結果となっていたことから、国民に対しては債務解消を国鉄分割民営化の最大の目的であると説明していた。
[編集] 国労の解体
国鉄労働組合(国労)の解体。国鉄とJRは別会社とし、JRに国鉄職員の採用義務はないものとして、国労組合員をJRから意図的に排除した。当時の国労は10万人以上の組合員を抱える日本最大の労働組合であり、野党として大きな力を持っていた日本社会党(現社会民主党)の主要な支持母体である総評の中心的な存在でもあった。国労を潰すことで総評を弱体化させ、それによって最大野党である社会党の力を削ぐのが国鉄分割民営化の一つの目的だったとされる。
国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を訴えたが、本音は「労働者の意地」であり{{要出典}} 、国民の幅広い共感は得られなかった。逆に国労や動労が中心となって起こした順法闘争は国鉄のサービスの低下につながり、利用者の「国鉄離れ」が進んだのみならず、「上尾事件」に代表されるようにしばしば物理的な形で国鉄やその職員に跳ね返ってきた。このほか全動労や動労千葉もターゲットとされた。当初反対の立場を取っていた動労は末期に「雇用の確保」を理由として突然賛成に廻り、これが反対運動に止めを刺し、さらにはJR東日本を牛耳る現状へ繋がったと言われている。
別会社にしたのは、国労潰しだけではなく、配置転換を円滑に進める目的があった。国鉄のままでは、労働者の了解を取らない配転は違法になる。そこで、新会社11社への再就職という形を取り、応じなければ国鉄を引き継ぐ国鉄清算事業団に送られてしまうようにした。新規採用なので、国鉄での配置は関係ないという理屈であった。
[編集] 経過
革マル派を除く左翼陣営が結束して反対。 1985年11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏ほかの国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、国民全体の心理をいっそう国鉄から乖離させる結果となってしまった。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。この時、共産党が指摘したのは、「赤字の最大の原因は与党政治家の介入による恣意的な路線拡張による負債にあり、国鉄の経営そのものは健全である」というものであった。
国労も、雇用確保のためにはやむなしと、執行部提案で条件付で分割・民営化を認める動議を提出。しかし当局側は、国労が各地で行っていた、地方労働委員会への不当労働行為申立ての取り下げ要求など、国労の全面降伏を求めたため、反発は強く否決された。執行部は総退陣(修善寺大会)し、分割・民営化容認派は国労を大挙して脱退。国労は最後の機会を逸したと中曽根首相は高笑いしたという。国労が全面降伏すればそれでよし、拒否するなら容赦なく潰す方針だった。なお、国労を脱退した者はほぼ全員が採用され、国労にとどまった者は、能力に関係なく優先して排除された。
また、国労組合員を余剰人員であるとして「人材活用センター」(人活)に隔離した。「人材活用」という名称とは裏腹に「教育」と称してまともに仕事もさせず飼い殺しにするという実体(廃レールでの文鎮作りや草むしりなど)が社会問題化したため、のちに「要員機動センター」と改称したが、このときの手法などが日勤教育に取り入れられたといわれる。
赤字路線の廃止も進められた。1981年より、3次にわたって廃止対象となる特定地方交通線の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、1983年の白糠線を皮切りに、45路線が廃止(バス転換)。36路線が第三セクター化、2路線が私鉄に譲渡され鉄道として存続した。民営化後の1990年、宮津線の第三セクター・北近畿タンゴ鉄道への転換、鍛冶屋線、大社線の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「赤字83線」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。しかし、風光明媚な車窓で知られ、夏を中心に観光客が押し寄せていた湧網線や広尾線(いずれも北海道)が廃止されたり、福岡市内に直結しながら営業努力の不足により赤字になっていた勝田線が廃止されたり、当時からほとんどの優等列車が経由していた伊勢線(現伊勢鉄道)が第三セクターへ転換されたりした一方、これらよりも利用率が低いにも関わらず独立した路線名を持っていない(他の線区の支線であった)がために廃止を免れる区間があったりと、廃止路線の選定については当時から「実態に一致しない単なる数字合わせ」との批判があった。なお、私鉄に譲渡された2路線(下北交通大畑線、弘南鉄道黒石線)はその後赤字の増加などで廃止された。第三セクター化路線もふるさと銀河線は2006年4月で、神岡鉄道は2006年11月をもってそれぞれ全線廃止、のと鉄道は路線の大半を廃止している。一方、北近畿タンゴ鉄道のように電化したり、土佐くろしお鉄道のように新たに新線を開業させたりと、逆に成長した鉄道もある。
このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では(後に東北・中国・四国も追加)職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州三大都市圏の電車区、駅、工場などに異動させる広域異動が行われた(1986年5月~12月に挙行、新会社発足前後の広域採用も含む)。特に北海道の場合、家族を含めて6000人以上が鉄道マン生活を維持していくために離道を余儀なくされた。この煽りを受け、1990年の国勢調査で北海道の総人口は、1920年の調査制度開始以来、初めて減少に転じてしまった。名寄市、音威子府村、追分町(現・安平町)、長万部町など国鉄を基幹産業としていた市町村で人口が大幅に減ったのはもちろん、旭川市、函館市、岩見沢市、稚内市など支庁を持つ中核都市までもが、道外異動による人口減の影響を受けている。
[編集] 結果
- 上記の通り、地方での赤字路線廃止がいっそう促進された。
- 職員の横柄な態度は長らく国民の非難を浴びていたが、分割民営化直後の一時期、「民業となったことで対応は柔らかくなり、ようやくサービス業としての体をなすようになった」といわれた。ただしこれについては異論があり、接客態度が良くなったのは、他社私鉄との厳しい競合にあるJR西日本管内での徹底した社員教育が目立つ程度であるともいわれる。また、全国的に駅の無人化や列車のワンマン化が、JR東日本管内ではみどりの窓口の無人化・遠隔端末化が進められていて、これをサービス低下だとする見方もある。このように「接客態度」を評価する以前に、そもそも係員が旅客に相対する場面自体が著しく減少しているという面もある。また、多様な企画乗車券が発売されるようになった反面、周遊券や青春18きっぷなどの使用条件などが狭められ、国鉄時代より利用しづらくなったものもある。また、JR西日本では、ローカル線で日中に保線を行うときに、列車を運休したうえに代行バスも運転しないなど、コスト最優先の体質が問題視されることもある。
- 市場原理を活用したことにより、本業での収益は好転した。しかし、国鉄清算事業団による用地売却は政治的な介入もあって予定通り進まず、その後のバブル崩壊によって土地の時価総額が減少するなどもあり、かえって債務総額は増えた。(日本国有鉄道清算事業団の項も参照のこと)
- 信楽高原鐵道列車衝突事故や2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故など数々の事故の原因が、市場原理を優先するあまり、安全性軽視によるものではないかとの指摘もなされている。これに対しては、統計によれば民営化後に鉄道事故は減少していること、JRグループよりも私鉄各社の方が事故が少ないことなどから、民営化とは関係ないという反論もある(資料)。このように、JRグループ各社によっても違いがあると思われる。
また、国鉄時代と民営化後の事故率を単純に比較し、民営化の影響を語ることは適切ではない。保安装置の技術水準が向上していることを考慮すれば、時代が下るにつれて事故率は自ずと下がる傾向にあるのである。 - 当局の思惑であった労資協調の労働運動は実現せず、かえって社共共闘の国労よりもさらに先鋭的で巨大な全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連・国鉄時代に国労よりも過激な活動を展開していた旧動労が中心)が現場の主導権を握った。後に方針に反発し、労資協調で旧鉄労系中心、すなわち旧民社系中心の日本鉄道労働組合連合会(JR連合)が分裂発足する。ただしどちらも連合に加盟している。
また、一部の労組の中枢部に過激派が食い込んでいるといわれ、その問題が完全に解決できないうちに完全民営化を急いだことについては公安関係からの憂慮もある。(国鉄動力車労働組合の項も参照のこと) - 排除された国労などの組合員のうち、最後に残った1047名が「国労闘争団」を組織。不当労働行為であるとして、地方労働委員会に裁定を申立てた。地労委はJRに救済命令を出したが、JRは拒否して再審査を申立てた。中央労働委員会でも闘争団側の主張は大部分認められたが、JRは逆に労働委員会を東京地方裁判所に訴えた。JR総連や連合も、従来の経緯からJRに全面協力し、逆に裁定を受け入れないよう迫ったという。2004年、最高裁はJRの主張を認め、不当労働行為があってもJRに責任がないとした。先鋭化した闘争団と、国労本体との対立も深刻化(詳細は国鉄労働組合を参照)。なお、中曽根首相はのちに、分割民営化の狙いが労組潰しであった事を認めている。
- 別会社にすれば特定組合の労働者の排除が認められたことで、偽装倒産による解雇を可能にする前例を残した。また、バブル崩壊後のリストラの先駆となった。
なお、当局の切り崩しによって少数派に転落した国労は、「国鉄」がなくなった今でも「国鉄労働組合」を名乗っている。ただし、JRが国労を相手に提訴していた損害賠償を取り下げる条件のため、国鉄の分割民営化を1995年になって認めた。
[編集] 関連項目
- 日本電信電話公社民営化
- 郵政民営化
[編集] 参考文献
- 加藤仁『国鉄崩壊』(1986/12 講談社 ISBN 4062030888)
- 葛西敬之『未完の「国鉄改革」 巨大組織の崩壊と再生』(2001/2/8 東洋経済新報社 ISBN 4-492-06122-3)
[編集] 外部リンク
- もう一つの「未完の国鉄改革」(宗方明『もう一つの「未完の『国鉄改革』」―JR東日本革マル疑惑問題を検証する』(2002/6/20 月曜評論社出版・高木書房発売 ISBN 4884715012)より、JR連合サイト)