近藤昭仁
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近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - )は、香川県高松市出身。プロ野球選手・プロ野球監督。
入団してから引退するまで大洋に在籍し、引退後は大洋、ヤクルト、西武、巨人のコーチ(巨人時代の1989年~1991年はヘッドコーチ)。その後は横浜、ロッテの監督を歴任した。2006年再び巨人ヘッドコーチに就任したが、持病の不整脈など「体力への不安」を理由に1年で辞任。総括ディレクターとしてフロント入りした。
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[編集] 来歴・人物
高松第一高等学校から早稲田大学を経て1960年、大洋(現・横浜)に入団。早大第二商学部時代の同級生に後に首相となる森喜朗がおり同じく一年後輩に川淵三郎がいる。背番号は1。同郷の先輩でもある三原脩新監督のもと、大洋は球団創設以来初の優勝を果たし、近藤もルーキーで日本シリーズMVPを受賞。主な守備位置は二塁。典型的な「2番・セカンド」タイプで、小技を得意としいぶし銀の活躍を見せた。1973年に引退。小柄ながら非常に気が強く、大学・プロでも背番号は絶対1番だと頑として譲らなかったという。近藤の背番号1は後に山下大輔、谷繁元信(捕手のイメージに合わないという理由で近藤が剥奪)、進藤達哉、波留敏夫、金城龍彦に引き継がれた。
その後はコーチ業として経験を積み、1974年~1978年大洋、1979年~1981年ヤクルト、1982年~1986年西武、1989年~1991年巨人。監督業は1993年~1995年横浜、1997年~1998年ロッテ。余談ながら横浜・ロッテ監督はいずれも早稲田の後輩江尻亮から引き継いでいる。2006年は15年ぶりに巨人のヘッドコーチを務めた。
目標とする監督は三原脩、広岡達朗、藤田元司の3人。しかし殆どのファンやマスコミは、後述のようなエピソードにより、近藤の監督としての資質に対し好意的な評価をしなかった。だが一方、近藤に抜擢・重用された者はその後の主力・看板選手となったケースが多く、選手発掘能力や育成能力という点では評価されるべき実績を残していると評するむきも、ごく一部だが存在する。
[編集] 横浜監督時代
1993年、大洋から球団名を改称した横浜の監督に就任。監督時代の近藤は、負け癖のついた生え抜きベテラン選手(屋鋪要・高木豊など)を初年度(1993年)終了後に大量解雇し、代わりに野手では鈴木尚典・佐伯貴弘・波留敏夫などの若手や駒田徳広といった移籍加入選手を積極的に登用した。一方投手では斎藤隆・三浦大輔など若手の台頭はあったものの、全般的には近藤が継投策を好んだ事から完投能力のある先発投手が育たず、中継ぎ以降の投手も登板過多で消耗気味であった。但しこれは逆に、それまで「ローテーションの谷間でたまに先発、あとは中継ぎ」といった中途半端な位置づけの投手であった島田直也や五十嵐英樹、河原隆一などを、ショートリリーフのスペシャリストへと変身させるきっかけにもなる。
作戦面では、後の大矢監督時代に命名された「マシンガン打線」のような自由奔放な攻撃は外国人選手を除いて認めず、自らの現役時代の得意技であったバントやエンドラン、スクイズを多用する「緻密野球」を主張した。しかし、あまりに定石どおりに作戦を進めるため采配パターンが露呈し、特にスクイズは実行してもしばしば相手バッテリーに見破られた。バントやスクイズを多用する采配はみずしな孝之の漫画『ササキ様に願いを』で近藤が「ノーアウトかワンナウトでランナー三塁の時はスクイズしないと死んじゃう病」を患っていると設定されているほど横浜ファンに知られていた(みずしなも横浜ファンである)。またどんなに好投している先発投手でも、好機で打順が回れば責任投球回数未満で簡単に代打を送り、そのあと交代した投手が打ち込まれるという試合展開が度々訪れた。
その上、投手だけでなく当時の正捕手・谷繁の打力も信用せずによく代打を送った。このため、ベンチ入りしている捕手(秋元宏作など)を全部使ってしまい、次の回の守備時にマスクをかぶる選手がいなくなってしまったなどという事態も一度ではあるが発生した。このとき代打に起用されたのは捕手から転向した外野手である宮里太だったが、もう控え捕手がいないことを宮里が近藤に上申したところ、近藤は即座に「君がマスクをかぶるんだ」と言い放ち、宮里に無理矢理マスクをかぶらせた。返す言葉なく打席に入った宮里は勝ち越しタイムリーを打ち、その後の守備も無事にこなした。ちなみに宮里は捕手時代に一軍スタメンの経験もある。
また、近藤は必要以上に巨人戦を意識し、リーグ戦の順位や日程に関係なく、必要であれば先発ローテーションを崩してまでも巨人戦に野村弘樹や斎藤隆などの主戦級投手をぶつけた。確かにこの時期の横浜は巨人に対して互角、もしくはそれ以上の成績を残したが、一方で他の対戦カードが疎かになってしまい、1993年は優勝したヤクルトに4勝22敗(ヤクルト以外の対戦では53勝51敗と勝ち越し)、1994年はヤクルトと同率4位の阪神に7勝19敗(阪神以外の対戦では54勝50敗と勝ち越し)と、特定の球団に大きく負け越す事が続いた(両シーズンとも、この負け越しさえなければ上位争い・優勝争いが出来たという意見もある。特に1994年は最下位ではあったものの、優勝した巨人とのゲーム差は9ゲームしかなかった)。
極めつけとも言うべき1994年の対ヤクルト最終戦(最下位決定戦)では、2アウト2塁で先発の斎藤に代打を送らなかったにも関わらず、次の回に1球も投げさせないまま斎藤を即交代させてしまうという不可解な采配により敗戦、1989年以来5年ぶり、横浜となってから初めて、そして1990年代では唯一のシーズン最下位確定となってしまった(試合後、一部のファンが憤激して暴れ出す騒ぎが発生する)。その年のファン感謝デーでは「土下座しろ!」や「近藤辞めろ」コールが発生、同監督の挨拶が途中で打ち切られている(同じ年にパ・リーグ最下位となった日本ハムの大沢啓二監督が実際にファンの前で土下座していたため)。
これらに見られるように近藤の采配は、個々の選手の能力に期待せず何よりも目先の1点に執着するスタイルであった。しかし大抵の場合その1点は取りこぼされ、たとえ何とか確保しても連日連投で疲れきった中継ぎ投手陣では守りきれない事が多かった。結果として成績は伸び悩み、1年目の1993年は最多勝(野村)・打点王(ロバート・ローズ)・盗塁王(石井琢朗)の3人のタイトルホルダーを輩出し、夏前には一時的に2位まで上昇しながら前述の通りヤクルトに叩かれたうえ後半戦でグレン・ブラッグスや佐々木主浩など故障者が続出して5位に終わり、2年目の1994年は先発投手陣が総崩れとなったため(二桁勝利投手ゼロ)総得点が総失点を上回ったにも関わらず最下位という初の珍事をもたらす(但し最下位とはいえ、勝利数自体は前回1989年を大きく上回った)。そのため選手たちとの間には確執を生み、ファンのフラストレーションも増加していった。なお近藤は下記のとおり、もう一度「総得点が総失点を上回ったにも関わらず最下位」という事態を起こしている。
それでも近藤は自らの采配スタイルをほとんど変えようとしなかったため、結局、最終年となった1995年は、チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割を記録したにもかかわらず、任期満了を理由に契約を打ち切られた。退任時には「さらば近藤」「もう戻ってくるな!」「バカの一つ覚え采配」などと記載された垂れ幕が横浜スタジアムのライトスタンドに出現し、『ササキ様に願いを』でも「これといった功績も残さず近藤監督辞任」と描かれる。
以上の経緯から、大洋時代も含めた歴代の監督の中で、近藤に対する横浜ファンからの人気は、外様の古葉竹識や森祇晶などと並んで最も低い部類に位置づけされている事は否定できない。これは、同じ生え抜き監督で近藤よりはるかに悪い成績を残しながらも、不思議とファンにはあまり憎まれなかった山下大輔と好対照である。しかしその一方で、若手を育てて横浜のリーグ優勝・日本一の基礎を固めた監督として結果的に再評価するファン(やくみつるなど)も一部に存在する。
[編集] ロッテ監督時代
1997年からは、いわゆる「広岡後」のロッテの指揮を執った。当時のロッテは前年の低迷に加え、小宮山悟に並ぶエースであった伊良部秀輝とエリック・ヒルマンが退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であった。その中で、黒木知宏、小坂誠、福浦和也、大村巌といった新たな戦力が、近藤に見出されて台頭を始めた。
しかしチーム成績は横浜時代同様伸び悩み、1年目はチームの防御率こそ3点台だったが打線が振るわず最下位、2年目は現在もプロ野球記録である公式戦18連敗を記録するなど散々であり、やはり最下位となった。加えて、1998年はチーム総得点が総失点を上回ったにも関わらず最下位という史上2度目の珍事をもたらす(なお上記のとおり1度目も横浜時代の近藤が引き起こしている)。
さらに1998年はチーム打率1位、チーム防御率2位とまずまずの成績を残したものの前述の18連敗で、選手個々の能力を引き出せないことが最下位に結びついた。このため近藤は引責辞任となったが、その辞任会見の席で「もっと強いチームで監督をやりたかった」という発言をし、ロッテファンの批判を浴びた。ただこの発言は弱いチームはすぐ結果を求めることへのフロントへの批判で、選手を馬鹿にした発言ではなかったという話もある。
[編集] 現在
前述のように、2006年は巨人のヘッドコーチを務めた。だがチームは開幕直後から白星を重ね、交流戦が始まった直後までは首位にいたものの、交流戦で負けが込み1ヶ月と経たずにBクラスへと急転落した。中でも交流戦6戦全敗と全く歯が立たなかった相手こそ、皮肉にも近藤がかつて「もっと強いチームで監督をやりたかった」と述べたロッテ(ちなみに前年日本一で、この時点でも首位だった、言わばもっとも強いチーム)であった。
[編集] 通算成績
年度 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 犠打 | 三振 | 打率 | 所属 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1960年 | 117 | 389 | 88 | 4 | 40 | 17 | 25 | 10 | 82 | .226 | 大洋 |
1961年 | 125 | 436 | 98 | 6 | 19 | 15 | 37 | 11 | 96 | .225 | |
1962年 | 131 | 462 | 111 | 4 | 27 | 11 | 32 | 15 | 79 | .240 | |
1963年 | 115 | 226 | 36 | 1 | 12 | 8 | 23 | 16 | 32 | .159 | |
1964年 | 134 | 353 | 94 | 4 | 28 | 20 | 15 | 32 | 23 | .266 | |
1965年 | 135 | 466 | 133 | 7 | 40 | 25 | 23 | 41 | 35 | .285 | |
1966年 | 127 | 381 | 96 | 6 | 27 | 16 | 15 | 17 | 38 | .252 | |
1967年 | 128 | 398 | 99 | 7 | 27 | 8 | 19 | 20 | 52 | .249 | |
1968年 | 117 | 376 | 97 | 6 | 32 | 8 | 26 | 8 | 35 | .258 | |
1969年 | 130 | 432 | 109 | 7 | 32 | 9 | 40 | 13 | 55 | .252 | |
1970年 | 124 | 360 | 93 | 4 | 36 | 2 | 21 | 21 | 48 | .258 | |
1971年 | 123 | 363 | 79 | 7 | 22 | 6 | 35 | 20 | 46 | .218 | |
1972年 | 81 | 175 | 41 | 2 | 16 | 2 | 26 | 9 | 24 | .234 | |
1973年 | 32 | 45 | 9 | 0 | 2 | 1 | 3 | 6 | 4 | .200 | |
通算 | 1619 | 5462 | 1183 | 65 | 360 | 148 | 340 | 239 | 649 | .243 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993年 | 平成5年 | 5位 | 130 | 57 | 73 | 0 | .438 | 23 | 87 | .249 | 3.83 | 55歳 | 横浜 |
1994年 | 平成6年 | 6位 | 130 | 61 | 69 | 0 | .469 | 9 | 107 | .261 | 3.76 | 56歳 | |
1995年 | 平成7年 | 4位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 | 16 | 114 | .261 | 4.37 | 57歳 | |
1997年 | 平成9年 | 6位 | 135 | 57 | 76 | 2 | .429 | 19.5 | 75 | .249 | 3.84 | 59歳 | ロッテ |
1998年 | 平成10年 | 6位 | 135 | 61 | 71 | 3 | .462 | 9.5 | 102 | .271 | 3.70 | 60歳 |
- 監督通算成績 660試合 302勝353敗5分 勝率.461
[編集] 関連項目
- 千葉ロッテマリーンズ監督
- (1997年~1998年)
-
- 先代:
- 江尻亮(1996年)
- ※カッコ内は監督在任期間。
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