盛田幸妃
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盛田 幸妃(もりた こうき、1969年11月21日 - )は北海道鹿部町出身。元プロ野球選手。現役時代は横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズや大阪近鉄バファローズで活躍。横浜時代の登録名は盛田幸希(読み方は同じ)。現在は横浜球団職員を務めながら、TBSラジオ専属の野球解説者として活躍。コピーは「奇跡のリリーバー」。またライツ・スポーツネットワークの講師の一人としても活動している
ダイナミックなフォームから繰り出す速球と決め球の高速シュートが特徴。得意としたシュートは他球団の右打者たちを苦しめ、往年の三冠王落合博満(現・中日ドラゴンズ監督)は、現役時代最も苦手だった投手の名を聞かれると、「盛田」と即答したという。
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[編集] 来歴・人物
- 1987年 - 函館有斗高等学校(現・函館大学付属有斗高等学校)のエースとして夏の甲子園に出場するも、一回戦で上原晃を擁する沖縄水産高等学校に敗退した。秋のドラフトで、横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団(なお、このドラフトで大洋は長嶋一茂を1位指名したが、複数球団競合指名による抽選の結果、ヤクルトスワローズが長嶋の交渉権を獲得したため、いわゆる「外れ1位」で盛田が指名された)。
- 1988年 - ルーキーイヤーのこの年、5月21日の中日ドラゴンズ戦で1軍デビュー。
- 1992年 - 江尻亮代理監督によって重用されるようになり、中継ぎ投手としてブレイク。ほとんどリリーフでの出場で規定投球回に達し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。オールスターゲームにも監督推薦で初出場。佐々木主浩とともに「ダブルストッパー」と呼ばれる。
- 1993年 - 球団名が横浜ベイスターズに変更。しかしシーズン前の自主トレ中に右ひざ靭帯を損傷し、シーズンをほとんど棒に振る。
- 1994年 - 登録名を「幸妃」から「幸希」に変更。同時に、前年引退した斉藤明夫から背番号17番を受け継ぐ。この年右ひじを手術した佐々木主浩に代わり、前半戦のクローザーを務める。
- 1995年 - セントラルリーグ最多登板、オールスターゲームにも二度目の監督推薦で出場。
- 1996年 - 大矢明彦監督による大規模コンバートの一環として、先発投手に転向しシーズン開幕投手を務める。しかし、リリーフとの調整法の違いから制球に苦しむようになり、危険球で退場処分されたのを機に成績が落ち始める。
- 1997年 - 2年連続開幕投手となるが、6回3失点で敗戦投手となる。以後、登板試合数が減少。
- 1998年 - 中根仁外野手とのトレードで近鉄に移籍、登録名を「幸妃」に戻す。5月末頃から右足首の違和感や麻痺などが起こり8月13日に1軍登録抹消。検査の結果、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が発見され、9月に摘出手術を受ける。このとき右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。
- 1999年 - 驚異的な回復力で8月にはウェスタンリーグに復帰、最終戦で一軍復帰。
- 2001年 - 34試合に登板、2勝を挙げ、チーム12年ぶりのリーグ優勝に貢献オールスターゲームにも中継ぎ部門でファン投票1位で選ばれ、カムバック賞を受賞。
- 2002年 - 10月6日大阪ドームでの試合を最後に現役引退。同年、球団職員として横浜ベイスターズに復帰。
[編集] 略歴
- 球歴
[編集] 背番号
- 15(1988年 - 1993年)
- 17(1994年 - 1997年)
- 21(1998年 - 2002年)
[編集] プロ時代の戦歴
- 345試合出場、47勝34敗29セーブ、434奪三振、防御率4.05
[編集] タイトル
- 最優秀防御率(1992年)
- カムバック賞(2001年)
[編集] エピソード
- 5歳のとき、実弟が脳腫瘍で夭折。弟が遺したグラブ(おもちゃ)で遊ぶようになったのが、野球生活の原点という。幸妃本人も28歳の時に脳腫瘍に冒され入院・手術・復帰という経緯をたどる。
- プロ入りの前、漁師だった父親が海で遭難した際に、大洋漁業(現・マルハ、当時のホエールズの親会社)の漁船に救助された、という逸話がある。
[編集] 著書
- 『彼女がくれたマウンド』(倫子夫人との共著、光文社)
[編集] 出演番組
- ザ・プロ野球
- HBCスーパーベースボール
- ベイスターズクラブ(tvk)