フランス植民地帝国
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フランス植民地帝国(French Colonial Empire)は16世紀から20世紀にかけてフランスが海外に建設した植民地の集合体である。この場合の帝国とはフランス本国の政体が王国、帝国、共和国にかかわらず、海外の多民族の領域を支配したことを指す。
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[編集] 最初の植民地帝国
フランスの最初の海外進出は16世紀初め、フランソワ1世の時代にジャック・カルティエの北米カナダ・セントローレンス川探検である。この頃、フランスの漁民も北米のニューファンドランド周辺海域にしばしば出漁していた。しかし16世紀後半のユグノー戦争による国内混乱のため海外進出の企ては一時頓挫した。
フランスの海外植民が本当に始まったのは1605年7月27日、今日のカナダ・ノバスコシア州であるアカディア植民地にポート・ロワイヤルが創設されてからとなる。1608年にはサミュエル・ド・シャンプランがケベックを創設する。ケベックは広大ではあるが人口希薄な毛皮貿易植民地ヌーベルフランス(カナダンともいう)の首都となった。フランス人はセントローレンス川流域やその後背地に次第に浸透して行った。しかし北米におけるフランス植民政策はイギリスの北米植民地に比べて人口や経済発展ではるかに遅れており、1713年のユトレヒト条約で仏領アカディア植民地が英国に割譲された。だがフランスの北米植民地は1699年にミシシッピ川流域にルイジアナ植民地が樹立されたことによって一挙に拡大した。もっとも実効支配していたのはメキシコ湾沿岸のモービルやニューオーリンズ(1718年創設)などいくつかの交易拠点に過ぎなかったが。
フランス人はまたカリブ海の西インド諸島に小さいがもっと利益を生み出す植民地を作っていた。1624年には南米大陸の一角に今日仏領ギアナと呼ばれる植民地を創設し、1650年にはサン・キット島にも植民した(1713年のユトレヒト条約で英国に割譲)。フランス・アメリカ会社は1635年、グアドループとマルティニクに植民地を創設し、1650年にはサン・ルシアにも植民が行われた。しかし最も重要な植民地は1664年にスペイン領ヒスパニオーラ島の西半分に創設されたサン・ドマング(現・ハイチ)だろう。サン・ドマングは18世紀にカリブ海における最も富裕な砂糖植民地となる。
フランスの海外発展は新世界だけに限定されない。1624年には西アフリカのセネガル海岸部にいくつかの交易拠点が樹立されたし、1664年には東洋での貿易のためにフランス東インド会社が創立されている。1673年にはベンガルのシャンデルナゴルが植民地となり、インド東海岸ではポンディシェリ(1674年)、ヤナム(1723年)、マエ(1725年)、カリカル(1739年)が植民地となった。インド洋上でも1664年ブルボン島(レユニオン)、1718年ル・ロワイヤル島(モーリシャス)、1756年セーシェル諸島がフランス領となった。
[編集] 英国との植民地戦争
18世紀半ば英国との一連の植民地戦争が始まり、最初のフランス植民地帝国のほとんどが没落することになる。これらの戦争とはオーストリア継承戦争(1744年~1748年)、七年戦争(1756年~1763年)、アメリカ独立戦争(1778年~1783年)、フランス革命戦争(1793年~1802年)、ナポレオン戦争(1803年~1815年)である。海外では北米植民地戦争と呼ばれ、1760年代までに大英帝国によって海上の覇権を奪われて行った。
フランス領インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレックスの成功にもかかわらず、インドにおける英国との争いはオーストリア継承戦争では決着が付かず、七年戦争では当初フランス側が北米で優勢であったが、最終的にニュー・フランスは英軍に占領され、ほとんど西インド諸島の植民地とすべての仏領インドが失われた。パリ講和条約ではいくつかのインドにおけるフランスの植民拠点とカリブ海のマルティニクとグアドループがフランスに返還されたが、後にルイジアナはスペインに参戦の代償として割譲され、フランスは北米大陸から全面的に撤退したのである。西インド諸島のグラナダとサン・ルシアも英国に割譲された。フランスがアメリカ独立戦争に参戦したことにより、1783年のパリ条約でサン・ルシアがフランスに返還されたが、当初の期待よりはるかに少ない成果であった。
残されたフランスの植民地も1791年にサン・ドマングで発生した黒人奴隷革命により大打撃を受ける。フランス革命による現地白人支配層の亀裂から生じた黒人暴動は1804年にはハイチ共和国の成立にいたり、フランスは最も収益のあるこの植民地を失った。エジプトに植民地を創設しようとしたナポレオンの企ては失敗に終わり、ナポレオンがスペインから取り戻したルイジアナ植民地も財政上の必要からアメリカ合衆国に売却された(ルイジアナ買収)。ナポレオン戦争中残されたフランス植民地はすべて英軍に占領されている。
[編集] 第二の植民地帝国
ナポレオン戦争後ブルボン・フランスが復活したため、多くのフランス植民地はフランスに返還された。西インド諸島のグアドループとマルティニクを始め南米の仏領ギアナ、セネガルの交易拠点、インド洋のレユニオン及びインドのポンディシェリなどである。しかし第二のフランス植民地帝国の真の始まりは1830年から17年間続いたアルジェリアの征服であった。ナポレオン3世はアメリカの南北戦争に乗じてメキシコに保護国を樹立しようとしたが、アメリカ内戦の終結により失敗に終わった。ナポレオン3世はまたサイゴンを首府とするコーチシナを直轄植民地とし、カンボジアも保護国として組み入れた。
フランスの植民地の大部分が獲得されたのは普仏戦争(1870年~71年)後のことである。コーチシナの基地からフランス人は1883年にトンキンとアンナンを獲得し、仏領インドシナを形成した。1893年にはラオス、1900年には中国南部(清)の広州湾租借地もこれに加えられた。1881年にはチュニジアを保護国としている。
20世紀始めまでにフランスはアフリカ北部、西部、中部に次第に植民地を拡大していった。この広大な植民地には現代のモーリタニア、セネガル、ギニア、マリ、コートジボアール、ニジェール、チャド、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、マダガスカル、ジブチが含まれる。1911年にはモロッコも保護国とされた。第一次世界大戦では約55万の植民地兵がフランス戦線に動員され、特に勇猛なセネガル兵は最前線に送られて数万の戦死者を出した。また人手不足となったフランス国内に植民地は20万人以上の労働者を送っている。大戦後にはオスマン帝国領であったシリアとレバノン及び元ドイツ植民地であったトーゴとカメルーンを獲得した。
[編集] 第二次世界大戦中の動向
第二次世界大戦が勃発してパリが陥落し、ヴィシー政権がドイツに降伏すると、シャルル・ド・ゴール将軍がロンドンに亡命して自由フランスを結成、フランスの政権中枢は二派に分かれた。アルジェリア、セネガル、シリア、マダガスカル、インドシナなど主な植民地はヴィシー政権に忠誠を誓ったが、チャドなど赤道熱帯アフリカや南太平洋の植民地などは自由フランス支持を表明した。インドシナは日本軍進駐を受け入れ、マダガスカルも日本軍進駐の計画があったため、英軍が上陸してヴィシー派の植民地政府を降伏させた。シリアはイギリス・自由フランス連合軍が侵攻の末、自由フランス支配地域となり、1943年には独立を達成した。ド・ゴールの自由フランス軍はセネガルの首府ダカール攻撃も行ったが、これは失敗した。1942年末連合軍が北アフリカに上陸するとアルジェリアにはフランス国民解放委員会が設けられ、アフリカの植民地は自由フランス側に結集するようになった。
[編集] 民族主義とアルジェリアの抵抗
第二次世界大戦中占領されたフランス植民地は1945年に返還されたが、インドシナでは終戦後直ちに民族独立闘争が起き、フランスは泥沼の第一次インドシナ戦争にはまり込んで行く。結局戦争はフランスの敗北に終わり、1954年にはインドシナから撤退したが、次にはフランスの主要な植民地であるアルジェリアで独立戦争が起った。アルジェリアには150年にわたるフランス支配の間に定住した「ピエ・ノワール」と呼ばれるヨーロッパ系住民が住んでおり、フランスは当初アルジェリアを独立させない方針であったため、アルジェリア戦争は長期化した。入植者側の秘密軍事組織OASが破壊工作を行い、アルジェリア駐在フランス軍部隊がパリにクーデターを仕掛ける動きさえあった。1958年大統領となったシャルル・ド・ゴールは1962年最終的にアルジェリアを独立させることで決着を着けた。その他の多くの仏領アフリカの植民地は1960年に独立していた。
[編集] 現代フランスの海外領土
現在のフランスには4海外県、3海外領土、その他の領土が残されている。これらの海外領土のなかでもグアドループやニューカレドニアなどには独立の動きがないわけではない。
- 海外領土
- その他
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- フランス帝国1870-1914(フランス語)