マルコ・ポーロ
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マルコ・ポーロ(Marco Polo, 1254年9月15日 - 1324年1月8日)は、ルスティケロの著作『東方見聞録』を口述したというヴェネツィア共和国商人、旅行家。
『東方見聞録』によれば1271年にイラン・中央アジアを経て上都に入り、皇帝クビライに謁見した。その後、20年間元に仕えながら中国周辺の各地を巡り、1292年、泉州からイランのイルハン朝を経て帰国したという。
[編集] 概要
1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったピサ出身のルスティケロと獄中で同じ牢獄にいたことで知り合い、日本では『東方見聞録』という名でよく知られた旅行記『世界の記述』("La Description du Monde"。また"Il Milione"『百万』という写本名でも有名。)を口述したという。その写本の記事はヨーロッパの人々には信じがたい壮大な内容を含んでいたため、マルコ・ポーロは嘘つき呼ばわりされ、アジアで見た物を数えるときいつも『100万』と言ったことから『100万のマルコ』とあだ名されたという。しかし、彼の伝えたアジアの富に関する記事はよく読まれて旅行記は内容を書き加えられながら写本を重ね、後の大航海時代に大きな影響を与えたと言われる。東方見聞録は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観を一変させたといえる。彼の時代以降、世界地図として一般的だったTO図は激減し、社会的変化を呼び起こし、ルネサンスにも影響を残すことになった。
彼は元に滞在中、アジア探索を数多く行ったが、その中の一つに当時ヨーロッパで流布されていた、キリスト教国家プレスター・ジョンの発見を目指していたとも言われている。最終的には発見される事はなかったが、彼はプレスター・ジョンがアジアのどこかに存在すると確信していたと言う。
[編集] 評価
- 大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』(1995年、訳、栗野真紀子 草思社、1997年11月、ISBN 4794207891)において『東方見聞録』に紹介されていない中国の風俗が多いことなどを理由にマルコが元まで行ったことに否定的な見解を示している。
- 日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけている。その理由として『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。
ただし『東方見聞録』の中には実際にクビライの近くにいなければ到底知りえないことが数多く記載されているので、『東方見聞録』は複数のヴェネツィア商人の記録を纏めた物ではないかとも考えられる。当時、モンゴル帝国の整備した交通網によって、ヴェネツィア商人のみならず、数多くの西欧人が帝国各地を訪れていたことが各種記録に残されている。
日本では、ヨーロッパに日本のことをジパング(Zipang)の名ではじめて紹介したことでもよく知られている。ここで日本は「黄金の国ジパング」と紹介されているが、マルコ・ポーロは実際に日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話的な話となっている。黄金の国~というのは中尊寺の金色堂についての話を聞いた処に因っている。 尚、日本人については「人を食べる」という記述もある。