イタリア領ソマリランド
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イタリア領ソマリランドは、19世紀末から1941年まで東アフリカに存在したイタリアの植民地のこと。現在のソマリアから、北西部を除いた地域に相当する。また、1950年から1960年まで存在したイタリア信託統治領ソマリアについても、本項で記述する。
[編集] イタリア領ソマリランド
アデンに進出したイギリスが、紅海からインド洋への出口の安全を確保するため、まずイギリス領ソマリランドを成立させた。そして短期間のイギリスによる統治の後、インド洋沿岸に拠点を築こうと、イタリアがこの地域に進出する。1880年代までに、イタリアは植民奨励政策によってインド洋沿岸部にいくつかの植民地を築いていたが、1900年頃からイギリス領ソマリランドでモハメド・ビン・アブドラによる反乱が発生し、イギリスは内陸部からの撤退を始める。その間にイタリアがインド洋沿岸から内陸部へと勢力を拡大、この地域の大半を支配するようになり、沿岸部の植民地と内陸部が統合され、1908年までにイタリア領ソマリランドが成立した。イギリスは1910年までに内陸部から撤退を終えている。
第二次エチオピア戦争後の1936年、イタリア領ソマリランドはエチオピア、エリトリアと共にイタリア領東アフリカの一部となった。第二次世界大戦にドイツの同盟国として参戦したイタリアは、1940年にイギリス領ソマリランドを占領。だが翌1941年には同地域を奪還され、逆にイギリスによりイタリア領ソマリランドは占領された。その後1950年4月まで、イギリス軍政がこの地域の統治権を行使することとなる。
[編集] イタリア信託統治領ソマリア
1947年にイタリア平和条約が調印され、イタリアはイタリア領ソマリランドを含むアフリカの全植民地からの撤退を余儀なくされた。だが連合国の間でこの地域の処遇について合意がなされず、1949年11月、問題は国連総会にかけられ、旧イタリア領ソマリランドを国連信託統治下に置く計画が採択された。
この計画は、イタリアが10年の期限付きでこの地域を支配下に置くことを認め、その間にソマリ族の政治的指導者の育成など、独立への準備を進めさせるというものである。1950年4月1日をもって、イタリアがイギリス軍政から統治権を委譲され、イタリア信託統治領ソマリアが成立した。
独立を翌年に控えた1959年、議会選挙が行われ、民族主義組織ソマリ青年連盟が勝利、同じソマリ族の地域であるイギリス領ソマリランドとの統合を主張した。イギリス領ソマリランドの民族主義者がこれに呼応しソマリランド民族連盟を結成。両組織がそれぞれの地域の最大勢力になったことで、両地域の統合が事実上決定した。1960年6月26日、まずイギリス領ソマリランドが独立。次いで同年7月1日にイタリア信託統治領ソマリアも独立し、両者は統合。ソマリア共和国が成立した。
1991年6月、モハメド・シアド・バーレ率いるソマリ社会主義革命党政権による北部冷遇に反発したイサック氏族中心のソマリ国民運動が、旧イギリス領ソマリランド地域を分離しソマリランド共和国の独立を宣言。現在に至るまで、ソマリアは事実上南北に分断された状況にある。