千載不決の議
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千載不決の議(せんざいふけつのぎ)とは、北宋の太祖趙匡胤の死と、その死後の弟・太宗趙匡義による帝位継承をめぐる一連の疑惑のことである。載とは、年という意味である。
開宝九年(976年)10月20日(陰暦)の夜、太祖が急死すると、弟の趙匡義が帝位に即いた。これが宋の太宗である。しかし、その即位には当初から疑問が投げ掛けられていた。即ち、太祖には立太子されてはいないもののすでに成人した皇子が何人も居り、さらに、既に人事不省となっていた太祖の寝室に当時、晋王と名乗っていた、太宗が見舞いに駆けつけるなり、太祖の死が公表されたことから、太宗が兄・太祖を殺害した上で、即位したのではないかとの疑惑がもたれたのである。
太宗自身は、自身の即位は太祖の遺詔があり、自分達兄弟の母である杜氏の遺言(金匱の誓い)でも趙氏の成人男子が年齢順に即位することが定められており、これに従って即位したとの立場をとった。しかし、太宗は即位以降、太祖の皇子を自殺に追い込んだり、金匱の誓いに従えば、次の皇帝になるべき趙廷美を失脚させた後に、死に追い込み、結局は太宗の子孫に帝位が伝えられる事となり、その信憑性を大きく傷つけることとなった。さらに、皇帝の崩御によって改元する場合は崩御の翌年から元号を改める踰年改元にすべきところを、太宗の即位と同時に太平興国と改元したことも、太祖に対する礼を失するものとして疑惑を深めている。 このことから、太宗による太祖殺害の疑惑は宋一代ばかりか、こうして1000年たった今でもこうして結論が出ぬまま取り沙汰されているのである。まさに千載不決といえよう。
[編集] 太祖の死についての記載・伝承
太祖の死因という、当時では憚り多いテーマについて、『宋史』(国家事業として編まれた正史の一つ)は口を硬く噤む。「太祖紀」では唯一行、崩御の事実が記されているだけである。私撰の史書・筆記(同時代または少し後の人物の手になる)は一人一様の記述を見せるが、その多くが晦渋難解である。
巷間ではさまざまな伝説が生まれたが、僧文瑩の『湘山野録』が伝える「斧声燭影」は、もっとも広く流布した奇妙な説である。雪の夜に太祖が晋王を呼び、側近を遠ざけ二人して万歳殿で飲み合った。夜中近く、揺れる蝋燭の影の下で退避しようとする晋王の姿が格子窓に移るのを側近が認め、そして斧で雪をたたく声や、太祖の「好做、好做」(「よくやってくれよ」というほどの意味)と叫ぶ声も聞こえた。その後、太祖のいびきが聞こえるだけとなり、やがて夜明け近くになって晋王が出て来て、太祖の崩御を皆に告げたという。荒唐無稽といえばそれまでだが、太祖の死の現場に唯一人太宗がいたという点で、太祖の死因について隠蔽しようとしながらある程度真実を伝えているともいえる。
『資治通鑑』の編纂でも有名な政治家司馬光はその『涑水紀聞』でこう伝える。太祖は夜半過ぎの四更ごろに崩御し、その妻宋皇后は宦官王継恩を遣わし皇子秦王徳芳を参入させ皇位を継承させようとした。ところが王継恩は何を思ったか晋王の邸に行き、ためらう晋王を追い立てて参内させた。わが子(実は継子)を待っていた皇后は義弟晋王の姿を見るなり仰天し、号泣して「吾等母子の命はひとえに貴方お一人の手に掛かっている」と言ったところ、晋王も泣いては「共に富貴を保とう。憂慮無きよう」と慰め、太祖の棺の前において即位した、と。太宗の子孫が皇位を占める時代で司馬光は太宗の行為を努めて弁護しているが、それでも非常に疑わしいことを宋皇后の言葉は伝えている。実際、後日宋皇后が亡くなった時、先帝の皇后という身位に相応しい葬儀は行われず、「宋史・太宗紀」の詰る事四箇条の一つとなっている。
後日譚として次の伝説がある。宋の皇位は太宗以後北宋一代にわたって太宗の子孫が継いだが、二百年後の南宋の孝宗からまた太祖の子孫に戻った。すなわち靖康の変後、金兵によって北宋の近しい皇族は一人残らず北方へ連れ去られ、一人連行を免れた高宗は建康(現在の南京)に入り南宋を打ち立てた。高宗はただ一人の皇子を幼くして失い、そのまま永いこと子供ができなかった。そうしてある夜、高宗(皇后呉氏ともいう)の夢枕に太祖が立ち、「斧声燭影」当夜の万歳殿の情景をまざまざと見せ、太宗の子孫の絶ゆることを天意に帰した。目が覚めた高宗は先祖の罪の贖いを悟り、命じて太祖の裔である子供のうちの聡明方正なるを求め、その中から孝宗を選んで皇嗣としたという。夢告げの真偽はともかく、孝宗以後南宋滅亡にいたるまで皇統が太祖の裔でありつづけたことは史実である。