李朝大越国
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李朝(リちょう、vi: nhà Lý, 1009年 - 1225年)は、ベトナムを支配した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。
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[編集] 王朝創設
1009年、それまで北部ベトナムを支配していた前黎朝の将軍・李公蘊(リー・コン・ウァン、李太祖)が、軍権を掌握して前黎朝を倒し、ベトナムを11世紀から200年以上にわたって支配した王朝・李朝を樹立した。
1054年、国号を「大越(ダイべト)」とした。このため、この王朝は大越李朝(李氏大越国)と呼ばれる。
[編集] 王朝前期
李朝は初代皇帝・太祖の時代から第四代皇帝・仁宗の時代にかけて全盛期を迎えた。それまでの越人独立諸王朝は中国(宋)を中心とする冊封体制の中で常に郡王の扱いであったのに対し、李朝は越人王朝として初めて国王として冊封され、民族意識が高まった。
1075年、李朝は李常傑を総大将として北宋に侵攻し、大越側に有利な条件で和睦することに成功、北宋との国境を確定するとともに、国家としての威勢を示した。一方、北宋の皇帝・神宗と宰相の王安石は、逼迫する国家財政の再建に追われることとなった。
1174年には、南宋から「安南国王」に冊封され、冊封体制の中で最高度の独立性を持つ属国として認められた。
[編集] 李朝の政治体制
李朝時代は、科挙の実施による有能な人材の登用、儒学・仏教の奨励などで文化が中国化して著しい発展を遂げた。しかし、政治・官僚体制としては未熟なうえ、王朝自体も地方豪族の連合盟主的存在であったため、中央集権化が思うようにできなかった。
[編集] 王朝後期
1175年、英宗が没して高宗が第七代皇帝として即位した。ところが、この高宗は暗愚な人物で、国民に対して重税と賦役を布く悪政を繰り広げた。このため、国内各地で農民による反乱が多発し、李朝は急速に衰退していく。
1210年、高宗が没して恵宗が即位した。この恵宗も父の高宗同様に暗愚な人物だったため、国内はさらに乱れた。このような中で、恵宗の外戚に当たる陳守度の権勢が著しく拡大した。
政治の実権を完全に掌握した陳守度は、1224年、恵宗を廃してその娘である李昭皇を擁立した。そして翌年、恵宗を自殺に追い込んだ上で、李昭皇と自身の甥と称する(実際は赤の他人の元博徒の青年)太宗を結婚させて太宗を皇位につけることで、陳朝を開いた。なお、李朝の皇族はこのとき、恵宗の次男である李龍祥が王氏高麗国へ亡命して花山李氏の始祖となり、そのほかの皇族は李昭皇とその姉以外は皆殺しとされ、李朝は完全に滅亡した。
9代217年に及ぶ、ベトナム初の長期政権であった。
現在、花山李氏は韓国で約1350人が居住している(2000年の人口統計)。北朝鮮では未詳であるが、韓国での子孫よりその人口が多いと推測されている。1995年に韓国の花山李氏宗親会の代表団がベトナムに訪問して、ベトナム政府の歓待を受けた。
[編集] 李朝の歴代皇帝
- 太祖(李公蘊、1009年-1028年)
- 太宗(李仏瑪、1028年-1054年)
- 聖宗(李日尊、1054年-1072年)
- 仁宗(李乾徳、1072年-1128年)
- 神宗(李陽煥、1128年-1138年)
- 英宗(李天祚、1138年-1175年)
- 高宗(李龍翰、1175年-1210年)
- 恵宗(李旵、1210年-1224年)
- 昭皇(李天馨、1224年-1225年)
[編集] 李朝の年号
- 順天 1010年 - 1028年
- 天成 1028年 -
- 通瑞
- 乾符有道
- 明道
- 崇興大宝 - 1054年
- 龍瑞天平 1054年 -
- 彰聖嘉慶
- 龍彰天嗣
- 天貺宝象
- 神武 - 1072年
- 太寧 1072年 -
- 英武昭勝
- 広祐
- 会豊
- 龍符
- 会祥大慶
- 天符睿武
- 天符慶寿 - 1127年
- 天順 1127年 -
- 天彰宝嗣 - 1138年
- 紹明1138年 -
- 大定
- 政隆宝応
- 天感至宝 - 1176年
- 貞符 1176年 -
- 天資嘉瑞
- 天嘉宝祐
- 治平応龍 - 1211年
- 建嘉 1211年 - 1224年
- 天彰有道 1224年 - 1225年