新法・旧法の争い
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新法・旧法の争い(しんぽう・きゅうほうのあらそい)とは中国北宋の中期神宗代から末期徽宗代にかけて起こった政治的な争い。王安石によって新法と呼ばれる改革が行われるが、これに司馬光を初めとする反対者が続出し、長く論争と政権闘争がくり広げられた。その結果、大きな政治的混乱を生み、北宋滅亡の原因と評される。
目次 |
[編集] 事前の経緯
五代から宋にかけて商業活動が活発化し、そこから得られる商税・塩・酒の税などの収入を背景に宋朝は非常に強い経済力を誇った。しかし仁宗のいわゆる慶暦の治(1041年-1048年)の時代を頂点として、以下にあげられるような要因によって次第に財政が悪化し、英宗時代に赤字に転落した。
[編集] 軍事費の増大
1038年(宝元二年)にタングートの李元昊が皇帝に即位し、国号を夏(西夏)と称した。これを認めない宋は西夏との間で交戦状態に入った。戦争は長引き、それに乗じて先立っての澶淵の盟で宋と和約を結んでいた遼[1]が領土割譲を求めてきた。これを受け入れるわけにいかない宋は遼に対して送っていた歳幣の額を増やすことでこれを収め、西夏とも、西夏が宋に対して臣従し、宋から西夏に対して歳賜を送ることで和平を結んだ[2]。
しかし和平が結ばれても国境に配置する兵士を減らせるわけではなく、この維持費が膨大なものとなった。太祖趙匡胤の時に総計40万弱であったのが、仁宗のときに120万を超えており、その維持費だけで5,000万貫に達していた。この頃の歳出が大体9,000万から1億2,000万貫ほどである[3]。
[編集] 冗官の増加
宋では科挙を大幅に拡充し、年間数百人がこの関門をくぐり抜けて官となっていった。しかし官がやるべき仕事がそこまで多いわけではなく、重複ないし不必要な役職、すなわち冗官が増えていた。三代真宗の代に「天下の冗吏十九万五千を減ぜん」との記録があり、それに加え、宋代は歴代でも最も官僚を優遇し、俸給は多く、更に何かと恩賜があった。
また唐の安史の乱以降の律令制の崩壊以降、律令と現実社会との乖離が生まれ、その間を使職と呼ばれる令外官を置いていくことで埋められていった。しかしそのやり方は計画性・長期的視点にとぼしく、体系的な官制を作るものではなかった。宋でもそれは基本的に受け継がれ、唐風の三省六部体制が形骸を残したまま実際に政治を動かすのは使職という二重体制が布かれていた。このような体制は当然非常にわかり難く、非効率であり、同じような役職が併存するようになっていた。
歳入 | 歳出 | |
1021年(天禧五年) | 150,850,100 | 126,775,200 |
1048年(慶暦八年) | 103,596,400 | 89,383,700 |
1049年(皇祐元年) | 126,251,964 | 126,251,964 |
1065年(治平二年) | 116,138,405 | 131,864,452 |
[編集] 格差の拡大
財政の外に目を転じると、経済の発展とともに台頭してきた兼并(大地主・大商人)とその下で苦しむ中小農民、五等戸制(主戸客戸制を参照)で言う四・五等の農民の格差も社会問題となっていた。当時は貨幣が広く流通しており、農民が税を納める場合にも貨幣で収めるのことがあった。しかし納税期になると農民が一斉に売りに走るために買い叩かれてしまい、生活が苦しくなる。その中には種籾すら用意できない者もいた。これに対して兼并が貸付を行い、それに対して十割と言う利息を取り立てていた。これが払えなくなると土地を取り上げられてしまい、地主はますます土地を増やすことになる。また大商人たちも中小商人にたいして同じ事を行っていた。
政治の主要な担い手である士大夫層は多くがこの大地主・大商人層の出身であり、科挙を通過したものは官戸と呼ばれ、職役が免除されるなどの特権が与えられていた。これにより更に財産を積み上げるという状態であった。
[編集] 国家再建の機運
このような社会矛盾が積み重なり、宋の国は存亡の危機に立たされていた。朝廷側も無為無策であったわけではなく、仁宗の時代に范仲淹(後の旧法派首領・范純仁の父)という大政治家が現れ、慶暦の新政という改革を試みている。このとき、共に改革派として范仲淹を支えたのが司馬光や欧陽脩といった若手の面々であった。
しかし、根回しが不十分だったために、その改革に賛成か反対かで役人達が分裂。宮廷も巻き込んで朝廷中はたちまち大混乱に陥った。最終的には単なる醜い権力争いに変わってしまい、改革は頓挫してしまっていた。
このような中央の様子を地方で見聞きしていた王安石は、中央政府に一層の「改革」を促す上申書(万言書)を提出する。
当時、朝廷の役人達は長く続く権力闘争に疲れ果てていた。また自分達が改革に挫折してしまった負い目もあって王安石の論に非常に興味を持っていた。
そして、古代の周代を念頭にした王安石の改革論が、当時の役人達の理想国家像とかなり一致していた事(皇帝を中心とした徳治政治)、小手先の改革だけでなく「本格的な国家再建」が必要だという事をわかりやすく述べた事、文章が大変上手く役人達の知的好奇心を擽るような素晴らしい物であった事(王安石は科挙試験を抜群の成績で通っており官界からも憧れられていた)がわかると、王安石の評判はたちまち高まっていった。
[編集] 新法の各内容
数々の問題を残したまま英宗は1067年(治平四年)に四年と言う短い在位期間で死去、二十歳の青年皇帝神宗が即位する。神宗は養育係の韓琦から盛んに王安石の評判を聞かされており、王安石は知江寧府(江寧(南京)の知事)から皇帝の側近たる翰林学士に抜擢され、更に1069年(熙寧二年)に神宗より参知政事(副宰相)とされた。同中書門下平章事(宰相)には元老の富弼が任命されたが、実質的には王安石が宰相と言っていいだろう。
王安石は新法を実行に移すにあたり、制置三司條例司と言う新たな部署を作り、呂恵卿などのかねてより目を付けていた新進官僚をここに集め、改革の土台とした。制置三司條例司は財政担当の部署である三司の見直しをすることを名目として宰相からも掣肘を受けない強い権限を与えられていた。
そして同年七月、新法の第一弾均輸法が施行される。以下、事実の経緯を追う前に新法の各内容を一括して説明する。
[編集] 農業に関する新法
- 青苗法(せいびょうほう)
- 募役法(ぼえきほう)
- 1070年(熙寧三年)から開封周辺で試験的に運用し、1071年十月から全国的に施行。免役法とも言う。農民、主に形勢戸たちは政府の様々な雑用(職役)、州郡の倉庫管理・租税運搬・官の送迎などを課せられていたが、この負担は非常に重く、事故で損害があった場合は全てを補償せねばならず、何かと言えば官と胥吏に賄賂を求められる。一応政府からの支給はあったが必要な額はそれをはるかに超えていることが多く、これが元で破産してしまう形勢戸も少なくなかった。これを差役法と言う。
- そこで職役を課す代わりにその分を貨幣(これを免役銭と呼ぶ)で収めさせ、それを使って人を雇い、職役を行わせる。また元々職役が免除されていた官戸・寺院・道観(道教の寺院)・坊郭戸(都市住民)・単丁戸(丁(働き手の男性)が一人しかいない戸)・未成丁戸(まだ丁になっていない子供しかいない戸)・女戸(女性しかいない戸)などからも助役銭と称して免役銭の半分を徴収した。
- 農田水利法(のうでんすいりほう)
- 1069年十一月施行。路ごとに天災などによって破壊された水田・水路・堤防などを復興し、農業生産の増大を大規模に行った。この業務は提挙常平司が兼任する。
- 淤田法(おでんほう)
- 農田水利法の中で行われ、河川の泥水を田に引き込み、栄養豊富な泥を沈殿させて豊かな土地とするものである。
- 方田均税法(ほうでんきんぜいほう)
[編集] 商業に関する新法
- 均輸法(きんゆほう)
- 1069年七月施行。当時、大商人に握られていた物資の運輸を発運使と言う役を使うことで政府の統制の下に置き、中央への上供品の回送を行って財政収入確保の効率化を図るとともに物価の調整を行う。旧法派の反対により頓挫し、下の市易法に吸収されることになる。
- 市易法(しえきほう)
- 1072年三月施行。この法には二つの面がある。
- 一つは均輸法を受け継いだ物価調整の面。当時、朝廷に収められる物品は有力者と結託した商人が勝手な価格をつけることが多かった。それに対して価格の査定を政府が定めた行(ギルド)に登録された商人に任せ、大商人による勝手な価格をつける事を抑制した。
- もう一つが青苗法の商人版というべきもの。政府が中小商人や都市住民に対して低利で貸し付けた。
- 市易法を始めた当時は、担当役人の呂嘉問の法律運用に拙速すぎるところがあり世の中に混乱をもたらした。その事が第一次王安石政権崩壊のきっかけとなった(下記参照)。
- しかし、法律が軌道に乗ると、資金が下流層にもまわり景気拡大に大きく貢献した。そして神宗親政後半期は莫大な市易銭運用利益を利用して、その他の新法(下級役人・胥吏への給料や共同体再生(保甲法))の費用に充てることができるまでになった。
[編集] 軍事に関する新法
- 保甲法(ほこうほう)
- 1070年十二月施行。弱体化した軍隊と郷村制の再編を目的とした法。十戸を一保、五保を一大保、十大保を一都保とし、保の中では互いに犯罪監視を行わせ、犯罪が起きた場合には共同責任とする。保の中で簡単な軍事訓練を行わせ、民兵とする。
- 保馬法(ほばほう)
- 1072年(熙寧五年)五月施行。それまで政府の牧場で行ってきた馬の飼育を戸一つに一頭、財力のある戸には二頭ずつ委託する。委託された馬を損なった場合には補償の責任を負うが、その代わり委託されている戸には免税がある。
[編集] その他
- 科挙改革
- 1070年三月から開始。それまでの科挙は経書の丸暗記、詩と文の作成能力が主要な課題であったが、これによってできる人物は実務能力には乏しく、その下で実務を行う胥吏による専権と汚職がひどくなった。
- これに対してそれまでの詩文の試験を大幅に縮小し、それに代わって経書の内容的理解とそれの現実政治に対する実践を論文に纏める能力を問う進士科一本に絞る。以後、進士が科挙合格者と同義になる。
- 経書については『論語』・『孟子』が必須で、それ以外の五経はどれか一つの選択とした。この場合の五経は通常のものから『春秋』を除き、王安石が思想的・政治的後ろ盾としていた『周礼』を入れている。また王安石自身が『周礼』・息子の王雱が『詩経』・『書経』に注釈を施し、『三経新義』を刊行し、科挙受験者の必読の書とした。
- 三舎法
- 倉法
- 1070年八月施行。河倉法とも。官の下で実務を取り仕切っていた胥吏の腐敗を防止するための法律。従来無給だった彼らに俸給を支給する代わり、賄賂を取れば厳罰に処す。募役法と共に実施する事で効果を発揮した。
[編集] 元豊の改革
王安石が表舞台をおり、神宗が親政をしいた1080年(元豊三年)九月より元豊の改革と呼ばれる官制改革が行われた。前述のとおり、宋では律令体制と使職の二重体制が布かれており、無駄な部分の多いこの官制に対する改革が行われた。この改革の中で、新法と最も関係の深いのものといえるは、財政担当である三司と司農寺の統合があげられる。
唐律令制において財政を担当するのは戸部であるが、律令制崩壊後に登場した使職度支使・塩鉄使などと戸部が合体して出来たのが三司である。三司の権限は財政全般にわたり、宰相ですらそれに口出しすることは出来なかった。しかし新法によって新しく生まれた業務は司農寺の管轄する所であり、これは宰相の直轄であった。
これを元豊の改革では戸部の下に収め、戸部の左曹が元の三司が管轄していた財政を司り、右曹が元の司農寺が管轄していた財政を司る。戸部の長官である戸部尚書は左曹を管轄するが、右曹は宰相が直接管轄する。
[編集] 新法の目指したもの
王安石と神宗が行った改革をあわせて「煕豊の改革」とよぶ。この改革で目標とされていたのは、あくまで「国家(中華社会)再生」であった。
そのための総合設計図(機械)が「王安石新法」であった。各新法を同時に行なう事で、社会に構造改革がおこり「政治改革」「行政改革」「財政再建」「国家を支える共同体再建」「富国強兵」「教育」などの懸案事項が一気に解決し、国家再生が短期間で実現できるような仕組みになっていた。各新法は複雑に連関した優れた部品であり、どれ一つをとっても欠くことができないものであった。後に批判された時、運用改善には応じても、一つとして廃止しなかったのはこのためである。
このように新法が総合的で複雑な仕組みをとっていたため、実務能力のある人物が必要とされ、中国史で稀に見るほど実務役人たちや財務に長けている人々が積極的に登用された。(そのため、今まで不遇な扱いをされてきた下級役人や胥吏にも給料がたくさん与えられ出世のチャンスが増えた。その代わり国家からの役人監視がきびしくなり、徴税層から賄賂を取ることが厳しく取り締まられるようになったが)。
このとき取り立てられた中には、後に宰相となる呂恵卿や曾布などがいる。呂は後に肝心のところで王安石を裏切ってしまうが、頭の回転は凄まじくはやく、実行部隊としてはうってつけであった。また、後に宋の国を滅ぼす元凶をつくる蔡京もこのころ抜擢されたが、「行政マン」としては抜群の能力を発揮していた。
改革や新法実行・構造改革が難しいからこそ実務役人を取り立てて、理念だけで終わらない地に足のついた着実な改革をしようという発想はあながち間違ってはいない。
上にあげた新法全体の理念と実現方法を完全に理解していたのは王安石のみであったのだが、神宗も王の後継者・蔡確も国家が危急存亡の状態にあるという事は理解しており、彼の描いた総合設計図を完成させようと改革にまい進していった。また神宗も「(後の世から)あの時代は皇帝の威光で、素晴らしい徳治政治が行われた」と評価されることを夢見て、一層改革に力を入れていった。
ただ、神宗や王安石、蔡確があまりに「改革をどのようにうまくやるのか」を追求しすぎた余り、「なぜ改革が必要なのか」理念を後継者や実行役人たちに伝えることが殆どできなかった。旧法派の論に動揺する役人たちをまとめる為に「今はとりあえず絶対大改革が必要だ。」ということで突っ走ってしまったからだ。
その事が、彼らの死後、野心家の台頭を許し、新法が単なる出世のための道具にされ骨抜きにされる要因となる。
[編集] 各法の批判と変遷
新法の中でも最も論争が激しかったのが青苗法と募役法である。
新法に対する批判には最もな部分もある。しかし激しい批判が起きた原因は新法により兼并の利益が大きく損なわれたからである。青苗法は兼并たちが行っている貸付の商売敵となるし、募役法はそれまで職役の義務の無かった官戸までが助役銭を払わなくてはならなくなる。前述のとおり、旧法派の士大夫たちも多くこれら兼并の出身であり、一族の利益代表としての立場があったのである。
[編集] 青苗法に対する批判
- 国が民間の真似をして商売をすることは不義である。また三割の利息は重い。
- 貧農保護のためと言いながら三等戸以上や坊郭戸にまで貸付をするのは単に利益を得たいがためである。
- 銭を貸して穀物で収めさせるはずが銭で返させているのは農民を苦しめる。
- 常平倉の穀物を使ってしまっては天災のときの救済が出来なくなる。
これに対する王安石の反論ないし法の改正。
- 『周礼』「泉府貸民」に「国服をもって息となす」とあり、周代でも国が利息を取ることは行われていた。利息に関しては二割に改めた。
- 貧農を救済し、余裕があるのなら貧しい坊郭戸も救うべきである。
- 銭納を止めて全て穀物で返させることにした。
- 常平倉は全て使わずに半分だけ青苗銭に使い、後の半分は従来どおりの利用とした。
[編集] 募役法に対する批判
- 浮浪のような雇った人間に官用を行わせるのは良くない。
- 上等戸には有利だが、下等戸に不利になる。
- 銭を持たない農民から免役銭を徴収すると農民を苦しめる。
- 免役銭の額を算出する基準が不明瞭。
これに対する反論
- 差役法時代にも人を雇って官用を行わせることはあった。
- 差役法時代にも下等戸を壮丁に使うことがあった。
- 当時は経済が発展し、農民にも銭を持つものが増えていた。
- 批判は最もであるが、募役法の問題と言うよりも兼并の抱える財産が不明瞭なことにある。
また募役法は後の徽宗期に限田免役法に発展する。これは官戸は職役を免除されるのが、一定以上の土地を所有しているものは職役を課されるというものである。
[編集] 論争と党争
[編集] 神宗期
[編集] 熙寧年間・王安石宰相時代
一番初めに王安石批判を展開したのが、1069年、当時御史中丞を勤めていた呂誨である。この時にはまだ新法は施行されていない。この呂誨の弾劾は後に旧法派から先見の明があったと称揚されることになるのだが、その内容は人格攻撃と過去の過失に対する言いがかりに終始しており、単に異数の出世をした王安石に対しての嫉妬が原因と見ていいだろう。
新法が施行され始めた後は批判が相次ぎ、その名前を並べていくと欧陽脩・富弼・文彦博・韓琦らの元老たち、若手では司馬光・程顥・蘇軾・蘇轍兄弟など錚々たる顔ぶれである。これら新法に反対した人物たちを一纏めにして旧法党と呼ぶ。しかし党派としてまとまっていたわけではなく、新法に対しての態度もそれぞれ異なっていた。これに対して新法を推進する側を新法党と呼ぶ。
多くの反対に対して王安石は容赦せずこれを排除していき、新法を実行していった。1070年、蘇轍は元は制置三司條例司に属していたが、呂恵卿と意見が合わず、河南府推官(次官)に左遷。富弼は宰相を辞任して判亳州に転出、代わって王安石が宰相となり、制置三司條例司を廃止した。程顥は京西路同提点刑獄に左遷。1071年、欧陽脩は致仕(引退)を願い出て潁州(現在の安徽省阜陽)に隠棲。蘇軾は杭州通判に左遷。司馬光は洛陽へ去り、以後は『資治通鑑』の編纂に全力を注ぐようになる。程顥は鎮寧軍判官に転出。1075年、韓琦は永興軍節度使とされ、途上で死去。
しかしあまりの反対の多さに王安石に全幅の信頼を置いていたはずの神宗も迷い始める。1074年は旱魃に見舞われ、飢えた民衆が巷にあふれた。地方官の鄭侠と言うものがその惨状を絵に描いて、これは新法に対する天からの警告(天譴)である。新法を廃止すべし。と言う上奏文を出した。これに司馬光も乗って新法批判の上奏を出す。
また、宮廷内部も新法実施で大地主・大商人からの上納金が減り、資産運用なども制限された事で不満を募らせていた。そして神宗に対し激しい圧力を加えていった。
加えて、王政権内部でも亀裂が起こっていた。それは、新法のひとつである「市易法」をめぐっておきた。「市易法」は、上記のように大商人に苦しめられている中小商人のためという名目で「物価調整」を行い物の値段を下げ、「結果的に」政府が少しでも安く物品を調達できるようにする法であった。また、中小商人たちに低利率で運用資金の貸し出しがなされていた。これは新法の屋台骨ということで、当時、王安石は力を入れて取り組んでおり、腹心の呂嘉問という人物にその運営を任せていた。
しかし、その呂嘉問がかなり強引なやり方をとったことで全国で問題がおこる。まず、品物を無理やり「本来の価格」とつりあわなくなるまで価格を下げてしまい経済不況を引き起こしてしまう。加えて、何より大きな問題になったのが、貸し出し資金の運営である。呂嘉問は、借り入れ不要という中小商人にまで無理に押し貸しし、また借り入れた者に対しても取立てを厳しくするといった事をおこなったのだ。
これには、王安石を支える新法党内部にも「これでは悪辣な大商人・大地主と同じ。呂嘉問を解任して、市易法の運営方法も改善すべきだ」という批判が噴出。特に王安石の右腕といわれた曾布がその批判の先頭にたち、神宗にも上奏文を提出する。王安石はこの流れを受け、結局は呂嘉問を更迭し、市易法をやや緩めざるを得ないところまで追い込まれた。
上記のような不祥事が連続して起きたため、神宗との間に亀裂が発生した事を感じた王安石は知江寧府に転出。後任の宰相には、王の同僚・韓絳と腹心の呂恵卿が就く。神宗は、王安石という「反新法派の中心目標」をはずすことで、内外の激しい圧力をかわしたはずだった。あとは、切れ者と評判だった呂恵卿が新法を引き続き実行してくれることを期待していた。また、新法設計者の呂恵卿が政権の要に座ることで新法をより豊かに運用できると思われていた。
しかし、呂恵卿は、王安石がいなくなったのを幸いに乱脈な政権運営を行う。まず、新法党を自らの私党とすべく、自らと仲の悪い曾布などを追放していく。そして呂の身内関係者が大量に取り立てられた。期待されていた改革実行に関しても、上司の韓絳を無視して新法を勝手に改造したうえに、同時並行で新法を反故にする法律も制定するなどというような酷い有様であった。
これらの呂の暴走に慌てた神宗と韓絳は、翌年再び王安石を中央に呼び戻そうと使者を出した。この動きを察知した呂恵卿は自らの地位を失うことを恐れて讒言を行う。策謀実らず、結局、王安石が宰相に返り咲き、呂恵卿は解任となり地方に左遷された。
都に戻ってきた王安石は、早速、政策を全て元に戻し、今まで通り構造改革路線のレールをしく。そして呂恵卿が混乱させた新法党内部を再び引き締めていく。
しかし、神宗はこの頃「親政」を志しており、部下の王安石に権限が集中するのを嫌い始めていた。そして、その神宗と王安石の隙間を見透かしたように、再び呂恵卿が政権内部に揺さぶりをかけてきていた。加えて息子の王雱が病死するという身内の不幸まで重なって、流石の王安石の気力も尽きてしまうことになる。
そして復帰わずか一年余りで、再び知江寧府に転出願いを提出。その後すぐ政界から引退した。
[編集] 元豊年間・神宗親政時代
熙寧は十年で終わり、1078年より元豊と改元する。王安石が去った後、韓絳・王珪・蔡確ら新法派が宰相を務め、神宗による親政が行われる。新法の実施によって財政は好転しており、それに気を良くした神宗は1080年から前述の元豊の改革に取り組み複雑な二重官制を一元化し、効率化を図った。また翌年には西夏を攻撃したが、これは失敗に終わる。
神宗が親政をおこなった元豊時代の政治は、王安石の後を引き継いだ蔡確の力で非常に安定しており、神宗も断固とした姿勢で新法実行にあたれた。
蔡確はかなり権力欲が強く、陰険な性格の持ち主であったが(出世のために同僚を追い落としたり、恩人の王安石をなじったこともある)、一方で大きなカリスマ性を兼ね備えた人物でもあった。そのゆえ、旧法派の面々に対しても睨みを利かせて完全に黙らせてしまい、足元の新法派内部の亀裂も自らのリーダーシップを活用して修復した。
蔡確が権力を独占し、全ての役人達も彼に従っていく。(当時の筆頭宰相は王珪であったが、彼は主に文書・礼儀部門を担当したため、行政実務は蔡確の独壇場であった。) おまけに、彼に逆らう者、新法実施に歯向かう者・失敗した者は、きつく処罰するという方針がだされた。自らの首が飛ばないために、役人達は新法を「真剣に」やらざるを得なくなった。そして全役人が、「公的な実務」にのみ集中しために新法が迅速に浸透していった。
また、蔡確は、呂恵卿や後に宰相となる彼の甥の蔡京など「(自称)王安石主義者」と違って、国家における自らの役割を理解しており、新法を私的に悪用することはほとんどなかった。蔡確が宰相にいた時期は王安石の時代よりも、新法が最も効果的に厳格に行われていたといわれている。
このような中央の政治状況を聴き、故郷の王安石はようやく穏やかに隠遁生活をおくることができるようになっていた。
この頃の王安石は、ロバで散歩しながら詩文制作にいそしんだり仏教書を読んだりと日々のんびり過ごしていた。道で出会っても誰もあの国を騒がせた王安石と気づかなかったといわれる。また、政界ではライバルだった司馬光や蘇軾とは、旧法・新法関係なく「私的な交流」を重ねるまでに関係が回復していた。
上司の神宗も彼に受けた恩を生涯忘れず、度々使者を遣わしたり国を挙げて彼を表彰したりと大変気にかけていた。
そして全国で新法の効果が顕著にあらわれるようになり、一時傾きかけた北宋の国力も大幅に回復していく。
構造改革が順調に進んだ事と役人の数を減らした事で、社会が大幅に安定(共同体再生)し、結果として庶民の暮らしもかなり良くなっていった。加えて、募役法や倉法などの実施で官吏(官僚・胥吏)の中間搾取が厳しく取り締まられた事で、徴税層(農民・商人層など)と政府が直接繋がれ、神宗中心の「専制君主国家」が完成していった。
王安石がいなくても新法(構造改革路線)は継続され、このまま定着するかに思われた1085年(元豊八年)三月、神宗が三十八の若さで崩御する。
[編集] 哲宗期
少年の皇帝に代わって政権を執ることになったのが、英宗の皇后であった宣仁太后高氏である。宣仁太后は実家が新法の被害を受けていたこともあり、新法を非常に憎んでいた。
宣仁太后は司馬光を初めとした旧法派を呼び寄せ、司馬光を尚書左僕射(宰相。元豊の改革によって官名が変わっている)とし、保甲法・市易法・方田法を相次いで廃止。元号が元祐と改まった翌年には新法派の蔡確・章惇らを追放し、青苗法・募役法を廃止した。
この募役法の廃止を江寧で聞いた王安石は大いに嘆いたと言う。また蘇軾・范純仁などは募役法の効能を認め、廃止することに反対していたが、これが司馬光の不快を買い、蘇軾は再び中央を去ることになる。
この年の四月に王安石が江寧にて死去、九月に司馬光も死去する。
司馬光は新法を廃止した段階で死去してしまい、結局新法に代わる方策を打ち出せないままであった。司馬光の後を受けた蘇軾・程顥らであったが、司馬光と言うリーダーを失った旧法派は内部分裂を始める。旧法派内部の派閥として程顥・程頤兄弟の洛党(洛陽)、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀党、それに河北出身者による朔党がある。特に蘇軾と程頤とは学問上の争いもあって折り合いが悪く、何度も衝突していた。
見てのとおり、出身地による派閥であるが、旧法派だけではなく新法対旧法の争いもまた出身地による部分がある。王安石は撫州(江西)、呂恵卿は泉州(福建)と新法派の人間の大半は江南出身であり、新法・旧法の争いは宋創立以来権力を握ってきた華北出身の士大夫に対して経済力で圧倒する江南出身の士大夫たちが権力を奪おうとする過程であると見ることも出来る。また学派の争いと言う面もある。王安石・王雱親子の新学、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀学、そして後にその道統から朱熹を生み出し、儒学の本流となった程顥・程頤兄弟の洛学(後に道学と呼ばれる)である。
この時期になると当初の政策争いとしての面影は無くなり、感情と強迫観念による醜い争いと堕した。その嚆矢となったのが1089年(元祐四年)の蔡確に対する弾劾である。蔡確はあるときに詩を作ったが、これが宣仁太后を非難する内容であるとの弾劾を受け、流刑となる(蔡確はそのまま流刑先で亡くなった)。この処置に反対した范純仁らも処罰を受けるという有様であった。また訴理所という役所を設け、「新法にて被害を受けた」と言う訴えを受け付けるなどした。
これら元祐年間の反新法政策を元祐更化と呼ぶ。
1093年(元祐八年)、宣仁太后が死去、翌1094年より紹聖と改元し、哲宗の親政が始まる。哲宗は新法に心を寄せており、宰相に任命されたのは新法派の章惇であった。章惇は同僚の曾布や蔡卞と共に、青苗法・募役法などの新法を復活させて「紹聖の紹術」と呼ばれる政権運営を行う一方で、旧法派の訴理所に対抗して看詳訴理局と言う役所を設け、かつて訴理所に訴え出てきた人物を処罰していった。
[編集] 徽宗期
しかし1100年(元符三年)に哲宗もまた二十四と言う若さで死去する。哲宗に子が無かったために神宗の皇后であった尚氏の意向で、哲宗の弟である端王・趙佶が即位して徽宗となる。当時の宰相・章惇は「端王は道楽者であるから皇帝にふさわしくない。」という意見を出し、徽宗の即位に強硬に反対したため地位を追われて左遷された。
徽宗の治世の初めは尚太后が垂簾政治を布いて、新法派から王安石の側近であった曾布を旧法派から韓琦の子である韓忠彦を揃って政権の座につけて、新法派・旧法派双方を融和させ、政治混乱を収めようと図った。所が、尚太后が急死。
親政を始めた徽宗の寵愛を掴んだのが悪名高き蔡京である。蔡京はかつて司馬光の元で新法廃止に尽力していながら、新法派が政権を握ると一転して新法派に鞍替えすると言う理念無しの権力主義者であった。能書家として知られる蔡京と美術的才能と言う共通項を持つ徽宗との仲は蜜月が続き、一時遠ざけられることもあったがすぐに復帰して権力を握り続けた。
政権を握った蔡京は、旧法派の人士や曾布や弟の蔡卞など自分の意に沿わない人物を次々と追放していった。更に1102年(崇寧元年)、司馬光ら旧法党の人物119人を元祐姦党と称して石に刻み、これを宮殿の側に建てさせた。これは元祐党籍碑といわれる。これに載せられる人物はその後も増えて309人にまで増え、この碑を全国の府州にまで建てるようにとの命令を出した。更に蘇軾ら旧法党の人士が書いた文は発禁処分とされる。
旧法派弾圧の一方、徽宗と蔡京は、神宗時代の「制置三司条例司」にならって「講議司」とよばれる改革本部を設け、新法改革を実現していくと宣言した。しかし、彼らに政権運営能力はなく、中身のない場当たり的な施策を行い世の中を混乱させていった。おまけに財政再建や国家再建が目的のはずの新法で自らの私服を肥やせるよう改悪していく。
例えば、青苗法は、国家の危機に備えて一定程度穀物を「常平倉」に備蓄しておくことになっていたが、勝手に横領して私的な道楽にも使っててよいようになった。募役法や方田均税法や市易法で徴収した「役税」「土地」も、彼らの懐に流れるように国庫の流れを改造した。国家整備の法である農田水利法を改悪して、殆ど意味のない工事(農村から、花石綱等の宝物を運ぶため一度しか利用しない道路を建設するなど)を乱発してよいようになった。
これらの改悪を着実に進めるため(資金の流れを蔡京にあつめるため)に、再び官職が増やされ、彼らの取り巻き達が大量に抜擢された。
彼らはこれら「新法」を改悪して集めた資金を、絵画購入や石集めなどの私的な趣味の費用として散在していく。それでも資金が足りないとなると皇帝の威光や宰相の地位を悪用して、民間から大量の賄賂やお目こぼし料をとるようになった。
これらの無駄遣いの結果、都の開封周辺ではバブル景気が発生し、芸術活動は盛んになった。しかし中央政府が酷い状態のため、社会全体も腐敗しモラルハザードをおこした。最終的に、地主や商人、役人達など全ての人々が、一斉に蔡京にならって新法を「自らの懐を肥やす道具」として勝手に利用し始め、統制の取れなくなった宋の社会は破滅の方向に向かっていく。
このころの新法の民間施行状況を見ると、当然の事ながら酷い有様であった。例えば青苗法や市易法では本来の趣旨をはずれ、官戸や形勢戸や大商人が偽って青苗銭や市易銭を借り受け、それを貧農や小商人に対して貸し付けるという事が公然と行われていく。方田均税法の施行段階では、担当役人達の独断で従来のものより短い尺を使う事で狭く算出するという不法な測量が行われ、強制的に余剰の土地と判定したものを没収していった。そしてその没収分は国家に納められず、役人達の懐におさめられた。募役法が免除されるはずの土地でも役税の徴収が勝手に行われ、加えて役人への賄賂まで要求されるといったことまで起こった。(ただ、これらの賄賂分は結局大部分が蔡京たちのところに集まるのだが)
長年の悪政の結果として、国庫は空になっており、財政は破綻。それを補うため大増税が行われたが、全く何の埋め合わせにもならなかった。さらに、国を支える共同体社会全体までも完全に崩壊。保甲法で雇った兵士たちは役に立たず治安は悪化。軍隊までも腐敗し、辺境の守りもおぼつかなくなった。
しかし辺境が危ないのに、この期に及んで彼らは外交問題(遼・金との領土交渉)まで権力闘争の道具にし、国の国際的立場まで危うくしていく。
このような庶民を苦しめる政治に対し国内の不満は鬱積し、反乱が相次ぐようになる。この時期に起きた反乱の一つが有名な『水滸伝』のモデルとなった。
事態が悪化し、徽宗はようやく自らの犯した過ちを理解した。そして取り巻きたち(宦官の童貫や蔡京・蔡攸親子やその一派など)を完全追放して厳しい罪に問い、自らは譲位することにした。しかし、全てが遅すぎた。
そして最終的に中華世界が弱ったのを見透かした外敵・金の進入により北宋は滅びることになる。(靖康の変)
[編集] その後
南に逃れて南宋が立てられた後、程顥・程頤兄弟の流れを汲む道学派が主導権を握ったことで王安石を初めとする新法派こそ北宋滅亡の原因であるとされ、それに抵抗した旧法派は英雄と言う扱いを受けることになる。道学を学び、朱子学を興すことになる朱熹も王安石を厳しく批判している。
その一方、募役法などは南宋で既に定着しており、それ以外でも南宋の政治は新法を受け継いだものが少なくない。朱熹自身も青苗法を参考にしたと思われる社倉法という政策を地方官時代に実行している。
『宋史』では蔡確・呂惠卿・章惇・曾布などは蔡京と同じ「姦臣伝」に入れられてしまっている。王安石は唐宋八大家としての文名があったために姦臣伝に入れられることこそ免れたものの北宋滅亡の最大の責任者とされ、後世の演劇などでも「拗ね者大臣」と揶揄されるようになる。
だが、清代の蔡上翔の『王荊公年賦考略』・梁啓超による『王安石評伝』の論文が発表されたことで王安石に対する見直しが図られ、中華人民共和国の元で唯物史観が主流になると王安石は「果敢な政治改革を試みるも頑迷固陋な旧体制派に阻まれた悲劇の政治家」、逆に司馬光らは「地主・商人と癒着した封建的な旧体制そのもの」となった。
[編集] 脚注
- ↑ この時期の国号は契丹
- ↑ 歳は一年毎、幣は対等の国に対して賜は臣下に対してという意味である
- ↑ なお遼と西夏に対する歳幣・歳賜の額はそれぞれ絹三十万匹・銀二十万両、絹十三万匹・銀五万両・茶二万斤であるが、これは軍の維持費に比べればごく小額である。
- ↑ 絹の「匹」、銭の「貫」、穀物の「石」、金銀の「両」を全てまとめた単位。北宋ではこれらは(名目的には)等価で交換されるとされていた。
[編集] 年譜
神宗 | 1067年 (治平四) |
一月、英宗没。神宗即位。 九月、王安石、翰林学士に抜擢。 |
1069年 (熙寧二) |
二月、王安石、参知政事(副宰相)に。制置三司條例司を設立。改革に着手。 七月、均輸法施行。 九月、青苗法施行。 十一月、農田水利法施行(淤田法施行)。 |
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1070年 | 三月、科挙改革に着手。 五月、制置三司條例司を廃止。 十二月、保甲法施行。王安石同中書門下平章事(宰相)に。 |
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1071年 | 十月、募役法施行 | |
1072年 | 三月、市易法施行。 四月、司馬光、洛陽に移る。 五月、保馬法施行 八月、方田均税法施行。 |
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1074年 | 四月、王安石、宰相辞任。知江寧府に転出。 | |
1075年 | 八月、王安石、再び宰相に。 | |
1076年 | 十月、王安石、再び知江寧府に転出。 | |
1080年 (元豊三) |
六月、元豊の改革開始。五年(1082年)五月に完成。 | |
哲宗 | 1085年 | 三月、神宗没。哲宗即位。宣仁太后が摂政を始め、旧法党の時代に(元祐更化)。 五月、司馬光が門下侍郎(副長官)となる。 七月、保甲法廃止。 八月、市易法廃止。 十月、方田均税法廃止。 |
1086年 (元祐元) |
一月、募役法廃止。 閏二月、司馬光、尚書左僕射(宰相)に。 四月、王安石死去。 八月、青苗法廃止。 九月、司馬光死去 |
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1093年 | 九月、宣仁太后、死去。哲宗の親政始まり、新法党の時代に。 | |
1094年 (紹聖元) |
二月、新法を復活。 | |
徽宗 | 1100年 (元符三) |
一月、哲宗没。徽宗即位。向皇太后の摂政。 七月、新法・旧法両党から登用し、融和を試みる。 |
1101年 (建中靖国元) |
一月、向皇太后、死去。 | |
1102年 (崇寧元) |
五月、蔡京、宰相に。 九月、司馬光ら旧法党119人を姦党と名づけ、元祐党籍碑を建てる。 後に309人に増え、地方に同じものを作らせる。 |
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1106年 | 一月、党籍碑を壊し、旧法党に対する弾圧が緩められる。 三月、蔡京、宰相辞任。 |
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1107年 (大観元) |
一月、蔡京、宰相に復帰。 | |
1126年 (靖康元) |
閏十一月、金により開封占領(靖康の変)、北宋滅ぶ。 |
[編集] 参考文献
- 『世界歴史体系・中国史3』(松丸道雄他、山川出版社 1997年 ISBN 4634461706)
- 『五代と宋の興亡』(周藤吉之・中島敏、講談社学術文庫 2004年 ISBN 4061596799)
- 『中国の歴史07・中国思想と宗教の奔流』(小島毅、講談社 2005年 ISBN 4062740575)
- 『宋学の形成と展開』(小島毅、創文社 1999年 ISBN 442319404X)
- 『中国歴史人物撰第6巻・司馬光とその時代』(木田知生、白帝社 1994年 ISBN 4891742305)
- 『中国の人と思想7・王安石』(三浦國雄、集英社 1985年 ISBN 4081850070)
- 『宋代の知識人』(宋代史研究会、汲古書院、1993年 ISBN 4762924571)
- 『王安石新法の研究』(東一夫、風間書房、1970年)
- 『宋代税制史研究』(島居一康、汲古書院、1993年)