哲宗 (宋)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
哲宗(てつそう、1076年(熙寧6年) - 1100年(元符3年)、在位1085年(元豊8年) - 1100年)は北宋第七代皇帝で、神宗の六男。諱は煦。
在位十五年余の哲宗の時代は、宣仁太后高氏の垂簾が行われた前期と、哲宗親政後の後期に分けられ、新法・旧法の争いが続いた。前期は所謂元祐更化(元祐は年号)と称される旧法派の時代であり、後期は紹述の政と呼ばれた新法派の時代である。
在位前半は、哲宗の祖母「宣仁太后」が垂簾を布いた。父・神宗の突然の崩御によって生まれたこの宣仁太后の政権は、神宗以来二十年余り実施された新法を全廃し、新法実施以前の政策に戻すという強引な政策転換が行われた。
ただ、この政策転換は、定着し始めていた新法の実情を一切無視して行われ、肝いりで元に戻した旧法も中身のないものであったため、世の中にに大きな混乱をおこした。また、大親分である司馬光が亡くなった後、後継者達が互いに足を引っ張りあう醜態を演じたため、政権内部は常に動揺していた。
その後、1093年宣仁太后が崩御した。満を持して、哲宗は親政をはじめた。哲宗は父の神宗を尊敬していたため、旧法を退け新法を用いることにした。宰相には、神宗親政時に副宰相をつとめた章惇が任命された。
章惇は、優れた政務能力を有する新法派官僚ではあったが、現実には既に実施困難を来していた神宗時代の新法を再び実施し、またまた社会を混乱させてしまう。加えて、対立する旧法派官僚を徹底的に追い落とそうとして、数々の疑獄事件を起こし、官界を不安に陥れた。
ただ、この章惇が行った強権政治も1100年哲宗がわずか24歳で崩御したことで約8年で終了し、以後は神宗の皇后・向太后の新法・旧法折衷政治を経て、徽宗朝の蔡京長期政権が登場する。
このように、哲宗朝は宋代史上最も党争の激化した時代であり、政治的実績は前の神宗朝ほどのものを見ず、文化的爛熟では後の徽宗朝ほどのものを見なかった。ただし、新法党・章惇政権の後半期には、ようやく政治的・経済的にも安定しはじめ、国庫も潤っていたことも注目する必要がある。
政権交代が繰り返されるたび、政策が度々変更される混乱の時代であった。ただ、この時代の政治家・学者には司馬光・蘇軾といったその後の中国社会に絶大な影響を与えた著名人が多く、宋代史上無視し得ぬ時代となっている。
なお、この時代の問題点として、評者の立場によって評価が正反対になるという点がある。儒学的思想が支配的であった時代は、元祐時代は祖宗の美風を取り戻した君子の時代であるとされ、逆に哲宗親政、章惇政権の時代(紹聖の紹述)は小人の跋扈し、世の中を破壊した時代であるとも言われていた。しかし近代以後、王安石の評価が高まることに連動して評価は逆転した。
つまり、旧法派は守旧派の元凶と見做され、元祐時代は反動政権の時代であると退けられる一方、逆に紹述の時代は新法を実施した評価さるべき時代であると見做されるに至ったのである。このように、哲宗朝の評価は立場によって評価が大きく異なるため、この時代の歴史を知ろうとする場合は、予め評者の立場を知っておく必要がある。
先代 神宗 |
北宋 | 次代: 徽宗 |
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 中国史の人物 | 1076年生 | 1100年没