朱子
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朱子(しゅし)は中国の宋代の儒学者である朱熹(しゅき 1130年 - 1200年)の尊称。姓は朱、諱は熹、字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。徽州婺源(江西省)の人。南宋の建炎四年九月甲寅(1130年10月18日)、南剣州尤渓(福建省)に生まれ、慶元六年三月甲子(1200年4月23日)、建陽(福建省)の考停にて没した。儒教の体系化を図った儒教の中興者。所謂「新儒教」の朱子学の創始者である。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 父・朱松
朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱瓌(しゅかい、瓌は懐のりっしんべんを王偏に変えたもの)で、婺源(ぶげん、江西省婺源県)の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。
その八世の子孫が朱熹の父・朱松(1097年 - 1143年)である。
朱松は周敦頤・程顥・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年より任官して県尉(県の治安維持)に任命されていた。1127年に靖康の変が置き、南宋になった後の1128年に南剣州尤渓県(なんけんしゅうゆうけいけん、現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。
そして建炎三年(1130年)に尤渓県にて朱熹が生まれる。
その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出され、1140年に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官の職を希望してこれを受け入れられ、以後は学問に専念し、1143年に47歳で死去した。
祠官と言うのは道教の祠を守るための役職と言うことであるが、この職は実際に赴任する必要は無く、ただ俸禄だけが貰えるというものである。功績があったものに対する恩典、あるいは優れた学者に対して学問に専念させるためにとして与えられることが多い。
[編集] 師との出会い
父と同じく学問の道に入った朱熹は九歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子翬の三者に師事するようになる。
1148年(紹興十八年)、19歳の時に科挙に合格。この時の席次は合格者330人中278番だった。この時は高宗の信頼を受けた秦檜の専権時代であり、秦檜は金との講和に反対する言説を弾圧して回っていた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなると言うことがあった。朱熹としては低い席次にはそういった理由があると思われる。
1151年、朱熹は最初に左迪功郎と言う階官を与えられ、泉州同安県(現在の福建省同安県)の主簿(帳簿係)と言う役職に任官された。(階官と言うのは官職の上下を表すためのもの)
この任官途中で父の同門であった李延平と出会い、その教えを受ける。それまで朱熹は儒学と共に禅宗をも学んでいたのだが、李延平による禅宗批判を聞き、その考えに同調して以後は禅宗を捨て、真に儒学を志すようになる。
1156年には主簿の任期である三年を過ぎたが、後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞し、祠官に任命されることを希望して受け入れられ、1160年からは李延平の元で学問に励むようになった。
この時に李延平は朱熹に対して「道学」の真髄を伝授し、朱熹も李延平の教えを次々と吸収し、李延平に「自分の後継者は朱熹しかいない」と認められるまでになった。
[編集] 政治家として
1162年に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命令されるが、拒否して祠官を与えてもらえるように望み、地元の崇安県に戻る。その後も何度もこのやり取りを繰り返す。
1170年には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などの農民が窮乏する時期に低利で貸し付けると言うものである。貸付は地主も行っていたが、こちらは利率が10割にも及ぼうかと言うもので、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。王安石の青苗法を参考にしたものと見られる。
1179年からは南康軍(軍は県の下の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者を教え、また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に対して言上している。そして太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。更に1180年には凶作が酷かったので、これに対して主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合にはこれを厳罰に処すると明言し、供出分に対しては後で受け取った側が返還できない場合には役所より返還するとの約束を行った。この施策により、凶作にもかかわらず、他地域へと逃げていく農民はいなかったと言う。しかし精力的に政治と行う一方で着任する際に何度も命令を拒否し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と祠官の地位を求めている。
南康軍での手腕を認められた朱熹は1181年に提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。
ここに於いて朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。その中でも1182年七月から始まる知台州(台州の知事。台州は現在の浙江省臨海県)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行い、その内容も非常に事細かであった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。
これは朱熹を嫉視した官僚たちの企みと見ることも出来ようが、しかしそれよりも朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて不自然であったと見られている。朱熹の弾劾文における唐仲友の悪行が本当だとしても当時の士大夫官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪であったのかと言えば非常に疑問である。むしろなぜ朱熹がこれほどまでに唐仲友に対して執拗に弾劾したのかとの疑問が湧いてくる。
この理由として朱熹の友人からの讒言があったとか、学閥上の争いであるとかの説があるが、はっきりはしない。どちらにせよ唐仲友は孝宗によって軽い罪で終わった。これに不満を持ったのかその後にあった何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。
[編集] 偽学の禁
1189年、孝宗が退位してその子・光宗が即位する。光宗は孝宗と違って暗愚であったため、趙汝愚と韓侂冑らは協力して1194年の孝宗の死後、光宗を退位させたが、朱熹は趙汝愚を応援していた。
そのため、光宗の後に寧宗が即位すると、朱熹は政治顧問に抜擢された。しかし同じく光宗の廃位で功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立したことで罷免されてしまい、結局、生涯で中央に出仕したのは40日あまりにすぎなかった。その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。そして1196年、韓侂冑らは権力をより強固にするために、朱熹の朱子学に対して反対的な一派を抱き込んで「偽学の変(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を朱子学派に加えた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そのような不遇の中で1200年、71歳の生涯を閉じたのである。
[編集] 朱子の業績
[編集] 儒教の聖書の整理
『論語』『孟子』と、『礼記』の一篇から独立させた『大学』と『中庸』の「四書」に『四書集注』を著し、後には科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目が四書一経となり四書が五経よりも重視されるようになった。
[編集] 朱子学の概要
それまでばらばらで矛盾を含んだ儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅を批判し、それと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な宗教に仕立て上げた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は理という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。
なお朱子の理とは、理とは形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理はその規範・法則であり 気の運動に秩序を与えるとする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。
[編集] 後世への影響
結果として身分制度の尊重、君子権の重要性を説いたため、明によって行法を除く学問部分が国教と定められ、日本にも輸出されて徳川幕府のイデオロギーとして尊重された。その結果、東アジアの儒教に基づく社会秩序が「儒教的」として後世、批判を受けるようにもなった。しかし体制によってどのように運用されてきたかを検討せずに、ただ朱子学と朱子を批判するのは見当違いというものであろう。
その学風はできるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化するというものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判されたが、儒教を初めて体系化した功績は大きく、Time社の「2000年の偉人」の数少ない東洋人偉人の一人としても評価されている。
[編集] 著作
70余部、460余巻あるとされる。
著作の一部
- 『朱自家訓』
- 『大学・誠意章』
- 『四書集注』
- 『論語集注』
- 『参同契考異』
- 『朱子語類』
- 『童蒙須知』
- 『資治通鑑綱目』
- 『易繋』
- 『楚辞集注』
- 『調息箴』
[編集] 有名な言葉
[編集] 関連
[編集] 参考文献
- 『中国歴史人物選第七巻・朱熹』(白帝社)