王安石
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王安石(おうあんせき ピンインWáng Ānshí 天禧5年(1021年) - 元祐元年(1086年))は、北宋の政治家・詩人・文章家。新法党のリーダー。神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。その政策は地主・豪商・皇族・官僚など特権階級の利害と衝突し、猛烈な反対を受けた。反対派の急先鋒が旧法党の司馬光である。文章家としても有名で、仁宗に上奏した『万言書』は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。また詩人としても有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。
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[編集] 略歴
[編集] 地方官時代
王安石の父・王益は地方官止まりの官僚で、王安石の家は家族が多く、豊かでなかった。1042年(慶暦2年)、25歳の時に4位で進士となる。、その後は地方官を歴任する。王安石程の人物であれば、科挙合格後はすぐに中央へ入って出世街道を進むのが普通だったが、王安石は家族達を養うためにとりあえずの実入りが良い地方官のほうを選んだのである。中央は見入りこそ少なかったが、皇帝・大官などの権力に近づくことが出来るので上手くすれば大きく儲ける事が出来た。この地方官歴任時代の経験が後の王安石の政治に大きく影響を与えたであろう事は想像に難くない。
1058年(嘉祐3年)、王安石は政治改革を訴える上奏文を出して、大きく注目された。こう言った上奏文の事を当時一般的に『万言書』と呼んでいたが、これ以降はほとんど王安石の文章の固有名詞と化した。それだけこの文章が素晴らしかったのであり、中央でも王安石を賞賛する声は高まっていた。後に王安石と激しい論戦を繰り広げる事になる司馬光らもこの時期には王安石を賞賛する声を送っていた。この声を受けて1067年(煕寧2年)、神宗に一地方官から皇帝の側近たる幹林学士に抜擢され、更に1069年には副宰相となり、政治改革にあたることになる。
[編集] 新法
王安石は若手の官僚を集めて制置三司条例司と言う組織を作り、改革を推し進めた。1070年(煕寧5年)には主席宰相となり、本格的に改革を始める。新法の具体的な内容に関しては新法・旧法の争いを参照のこと。
王安石の新法の特徴は大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げると言う所にある。
[編集] 失脚
これらの政策は大商人・大地主たちの激しい反発を受ける。士大夫達の多くはこの階層の出身者であったので、政界でも多くの反対者が出た。反対派の事は新法に対して旧法派と呼ばれ、この代表的存在が司馬光である。
まず1074年(煕寧7年)に河北で大干ばつが起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」と上奏され、これに乗った皇太后・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へと左遷された。新法派には王安石以外には人材を欠いており、王安石の後を継いで新法を推し進めていた呂恵卿などは権力欲が強く、新法派内部での分裂を招いた。翌年に王安石は復職するが、息子の死もあり王安石の気力は尽きて1076年(煕寧9年)に辞職し、翌年に致仕(引退)して隠棲した。
1085年に神宗が死去し、翌年には王安石が死去する。神宗が死ぬと新法に大反対であった皇太后により司馬光が宰相となり、一気に新法を廃止し、また司馬光も死去する。王安石・司馬光の両巨頭亡き後の新法と旧法の争いは醜い党争に堕し、どちらかの派閥が勝利する毎に法律も一新されることが繰り返され、大きな政治混乱を生むことになる。この政治混乱が北宋滅亡の大きな原因とされる。
[編集] 歴史的評価
南宋以降では王安石は北宋滅亡の原因などと言われるようになり、清末期までその悪評は続いた。しかし戊戌変法に参加した梁啓超などの論文により一変して再評価されるようになり、現在の中国では概ね高い評価がある。ただしこのような評価には時の政府の意向が見え隠れする事を忘れてはならない。
王安石の悪評は王安石死後に新法派の代表となり、『水滸伝』の悪役として名高い蔡京の負う所が大きい。また王安石を民衆の代表者として再評価することもおかしい。彼はあくまで国家のために尽力した人物である。これらの余分な部分を廃して王安石の評価に当たる必要がある。
文章家としての王安石の作品には前述の『商鞅』・『万言書』の他には『臨川集』・『周官新義』・『唐百家詩選』などがある。王安石の詩の中に「万緑叢中に紅一点あり 、人を動かす春色は須く多かるべからず」とあるが、これが「万緑」、「紅一点(ザクロのこと)」の出典である。
[編集] 参考文献
- 佐伯富『王安石』(支那歴史地理叢書 11)(1941年)