緒方竹虎
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緒方竹虎 (おがた たけとら 明治21年(1888年)1月30日 - 昭和31年(1956年)1月28日)は、ジャーナリスト、昭和時代の政治家。自由党総裁。国務大臣、内閣情報局総裁、内閣官房長官、副総理などを歴任。
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[編集] 経歴
[編集] 幼少期から学生時代
明治21年(1888年)1月30日、緒方道平の三男として山形県に生まれる。4歳の時、父について福岡県に移る。父は福岡県書記官を退官後、福岡農工銀行頭取をつとめた。
緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵(本姓は大戸氏、備中出身、岡山県)が大坂で適塾を開く緒方洪庵へ入門して塾頭となり、義兄弟の盟を結びその姓を与えられたことにはじまる。同じく備中に生まれた妹尾道平が、適塾門人の伊藤慎蔵との縁で郁蔵の養子となり、郁蔵の娘久重を妻に迎える。
6歳で剣道を本格的に習い始め、中学時代に山岡鉄舟の無刀流免許皆伝となる。福岡県立師範附属小学校から、修猷館中学校に進む。この間、小学校から中学校を通じて、無遅刻無欠席を貫徹し無類の勤勉さで知られた。修猷館で中野正剛と出会う。
修猷館から東京高等商業学校(現在の一橋大学)に入学するが、同学校の専攻部廃止の文部省令に反対し学生総退学決議を行った申酉事件(武井大助参照)のリーダーの1人として責任を取り退学、中野正剛に誘われ早稲田大学に転学し、玄洋社を主宰する頭山満らと親しく交わる。
[編集] 朝日新聞社での活躍
1911年(明治44年)に早稲田大学を卒業後、やはり、中野に誘われ大阪朝日新聞社に入社して東京勤務となる。朝日新聞社では出世街道を走り、東京朝日新聞社政治部長から、大正14年(1925年)に38歳で同編集局長、1934年(昭和9年)同主筆を経て昭和11年1936年朝日新聞社主筆となった。
取り立てて優秀な新聞記者とは言えなかったが、学生時代から頭山満を介して三浦悟楼、犬養毅、古島一雄らの知遇を得ており、「大正」の年号をスクープした。朝日社内ではなくてはならない存在という事で「空気のような男」という評判が立つようになっていった。さらに、金銭上公私の区別に厳しかった。
剛直な性格でも知られ2・26事件では、当時東京有楽町にあった東京朝日新聞社は中野輝明中尉率いる反乱軍に襲撃されるが、主筆であった緒方は、これに悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせた。また、太平洋戦争中に学生時代からの親友だった中野正剛が、東条英機首相に弾圧され自殺を遂げると、その葬儀では東条からの供花を拒否して見せた。
1943年、社長の村山長挙らと対立して主筆を解任され副社長となる。1944年(昭和19年)7月に退職。
[編集] 政界進出
朝日新聞社退職後、小磯国昭内閣に国務大臣・情報局総裁として入閣し、その後も終戦を挟んで鈴木貫太郎内閣の顧問や東久邇宮稔彦王内閣での国務大臣・内閣書記官長をつとめた。1946年9月に公職追放、1951年10月に追放解除となっている。
追放解除の翌年にあたる1952年10月、衆議院議員総選挙で福岡1区(当時)から出馬し当選する。第四次吉田茂内閣で1年生議員ながら、国務大臣・内閣官房長官に任命され、1953年5月成立の第五次吉田内閣で副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段の要因には、吉田の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として外務大臣になった際、緒方が骨折りをしたことなどが挙げられる。
[編集] 吉田内閣退陣と緒方総裁選出
吉田政権末期、バカヤロー解散や造船疑獄による指揮権発動により、急速に政権は求心力を失っていった。そうした中、鳩山一郎を中心とする反吉田勢力は、左右社会党と連携し吉田内閣不信任決議案を提出する。自由党は、衆議院解散総選挙による吉田内閣延命か、総辞職吉田退陣かで真っ二つに別れる。
吉田は、自由党総裁職を緒方に譲るが、なおも政権維持に執念を燃やした。しかし、緒方は内閣総辞職を主張し、昭和29年(1954年)12月7日、吉田が解散を強行した場合、閣僚として解散詔書に署名しないと、自らの政治生命を賭けて吉田に直言した。吉田は緒方を罷免してでも解散するつもりだったが、池田勇人幹事長の涙ながらの諫言にようやく解散を断念、総辞職した。12月8日自由党議員総会で吉田総裁の辞任を了承し、正式に後任総裁に緒方が選出された。
1955年に入り、自由党と日本民主党による保守合同論の気運が高まりを見せる中、緒方はこれを積極的に推進する。新党総裁をめぐる難航した協議の結果、総裁代行委員による集団指導体制に落ち着く。1955年11月15日、自由民主党が結党され、緒方は、鳩山、三木武吉、大野伴睦と共に総裁代行委員に就任した。しかし、1956年3月の総裁公選のための全国遊説中に風邪を引き、3日後の1月28日に急逝した。
緒方の急死によって、4月5日に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。鳩山の健康がすぐれないこともあって、鳩山は一期で引退し、緒方が後継総裁となる党内合意ができていたにも関わらず、緒方にとっては不運なことであった。その後、日ソ国交正常化を花道に鳩山は後継者を指名しないで引退を表明したため、岸信介、石橋湛山、石井光次郎による総裁公選が行われ、自民党金権政治の最初のパターンがここで生まれた。緒方の急死がなければ、戦後政治史も大きく変わったと言われる所以である。
しかし、いわば言論界の象徴として、その人格・識見を高く評価された一方で、政治家としての個性、手腕に乏しかったという厳しい評価もある。吉田内閣時代、昭和27年の東南アジア歴訪の途上、台湾を訪問、日台軍事同盟に言及したり、昭和29年、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出すが、ジャーナリズムから「特高的言論統制復活」と批判されるなど状況判断の甘さが終始つきまとっていた。
[編集] 悲劇の総裁
人格・見識ともに党内外から高く評価されていた緒方は、吉田の側近である池田勇人の働きによって、吉田より自由党総裁の座を禅譲された。その後も吉田は首相の座に就き続けたが、その吉田の権力への執着ぶりを「総理、延命のための解散への署名は副総理の私にはどうあってもできません。それならば私は政界引退か、自由党分裂も覚悟しております。そうなれば総理は、格好の悪い西郷南州(隆盛)になってしまいます」といさめたのは有名な話。この発言に激怒した吉田は、緒方を罷免しようとするが、池田の「一度後継に決めた人間の首を切るなどということは、決して許されたものではない」との発言に内閣総辞職を決意。結果的に、この吉田政権崩壊を機に、三木武吉や河野一郎ら、党人政治家によって擁立された鳩山一郎内閣誕生の近因となった。