鳩山一郎
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生年月日 | 明治16年(1883年)1月1日 |
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出生地 | 東京府東京市 |
出身校 | 東京帝国大学卒業 |
学位・資格 | 正二位 大勲位菊花大綬章 学士(東京帝国大学) |
前職 | 衆議院議員 日本民主党総裁 |
世襲の有無 | 家族・親族参照 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1956年12月23日 |
選挙区 | 東京1区 |
当選回数 | 衆15回 |
所属(推薦)党派 | 日本民主党 →自由民主党 |
鳩山一郎(はとやま いちろう、明治16年(1883年)1月1日 - 昭和34年(1959年)3月7日)は政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。
自由民主党の初代総裁であり、日ソ国交回復を成し遂げた。
目次 |
[編集] 首相としての業績
1946年の総選挙で自由党が第一党になると、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりであったが、就任を目前にして公職追放(1946年)となる。また追放解除を目前に脳梗塞で倒れた(1951年)。不運な状態が続いたことから世の同情を集めていた。貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後に首相を務め(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。
吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。
日本の独立という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な三分の二議席には達せず。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、改憲に反対の野党はもちろん、選挙区割りが旧民主党系よりという批判が与党内からも出たため、実現には至らなかった。なお、この一連の動きについてゲリマンダーならぬハトマンダーだ、と批判された。
[編集] 戦前の業績
戦前は政友会の議員として活躍し、1930年第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして浜口雄幸内閣を攻撃した。鳩山は対立する民政党政府を苦しめることを企図したようだが、統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものなので、議員としては政争にあけくれて大局を見失っていたことになる。
犬養毅内閣から斉藤実内閣にかけて文部大臣を務めた。1933年の京大の滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川教授を休職処分にした。このことは戦後になって反対派の批判材料とされたが、立場上やむをえなかったという見方もある。
樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院の平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。
帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたと言われたが、この事件自体がまったくでっちあげであると言われており、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。
軍部が台頭し戦争が進行していく中では、軍部と迎合しようとする多数派に反対する立場をとり、軍部と接近した久原房之助らと対立した。1943年の第81帝国議会では東条英機内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会した。
[編集] 経歴
- 1883年(明治16年) 出生、父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府議。母・春子は東京女子師範学校の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立。
- 1907年(明治40年) 東京帝国大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める
- 1911年(明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長)
- 1912年(明治45年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選
- 1915年(大正4年) 衆議院議員に当選
- 1927年(昭和2年) 田中義一内閣の内閣書記官長(1929年まで)
- 1931年(昭和6年) 犬養毅内閣の文部大臣
- 1931年(昭和7年) 五・一五事件、斎藤実内閣で引き続き文部大臣(1934年まで)
- 1933年(昭和8年) 滝川事件
- 1934年(昭和9年) 帝人事件で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職)
- 1942年(昭和17年) 翼賛選挙に非推薦で出馬、無所属で当選
- 1943年(昭和18年) 東條内閣を批判し、軽井沢へ隠遁
- 1945年(昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、日本自由党結成(総裁)
- 1946年(昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが公職追放の措置を受ける、
- 1951年(昭和26年) 脳出血で倒れる、追放解除
- 1954年(昭和29年) 日本民主党結成(総裁)、総理大臣になる
- 1954年12月10日-1955年3月19日 第1次鳩山内閣
- 1955年3月19日-同年11月22日 第2次鳩山内閣
- 1955年11月22日-1956年12月23日 第3次鳩山内閣
[編集] その他
- 「鳩山」という苗字のせいかリベラル的な雰囲気を醸し出している。政治史の舞台にもなった自邸(文京区音羽、通称音羽御殿)は、友人の建築家岡田信一郎の設計。現在は鳩山会館として公開されている。
- 文部大臣時代の1933年、聾学校での手話教育を口話教育に転換させた。
- 公職追放の一因になったのは、戦前の著作『世界の顔』であるが、特にファシズム礼賛という内容ではない。また実際には鳩山ではなく評論家の山浦貰一が執筆したとも言われている。戦時中は政党人として翼賛選挙に反対し、軽井沢で隠遁生活を送っていたとするが、特に東条と仲が悪かったために引っ込んだ訳でもない。
- 教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の大野伴睦や三木武吉らに支えられ、政党政治家として筋を通した。
- お坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らない事があると同志や家族に向けて癇癪を起こす事があり、妻の鳩山薫に対しても暴力を振るう事があった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るう事があっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れる事も無く、以後鳩山は妻を非常に大切にするようになったのだと言う。
- 昭和30年(1955年)3月、東京でフリーメーソンとなった。このことはよく知られている。
- 大の甘党で赤飯に砂糖をかけて食べたという逸話がある。
- 血液型はA型
[編集] 伝記
- 豊田穣『英才の家系-鳩山一郎と鳩山家の人々』(講談社文庫、1996年) ISBN 4062634473
[編集] 栄典
[編集] 家族・親族
- 美作勝山藩士の鳩山博房は祖父。衆議院議長を務めた鳩山和夫は父。外務大臣を務めた鳩山威一郎は長男。鳩山由紀夫、鳩山邦夫は孫。
- 教育者である母・春子の薫陶を受け、お坊ちゃん育ち、お人好しともいわれた。
- 妻・鳩山薫は共立女子大学長などを務めた教育者。結婚前、鳩山が薫に宛てたラブレターは『若き血の清く燃えて』(講談社、1996年)として刊行されている。
- 弟・鳩山秀夫は民法学者。学校の成績は弟の方が優秀で、賢弟愚兄といわれた。秀夫の妻・千代子は菊池大麓の次女なので、鳩山家は菊池家を通じて日本最大の学者一族・箕作家と閨閥でつながることになった。
- 姉・カヅは、検事総長から司法大臣・内務大臣を経て立憲政友会総裁となった鈴木喜三郎の夫人。後に鈴木が現職党首でありながら総選挙で落選して党首の資質を問われたときに鳩山らは鈴木が貴族院議員になれるように計らって総裁の留任を図ったために内外からのひんしゅくを買った。
- 五女・信子は指揮者の渡邉暁雄に嫁いだ。
[編集] 系譜
- 鳩山氏
十右衛門博房━━和夫━┳一郎━━威一郎━┳由紀夫 ┗秀夫 ┗邦夫
[編集] 外部リンク
内閣総理大臣 | ||
第51代 吉田茂 |
第52・53・54代 1954-56 |
第55代 石橋湛山 |
- 自由民主党総裁
- 初代: 1956
-
- 先代:
- ―
- 次代:
- 石橋湛山
- 内閣書記官長
- 1927 - 1929
-
- 先代:
- 塚本清治
- 次代:
- 鈴木富士彌