日本の競馬
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現在の日本において、競輪・競艇・オートレースと並ぶ公営競技の1つとして行われている競馬について記述する。公営競技としての競馬のうち、日本中央競馬会が主催する競馬を中央競馬といい、地方自治体が主催する競馬を地方競馬という。なお地方競馬においては地方競馬全国協会 (NAR) が免許の管理などの統括的な役割を果たす。
目次 |
[編集] 日本の競馬の歴史
日本において西洋式の競馬が行われるようになったのは19世紀後半のことであり、横浜の外国人居留地で外国人によって行われたものがその起源とされる。まもなく日本人が西洋式競馬を模倣するようになり、馬券の発売を伴った競馬開催も行われるようになった。当時の国産馬は西洋の馬と比べて質が劣っており、品種改良と競争(競馬)を通して良質の軍馬を調達しようと国も積極的に競馬を奨励した。はじめ馬券の発売には法的根拠がなかったが、1923年に(旧)競馬法によって法的根拠が与えられた。日本競馬会の発足とともに政府が深く関与する競馬が全国的な統一組織のもとで開催されるようになり、そうした競馬は国営競馬を経て中央競馬へと受け継がれている。一方戦後、かつての地方競馬規則に基づく地方競馬や鍛錬馬競走を継承する形で地方公共団体を主催者とする地方競馬が行われるようになった。日本の競馬の歴史の詳細については競馬の歴史 (日本)を参照のこと。
[編集] 公営ギャンブルとしての競馬
地方競馬・中央競馬はそれぞれ公営競技のひとつであり、刑法の特例として開催が認められている公営ギャンブルという側面をもつ。勝馬投票券(馬券)の発売を伴う競馬は特殊法人である日本中央競馬会 (JRA) 及び地方自治体にのみ開催が認められている。
[編集] 現在の日本競馬が抱える制度上の課題
[編集] 中央競馬と地方競馬の交流
日本の競馬は中央競馬と地方競馬の二つの競馬のシステムが並立しているわけだが、同じ種類の競走を行い、かつ競走馬としても同じ種類のサラブレッドやアングロアラブを使っていることから二つの競馬の間の交流の歴史もある。この事柄ではそのような交流の歴史について説明する。
1972年以前は、中央競馬と地方競馬は同じ種類の競走を行いながら、主催者の違いにより、長年人馬の交流は限られたものであった。基本的には中央競馬所属馬(騎手)は中央競馬の競走のみ、地方競馬は自分が所属している主催者の地方競馬の競走のみに出走していた。他の競馬に出走するためには、現在の所属を離脱して他の競馬へ移籍しなければならなかった。たとえば、1954年の東京優駿優勝馬のゴールデンウエーブは、最初南関東に所属していたが、東京優駿への出走を目指して南関東から中央競馬に移籍をしている。ただし、この時期から既に南関東地区や東海地区など地域的な位置関係から、地方競馬の一部では地区同士の交流が行われていた。
そんな中で、1973年に東京競馬場で地方競馬招待競走が行われ、初めて中央競馬に地方競馬所属馬が出走した。翌年は大井競馬場で中央競馬招待競走が行われ、この2競走は隔年毎に交互に行われていった。
1981年に創設された日本の代表馬と世界の名馬が激突するジャパンカップ。その舞台にも地方競馬の代表馬も出走することができるようになった。その第一号は1983年のダーリンググラス。その後、1985年にはロッキータイガーが2着になった。
1986年に地方競馬招待競走と中央競馬招待競走は変更され、地方競馬招待競走はオールカマーに、中央競馬招待競走は帝王賞にその役割を移すこととなった。また、中央競馬も地方競馬もない生産者の立場の人間が中心となって団体を作り、1989年、ホッカイドウ競馬にブリーダーズゴールドカップを新設し、この競走には中央競馬所属も全国の地方競馬所属も隔てなく出走できるようにした。
その後、大きな転機となったのは1995年である。「開放元年」と称し、多くの改正が行われた
- 多くの中央地方指定交流競走が設けられた。
- (指定競走…中央競馬なら地方競馬所属馬に、地方競馬なら中央競馬所属馬に出走を認める競走、交流競走…地方競馬が、他地区所属馬に出走を認める競走)
- 中央競馬のグレードワンレースのトライアルに地区の代表馬の出走枠を設けて、所定の着順までに入ることでグレードワンレースの出走できる道筋を造った。
- その年に笠松のライデンリーダーが4歳牝馬特別を制し、牝馬三冠競走に全てに出走し、話題を作った。
- また、初年度という事もあり地方競馬側の準備は整いきっていなかったが、それでもライデンリーダーの他、足利のハシノタイユウ(皐月賞)、笠松のベッスルキング(菊花賞)がトライアルで上位入着しGIに出走している。
- 東京大賞典などの地方競馬の大レースと呼ばれる競走に中央馬の出走枠を設けた。
- 1995年にライブリマウントが各地の地方競馬場で強さを見せつけた。またこの年のエンプレス杯でホクトベガが18馬身の圧勝劇を演じたのは川崎競馬場であった。このように多くの競走で中央競馬所属馬と地方競馬所属馬の対戦が行われるようになった。
- 地方競馬の2歳馬戦に認定競走制度を導入し、この認定競走に勝利した競走馬に対しては中央競馬の特別指定競走へ地方競馬に所属したまま出走できる資格を与え、また中央競馬への移籍に対しては、従来の馬房数とは別に、認定馬房による移籍を認めた。
- 地方競馬の条件級の中央指定競走も1994年より行われる。
1997年4月からは中央地方に関係のない統一グレード制を導入することとなり、ダートグレード競走が始まった。
1999年、地方競馬場の水沢競馬の生え抜きの地元最強馬であったメイセイオペラが、東京競馬場でのフェブラリーステークスで地方所属馬初の中央競馬GI勝利を果たした
2001年からダート競馬の祭典としてJBC(ジャパン・ブリーディング・ファームズカップ)が新設された。第1回は大井で開催された。
2004年、コスモバルクがホッカイドウ競馬所属のままでクラシック三冠・ジャパンカップ・有馬記念に出走。惜しくも勝ち星は挙げられなかったが、地方の星として脚光を浴びる存在となった。
[編集] 日本における競馬の国際化
もう一つのつながりとして、外国との交流についてこの項目では触れていく。外国との交流はいくつか存在する。
- 競走馬の遠征
- 国際競走
- 競走馬の輸入
- 種牡馬の輸入
[編集] 競走馬の海外遠征
外国の競馬は日本の競馬よりも出走制限はゆるく、外国の厩舎に所属していても多くの競走で出走できる。また、いくつかの競走では招待競走として、遠征費の負担も行ってくれた。
日本国内で調教された競走馬による海外遠征のうち、はっきりとした記録のある最古のものは、1909年(明治42年)のウラジオストック遠征である。前年に馬券が禁止されて意気消沈していた日本の競馬界に、ポーツマス条約による講和が成立した直後のロシアの競馬倶楽部から誘いがあり、帝室御賞典勝馬のスイテンを筆頭に50頭近くが大挙して遠征をした。日本国内の競走と同様、ほとんどの競走は日本産馬のみで行われたが、シベリア産やロシア産の馬との混合競走も行われ、スイテンは優勝戦でトップハンデでシベリア産馬に勝つなど、5戦5勝の遠征成績を収めた。ウラジオストックへの遠征はこれが最初で最後である。
太平洋戦争までは、朝鮮半島や台湾、満州でも競馬倶楽部が創設されて日本産の馬が出走したほか、大陸産(名目上は「日本国産」である)のサラブレッドやアラブ系種、さらには速歩用の馬が日本国内で出走していた。但し、海外遠征として特筆すべきものはない。
戦後最初の遠征は、1958年から1959年に掛けてハクチカラのアメリカ遠征である。1959年、ワシントンバースデーハンデキャップで初勝利。この際には保田隆芳騎手も一時期帯同して、保田騎手はこの際にモンキースタイルを習得してリーディングジョッキーの座を獲得。当時の日本の騎手は天神乗りが多かったが、保田騎手のモンキースタイルを真似て、日本でもモンキースタイルによる騎乗が主流となった。
その後、ワシントン国際招待ステークスに多くの馬が招待された、1962年のタカマガハラをはじめに多くの馬が挑戦したが、敗退の山を築いていった。
1966年から1967年にかけて、フジノオーがグランドナショナルを含む障害競走に出走し、2勝を収めた。
1986年に当時日本最強馬であったシンボリルドルフがアメリカに遠征したが、1戦で故障、そのまま引退を余儀なくされ、当時遠征中であったシリウスシンボリが1987年に帰国するとそれ以降はしばらく遠征が途絶えることとなる。
1993年から香港国際競走で日本馬が招待されることになると久々に遠征馬が現れるようになり、1995年に香港国際カップでフジヤマケンザンが海外GI初勝利(香港のローカルグレードによる。国際グレードはGIIだった)を収めると、その後香港遠征は毎年恒例のこととなった。
1997年にはホクトベガがドバイワールドカップに出走するも競走中の事故により故障を発症し安楽死処分となった。翌年現地ではホクトベガの名を冠した競走が施行されている。現在海外のレースで死亡した馬はホクトベガだけである。
1998年にシーキングザパールがモーリス・ド・ギース賞で日本調教馬による海外国際GI初勝利を収めた。その翌週にはタイキシャトルがジャック・ル・マロワ賞を制覇。年末にはミッドナイトベットが香港国際カップを制覇した。
1999年にはエルコンドルパサーが欧州遠征を行い、サンクルー大賞を制覇した。しかし、欧州最高峰競走の凱旋門賞は近年屈指の好メンバーと呼ばれた出走馬の中で、2着に惜敗。凱旋門賞同日のアベイユ・ド・ロンシャン賞でアグネスワールドが勝利を収める。
2000年もアグネスワールドは遠征を行った。ロイヤルアスコットのキングススタンドステークスでは、惜しくも2着であったが、続く欧州のスプリント最高峰の競走ジュライカップで2勝目を飾った。
2001年にステイゴールドが香港ヴァーズで日本産馬の日本調教馬による海外国際GI初勝利を収めた。2001年の香港国際競走は日本調教馬の勝利ラッシュで、エイシンプレストンが香港マイル、アグネスデジタルが香港カップと4つのうち3つの競走が日本調教馬の勝利であった。エイシンプレストンはその後も積極的に香港へ遠征し、2002年と翌2003年のクイーンエリザベス2世カップを連覇、日本調教馬初の海外同一GI連覇を果たした。
専ら外国への遠征は中央競馬所属馬が行っていたが、2005年に地方競馬の船橋所属のアジュディミツオーがドバイワールドカップに出走した。
この2005年にはシーザリオがアメリカンオークス招待ステークスを、ハットトリックが香港マイルを制覇したが、この2頭はともに角居勝彦調教師の管理馬であり、日本の調教師が同一年で外国での勝利馬を2頭出したのは初めての事である。
2006年には、コスモバルクがシンガポール航空インターナショナルカップを制し、地方競馬所属馬として初めて国際GI競走の勝利をもたらした。
[編集] 海外における日本人ファンのマナーについて
2006年、ディープインパクトがフランスで行われた凱旋門賞に出走した際、現地へ渡航した日本人ファンのマナーが問題となった。彼らの一部は観戦のためによりよい場所を得るために競馬場の入場門が開門すると同時に疾走し、用意されたレーシングプログラムを奪い合った。また、パドックにおいて集団で大騒ぎをする者も現れ、ディープインパクトに騎乗してパドックを周回中であった武豊に静粛にするよう要求される場面もみられた。このような振る舞いの数々は現地のファンやマスコミの多くに批判され、あるいは冷笑されることとなった。
[編集] 競馬にまつわる議論
[編集] 外国の馬名の表記
日本の競走馬の名称は、カタカナ9文字までに制限されているが(競走馬#競走馬名参照)国際レースの増加などで、現地語で付けられている外国の競走馬の名称を、日本国内で何らかの形で表記する必要が増大している。通常は、日本の競走馬名と同様にカタカナで表記されることが多い。
ただ、一般的に外国語をカタカナ表記しようとすると、「v」や「th」、「l」と「r」、無声音、促音や拗音などの表現の問題がある。これは普遍的な問題なので、ここでは詳述しない。
競馬に関して特別に発生する問題は、いくつかの原因によって生じている。
1. そもそも元になる外国語の名前が、外国でどのように発音されているかが確定しない。
たとえば、フランスの首都はパリであるが、外国語表記では「Paris」である。フランス語では最後の「s」は発音しないから「パリ」だが、英語では「パリス」と「s」を発音する。
もしも「Paris」という名前の馬を、フランス人がフランス国内で所有しフランス国内で調教して競走に参加していた場合、カタカナ表記は「パリ」で異論ないところである。(それでも、できるだけ現地の発音に近づけようとすると「パヒ」のようになるのかもしれない。)しかし命名者がアメリカ人の場合は、彼は「パリス」のつもりで命名したと考えるのが自然である。また、フランス人所有であっても、フランスからアメリカに遠征に出れば、現地のアメリカ人には「パリス」と呼ばれるし、フランス人が所有しアメリカ国内で調教される場合や、途中で所有者が変わる場合、フランスで競走した後引退してアメリカに売却される場合など、どの時点での発音を採用するかでカタカナ表記は変動する可能性がある。
このように、命名の由来、命名者の発音、関係者の発音などが異なる場合、どれをカタカナ表記として採用するかの公式な規則はないため、扱う人によって表記が変わる。
2. 社会的に通例として普及している名称。
たとえば、「Mozart」という名前の馬がいた場合、これは音楽家の名前に由来するのであれば、日本での一般的な表記は「モーツァルト」である。仮にこの馬の関係者がすべてアメリカ人だった場合、彼らは「モザート」のように発音するので、そのとおりに表記するのであれば「モザート」が正確である。しかし、日本では「Mozart」を「モザート」と表記すると音楽家の名前とは通じなくなるため、「モーツァルト」が用いられる。
これは、現地の発音が確定しているにもかかわらず、日本での通例によって表記が変わる場合である。
さて、外国の馬名がカタカナで表現されて問題となるのは、以下の場合である。
1の場合、ジャパンカップなどの国際競走に外国馬が出走すると、主催者であるJRAはその馬のカタカナ名を決める(このため例外的に日本の規則である「2文字以上9文字以下」の原則に当てはまらないカタカナで10文字以上の馬名の競走馬が出走する時がある)。 2の場合、その種牡馬ないし繁殖牝馬の所有者は、カタカナ表記を決める。
上記のいずれの場合も、最終的にはJRHR(財団法人日本軽種馬登録協会)が、当事者の申請を基に日本国内における公式な名称として登録する。そのカタカナ表記が妥当かどうか、センスがいいかどうかについて議論が起こることがある。いずれにしろ公式に使用する表記になるため、是否を問わず定着することになる。
3の場合は、いわゆる公式なカタカナ表記が制定されないため、議論が起こると決着がつかない。
以下は馬名表記が問題となった代表的な例である。
- ピルサドスキー
- 1997年のジャパンカップに出走した同馬の名前は、原語表記では「Pilsudski」である。同馬のジャパンカップ出走時、JRAが馬主に対し馬名の発音を確認し、「ピルサドスキー」と表記することになっているが、1920年代のポーランドの国家主席、ユゼフ・ピウスツキ (Józef Klemens Piłsudski) 、あるいは、兄で民族学者のブロニスワフ・ピウスツキ (Bronisław Piotr Piłsudski) の名に由来する。(競走馬の「Pilsudski」の父の名は「Polish Precedent」で「ポーランドの先人」のような意味になる。)一般に彼の名前は、「ピルスツキ」とか「ピウスツキ」と表記され、たとえば国立スラブ研究センターの出版物や在ポーランド日本大使館のHPでも「ピウスツキ」と表記されている。
- JRA賞馬事文化賞受賞者でダート競走格付け委員の山野浩一は著書『全日本フリーハンデ』のなかで次のように述べている。
特にピルサドスキーのような例は下手をすると外交問題にすら発展しかねないもので、外国で明治天皇の名を変なスペルで綴られたりしたら、やはり外務省は訂正を求めるのではないだろうか。(中略)抗議がなければどのような失礼なことも許されるというものではない。
- ゲインズバラ
- 1918年にイギリスで三冠を達成した同馬の名前は、原語表記では「Gainsborough」である。18世紀の画家であるトマス・ゲインズバラに由来するとされている。「Gainsborough」の「borough」は、「エジンバラ」のように「バラ」と発音されるのが日本でも通例であるが、競走馬であるゲインズボローの名前が日本に紹介されたのは、1927年にイギリスから種牡馬トウルヌソルが輸入されて、大変良好な成績を収めた時である。まだゲインズボローが現役種牡馬であった1938年に日本で出版された『競馬と馬券の実際知識』」では「ゲーンスボロー」で、上述の山野浩一が1970年代に執筆した『名馬の血統』でも「ゲーンズボロー」の表記である。「borough」を「ボロー」と読むのはアメリカ風で、日本ではこの馬の名前の後半の表記は長いこと「ボロー」で定着していたが、2000年代ごろから「バラ」の表記が見られるようになった。
- エルバジェ
- 1980年代後半から1990年代前半にかけて、輸入種牡馬のシーホークの仔が活躍し、1990年にはアイネスフウジンが19万人の観衆の前で東京優駿を逃切り競馬ブームの象徴となった。当時話題になったのは、シーホークの父「Herbager」の日本語表記で、同馬はフランスで生産され、フランス人が所有し、フランス人が調教し、フランスで競走をした。そのため日本でもフランス名の「エルバジェ」と表記されるのが通例である。しかし同馬は引退後アメリカで種牡馬となっており、アメリカでは「ハーバージャー」と呼ばれている。シーホークはアメリカ種牡馬の仔であり、「ハーバージャー」に改めるべきだとの議論が一部でなされたが、現在でも日本国内ではほぼ「エルバジェ」に統一されている。これと似たようなケースで、フランス産馬「Lyphard」は「リファール」と表記され、「リファード」と表記されるのは稀である。しかし、「Lyphard」のアメリカでの仔に「Lyphard's ~」とつくものがいて、この場合は英語風に「リファーズ」と表記されている。
- セントサイモン
- 19世紀末から20世紀にかけてイギリスで大成功を収めた歴史的名馬にして名種牡馬で、現在でも大きな影響力を持っている。馬名の由来はフランスの社会主義思想家のアンリ・ド・サン=シモンである。馬名は「St.Simon」で、由来に従えば「St.」の部分は「サン」、「Simon」は「シモン」と表記するのが原語に忠実である。しかし同馬はイギリス馬で、英語読みで「St.」は「セイント」と読まれるようになり、「Simon」も英語風に「サイモン」と表記されることが多かった。歴史的には、「サンシモン」「セントシモン」「セントサイモン」などの表記が用いられてきた。近年、もともとの命名にしたがって「サンシモン」と表記する場合がある。
- ダンチヒ
- 1990年代後半から、カタカナ表記を論じる際にもっとも問題になる馬である。ダンチヒ自体は1991年~1993年のアメリカのリーディングサイアーになったほどの重要な種牡馬で、日本にも子供が競走馬や種牡馬として多数輸入されている。原語での馬名は「Danzig」である。ポーランド出身のアメリカ人の所有馬であった。馬名の由来は、現在は「グダニスク」と呼ばれるポーランドの都市のドイツ支配時代の旧名であるとの説が有力である。一方、ダンチヒの父であるノーザンダンサーには、著名な共産圏出身の舞踏家の名前が命名されることが多く、ニジンスキー、ヌレイエフ、リファールなどが有名で、これにならってオランダの舞踏家であるルディ・ファン・ダンツィヒの名に由来するとの説もある。
- いずれにせよ、馬名の由来となった原語は、日本では現地の発音に近い「ダンチヒ」とか「ダンツィヒ」のように表記されるのが通例である。しかし、同馬はアメリカで生産され、アメリカ人が調教し、アメリカで競走し、アメリカで種牡馬となった馬である。アメリカ人は「Danzig」を「ダンジグ」のように発音するため、日本語表記を「ダンジグ」とする説にも正当な根拠がある。幸か不幸か、現在までに名前に「Danzig」をもつ馬が外国馬として日本の競走に出走したことはない。外国産馬としてはダンジグカラーズという馬が存在したが、これは日本で「ダンジグカラーズ」とカタカナで馬名登録を受けているので表記ゆれに関する問題はない。(もちろん同馬を「ダンチヒカラーズ」「ダンツィヒカラーズ」と呼ぶのは完全に誤りである。)
[編集] 競走の格付表示
日本では競走の格付のため競馬の競走格付けという体系が導入されているが、複数のグレード制度が混在している。主なものには、国際的な基準で設けられている国際グレード、中央競馬が独自で定めるグレード、ダート競走で用いられる中央競馬と地方競馬で共通の統一グレード、地方競馬が独自で定めるグレード、中央競馬の障害競走でのみ用いられる障害グレードなどで、原則としてこれらには互換性がない。これらのグレード制度が混同されて表示される事があるが、これは公正な商取引や競馬の国際化を妨げる一因となっている。(詳しくは競馬の競走格付けを参照。)
[編集] 日本における競走馬生産
近代競馬においては、競馬と馬産とは表裏一体の関係にある。戦前の競馬は優秀な軍馬生産の目的もあり、政府主導の馬匹改良を奨励し、またその成果を確認する意味をもっていた。農耕馬の品種改良のために導入されたペルシュロンの血を引く馬がばんえい競馬で、軍馬として生産を奨励されたアングロアラブが地方競馬で、現在でも競馬に用いられているのはその名残ともいえる。
現代においては軍事や使役目的の馬産はほとんど不要となったため、競走馬は競馬を行うためだけに生産されている。競馬はサラブレッドの質を常に一定以上に保つための淘汰の手段として行われる。生き物である以上、どれ程素晴らしいサラブレッドが誕生しても寿命が来ると死んでしまう。肉牛などと異なり、競馬の世界では精子の保存や人工授精といった手法は認められていない(自然交配主義)。そのため、先天的な能力にばらつきがある限り、ある水準を保つためには常に、維持したい数量よりも多くを生産してその中からよいものを選抜するという作業を継続する必要がある。また、サラブレッドの生産と流通という経済活動に携わる人や企業も、当然として競馬と馬産の継続を必要としている。
[編集] 日本の馬産の現状
日本のサラブレッドの大半は北海道の日高地方で生産される。日高地方は日本でも有数の規模を持つ日高山脈に発する水系が、競走馬の発育に重要なミネラル成分を豊富に含んでおり、河川敷の小規模な放牧地でも馬産に適した土壌が得られる為である。2004年の統計によれば、国内の生産頭数7773頭のうち7381頭が北海道産で、更にそのうち6348頭は日高産である。北海道以外では青森県(213頭)、鹿児島県(34頭)、宮城県(33頭)、宮崎県(24頭)、千葉県(23頭)などとなっており、東北と九州が北海道に続く馬産地であるがその規模の隔たりはあまりにも大きい。
このような極端な集中は、馬産地での馬伝染性貧血などの家畜法定伝染病の発生により日本の馬産が壊滅的な被害を受けるリスクをはらんでいる。また日高地方の経済は競走馬関連産業への依存度が極めて高く、競馬や馬畜産をとりまく環境の変化による経済への影響を受けやすい。
生産界は世界的な傾向として、生産馬の売却を目的とするマーケットブリーダーが増加し、自己所有を目的とするオーナーブリーダーは減少傾向にある。この傾向は競走馬市場における自由で活発な取引によって支えられるはずのものであるが、日本では庭先取引と呼ばれる非公開の取引が支配的である。これは、農地法により、競走馬の所有者が自ら生産活動を行うことが大きく制限されていることから考え出された日本の独特な生産方式である。所有者の中には、このような制限のない海外で競走馬生産を行うものも現れており、自己名義で海外で生産した競走馬を外国産馬として日本に持ち込む例が増加している。
一方、近年は公開の市場取引(セリ市)も増え、1億円を超す高額価格馬の登場が耳目を集めることもある。また、かつては行われなかった2歳馬のイヤリングセールが行われるなどの市場改革の試みもはじまっている。
2002年には生産者の定義も国際基準に合わせて変更された。国際基準では生産者とは母馬の所有者を指す。母馬の所有者は牧場に母馬を預託し、牧場は施設や人材を提供して預託料を受け取るというのが国際的な生産方式である。日本では、前述の農地法の制約により牧場が母馬を所有しているため、従来は生産牧場を生産者と称してきた。このような国際基準に合致しない表示を継続した場合、日本産馬のサラブレッド登録を一切認めないとの通知により、日本の表示方式も改められた。
種牡馬市場においては、1980年代から社台グループによる寡占化が進み、ノーザンテースト、リアルシャダイ、トニービン、サンデーサイレンスによって、1982年以来24年間に渡りリーディングサイアーの座を独占し続けている。
[編集] 日本の競馬文化
[編集] 競馬の放送
日本での競馬テレビ中継は1953年に、日本テレビが船橋競馬場の競走をテレビ中継したのが始まりである(これを記念して船橋競馬には日本テレビ盃というレースがある。なお、2006年時点では日本テレビでは競馬中継は行っていない)。中央競馬は、1953年にNHKが春の中山大障害を中継したのが最初である。 関東の民間放送では、1956年にラジオ東京テレビ(現在の東京放送)が東京開催の中継を行ったのが最初で、その後1959年に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)が、さらに1960年よりフジテレビジョンが中継を開始し、一時は東京開催が日本教育テレビの、また中山開催がフジテレビジョンの中継となった。1962年より、関東開催はフジテレビジョンの単独中継となった(関西で関西テレビ放送が中継を行っていた為の措置と言われる)。 また関西の民間放送では、1957年に大阪テレビ放送(朝日放送の前身)により桜花賞が放送されたのが最初であるが、関西テレビ放送が開局と同時に競馬中継の放送を開始し、2006年現在でも引き続き行われている。また、東京十二チャンネル(現在のテレビ東京)や、近畿放送(現在のKBS京都)やサンテレビジョンでも、開局時より競馬中継を開始している。
ラジオ中継は、1932年に、当時の札幌競馬倶楽部で行われた競馬を中継したのが最初である。その後もNHKにより、単発的に中継放送が行われていた。民間放送では、日経ラジオ社(ラジオ日経、旧日本短波→ラジオ短波)で1956年より中央競馬実況中継を行っており、場内の公式実況でもあるほか、アール・エフ・ラジオ日本(旧ラジオ関東)も、1959年より、東日本地区の中央競馬実況中継を行っている。 中央競馬における競馬中継については中央競馬テレビ・ラジオ中継一覧も参照。
近年はインターネットを用いた映像提供が、地方競馬を中心に盛んに行われている。2006年1月現在、荒尾競馬場以外のオンデマンド配信(録画配信)を行っており、ライブ配信は最後まで導入していなかった荒尾競馬場が「TV Bank」にてライブ配信を開始したことにより、全ての主催者で視聴できるようになった。D-Netによるダートグレード競走のライブ配信を除いては、いずれも無料で行われている。中央競馬においては、衛星放送とケーブルテレビ網を利用したグリーンチャンネルによる映像配信事業が中心であり、インターネットでのライブ配信は行っていない。オンデマンド配信についても、中央競馬ピーアールセンターによるJRA-RACING VIEWERが有料サービスとしてで行われているのみである。
[編集] 競走馬のぬいぐるみ
オグリキャップのぬいぐるみで爆発的に成功した株式会社アバンティーが販売するぬいぐるみは、単なるウマのぬいぐるみではない。実在の特定のサラブレッドの毛色や鼻梁(ウマの顔に現れる白い模様)、四肢や蹄の先の色に至るまでの外見的特徴を精確に反映しており、メンコなどの馬具や馬主の服色、ゼッケンの番号まで特定のレースを基に再現されている。これにより、例えばディープインパクトのSサイズだけで既に5種類(皐月賞、日本ダービー、菊花賞、三冠、年度代表馬)のバリエーションが存在する。手のひらサイズから1メートルを越すものまで、近年の活躍馬だけではなくマルゼンスキーやシンザン、香港でしか買えないフェアリーキングプローンや、重賞を勝っていないマイネルヨースやシグナスヒーロー、ハルウララといった馬まで既に300種類以上が商品化されている。
[編集] 競馬ゲーム
競馬ブームが到来した1991年、家庭用ゲーム機のFC用ソフトとしてアスキーから競走馬育成シミュレーションゲーム『ダービースタリオン』が発売される。これが人気を博し、以降『ウイニングポスト』(コーエー)など競走馬を育成するシミュレーションゲームが様々なメーカーからも発売され、パソコン用にも移植されるなどした。また『ファミリージョッキー』(ナムコ)にはじまり、『ギャロップレーサー』(テクモ)や『ジーワンジョッキー』(コーエー)など、競馬のレースゲームも数多く発売されている。
一方ゲームセンターにおいては、昔から競馬のゲームを作っていたメダルゲーム界で1999年、コナミから『GI LEADING SIRE』が、2000年にセガから『STARHORSE』が発売され、どちらも競走馬を育成する、という要素が初めて付け加えられ、ヒット作品となり現在でも絶大な人気を誇っている。
さらにメダルだけにとどまらず、磁気カード方式を用いた『ダービーオーナーズクラブ』(セガ)が1999年から稼動した。自分専用の馬をデータカード化できてゲームセンターを梯子できることや、賞金ランキング表示システムや実況のテンポの良さは大受けし、その改良版『ダービーオーナーズクラブ2000』は「ファミ通」のアーケード用のランキングでは1年半以上にわたり圧倒的な差でトップをキープし続けるほどの大人気となった。インターネットオークションや専用のサイトなどでは強力な種馬、牝馬、子馬、賞金額の膨大な現役馬などの入ったカードや、カードコピーといった裏技情報が多数高価で取引されたり、セガ系列のゲームセンターでは地区レベルで各地で大会も開催されたことがある。しかし、本作には馬のスタミナ消耗の制御プログラムにおいてゲームバランス的に致命的なバグがある事が発覚、これがインターネットなどを通じて広まると、このバグを利用した先行馬による必勝法が確立され、また磁気データを改竄された異常に強力な馬も横行してしまい、ついには通常のプレイではほぼ勝てない状態が発生し、これが原因でたちどころにプレイヤーが離れていった。当然、セガはバグ修正版をリリースしたものの、人気回復には繋がらず、この為テコ入れ策として新たに調教やステータスのシステムを一新し、プレイ料金も引き下げ、実況で馬名を発音させることができ、カードもコレクション性のあるものにした『ダービーオーナーズクラブ2』を2001年末に稼動させたが、ついにかつての人気は取り戻せずに終わった。
PC向けとしては本作をオンラインゲーム化した『ダービーオーナーズクラブオンライン』が存在したが、話題性が高かった割には人気面で非常に低調に終始し、2006年9月30日をもって本ゲームのサービスは終了した。
[編集] 競馬マンガ
一般誌の「ビッグコミック」(小学館)にはすでに『とねっ娘』、『ポコあポコ』が連載されていたが、1989年に競馬専門誌の「週刊競馬報知」に擬人化された馬が主役の『馬なり1ハロン劇場』が登場すると人気となり、1994年には日本を代表する少年誌で『みどりのマキバオー』や『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』の連載が始まった。『馬なり1ハロン劇場』を除いて、いずれも競馬ファンのみを対象としているわけではないという点が注目に値する。多くの場合、架空の競馬が描かれているが、競走体系や血統背景などは現実の競馬がモチーフにされている。
- とねっ娘(木村えいじ)
- みどりのマキバオー
- じゃじゃ馬グルーミン★UP!(ゆうきまさみ)
- 馬なり1ハロン劇場(よしだみほ)
- ポコあポコ
- 優駿の門(やまさき拓味)
- 風のシルフィード(本島幸久)
- 蒼き神話マルス(本島幸久)
- 名門!源五郎丸厩舎(むつ利之)
- 翼のない天馬たち(原作:佐藤晴美、作画:かづさひろし)
- 競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬(原作:田原成貴、作画:土田世紀)
- ダービージョッキー(原案:武豊、画:一色登希彦)
- 魅惑の砂(ダート)(作:松本捷平、画:飯山カズオ)
- 優駿たちの蹄跡
[編集] 競馬音楽
昭和40年代には当時の人気馬ハイセイコーの引退に際して主戦騎手の増沢末夫が歌ったレコード「さらばハイセイコー」が45万枚のセールスを記録した。また、JRAの重賞競走の出走前に流れるファンファーレの着メロは既に100万回を超えるダウンロードが行われている。また、競馬を題材としたヒット曲では、ソルティー・シュガーの「走れコウタロー」などがある。
[編集] 競馬文学
菊池寛に代表されるように、戦前から文人と競馬のつながりは深かったが、 純然たる競馬文学としては、1946年に発表された織田作之助の『競馬』がその嚆矢とされる。 これ以降しばらく、競馬そのものを材にとった作品は見られなかったが、1970年に新橋遊吉が『競馬放浪記』に代表される一連の競馬小説を世に送り、競馬文学への理解を深めるのに一役買った。その後、寺山修司が『馬敗れて草原あり』など競馬を題材にしたノンフィクション、詩、エッセイを多数発表。 1974年には、志摩直人の競馬詩集『風はその背にたてがみに』がベストセラーとなった。 この時期には、「東の寺山修司、西の志摩直人」と呼ばれるなど競馬文学界の巨頭として並び称されていた。 1982年から小説新潮スペシャルで連載されていた宮本輝の「優駿」は1986年に単行本化されるとヒット作品となり、1988年に『優駿 ORACION』として映画化されるに至った。この他、西村京太郎の「日本ダービー殺人事件」がある。
[編集] 法令
日本の競馬は競馬法ならびにそれに関連する法令によって、競馬に関する一切が定められている。
競馬の開催権は日本中央競馬会ならびに地方自治体にのみ与えられているが、競馬の実施に関する事務を他者へ委託することが、競馬法第3条の2および第21条によりできる。
- 中央競馬を主催する日本中央競馬会は、事務を都道府県、市町村又は私人に委託することができる。
- 地方競馬を主催する地方自治体は、事務を他の都道府県若しくは市町村、日本中央競馬会又は私人に委託することができる。
競馬法施行令第5条ならびに第17条の4において、競馬の競走形態が次の4種類に定められている。
- 平地競走 - 一般的な競馬の形態
- 速歩競走(トロット) - キャンターまではいかない(ダクの状態で行う)競走の形態。四肢が全て地面から離れると失格となる。通常の平地競走同様に馬に騎乗する騎乗速歩と、騎手が乗った繋駕車(けいがしゃ)と呼ばれる人力車に似た車を引かせる繋駕速歩の2種類がある。欧州では、平地競走よりも盛んに開催されている。日本でも1971年まで存在したが、現在では行われていない。
- 障害競走 - コース上に生垣や土塁、竹柵などが設けられ、それらを飛越しつつゴールを目指す競走の形態。中央競馬では、札幌競馬場と函館競馬場以外の競馬場で行なわれている。地方競馬では、1974年に廃止された春木競馬場を最後に、行なわれなくなったが法令上は施行することが出来る。
- ばんえい競走 - 北海道特有の、200メートルの直線山越えコースで重種馬がそりを引く競馬。
監督官庁は農林水産省で、監督部局は生産局畜産部競馬監督課であるが、地方競馬においては地方自治体が運営する関係上総務省(旧自治省)も関係する。地方競馬全国協会の監督官庁は総務省である。
- 主な競走については競馬の競走一覧を参照の事。