セントサイモン
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種牡馬時代のセントサイモン (ウェルベックアベースタッドにて) |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1881年 |
死没 | 1908年4月2日 |
父 | ガロピン(Galopin) |
母 | セントアンジェラ(St.Angela) |
生産 | バッチャーニ・グスツァフ |
生国 | イギリス |
馬主 | バッチャーニ・グスツァフ →第6代ポートランド公爵 |
調教師 | ジョン・ドーソン →マシュー・ドーソン |
競走成績 | 10戦10勝(非公式1戦含む) |
獲得賞金 | 4676ポンド |
セントサイモンあるいはサンシモン(St. Simon、1881年 - 1908年)は、イギリスの競走馬・種牡馬である。19世紀末に活躍し、特に種牡馬としては歴史的な成功を収めた。現在のサラブレッドに対する影響も極めて大きく、セントサイモンに由来する遺伝子はサラブレッドの遺伝子プールの内1/10を占めるとも言われる。主な勝ち鞍はアスコットゴールドカップ。イギリスチャンピオンサイアー9回、チャンピオンブルードメアサイアー6回。サラブレッド史上最も成功した種牡馬か、少なくともその1頭である。
馬名はバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家アンリ・ド・サン=シモンが由来であり、本来の馬名は「サンシモン」である。しかしアメリカ英語の影響を受けた現在、イギリスでも「セントサイモン」と発音するため日本でも「セントサイモン」と呼称されている。近年元の呼称に従い「サンシモン」と表記する場合も増えてきているが、この記事ではより一般的な「セントサイモン」で統一する。
目次 |
[編集] 概要
デビュー前は見栄えのしない馬体や血統のため期待されておらず、さらに元の馬主が死亡したため当時のルールによりクラシックを戦う事はできなかった。代わりに下級戦やマッチレース、古馬の上級戦に出走を続け、10戦無敗の成績を残した。殆どのレースが圧勝で、アスコットゴールドカップは20馬身差の勝利だった。
グッドウッドカップを20馬身差で勝利した後、1年の休養を経て1886年から種牡馬入りした。種牡馬として空前の成功を収め、牡馬と牝馬で1頭ずつの三冠馬を輩出し、クラシックを全勝した年(1900年)すらあった。その血統はイギリスに留まらず世界中に拡散し、サラブレッドの血統に多大な影響を残した。27歳の時に心臓麻痺で死亡するが、その後半世紀を待たずにセントサイモンの血を持たないサラブレッドはほぼ姿を消した。現在セントサイモンの血を持たないサラブレッドは存在しない。
[編集] 生い立ち
[編集] 出生
セントサイモンは、1881年にイギリス・東部イングランド・サフォーク州にあるニューマーケットの近くでセントアンジェラの8番目の仔として生まれた。父はエプソムダービー馬ガロピン。生産者はハンガリーの貴族バッチャーニ・グスツァフである。彼は1838年にイギリスに帰化した後、1843年には自分の牧場を開いた。1859年にはジョッキークラブの一員となり、1875年にはガロピンでエプソムダービーを制したが、この頃から心臓を患うようになっていた。
バッチャーニのお気に入りだった父ガロピンは、負ける姿を見させたくないという側近の配慮によりその年限りで引退し、翌年からウィリアム・バローズの牧場で種牡馬生活へと入っている。だが、血統の悪さや、気性難で知られていたブラックロックのインブリードを持っていたことにより全く人気がなく、初年度100ギニーだった種付け料が翌年からは50ギニーへと下げられている。交配相手も年に10数頭と少なく、しかもバッチャーニの所有馬ばかりという有様であった。
そんな中、バッチャーニよってセントサイモンの母セントアンジェラはガロピンと何度か交配された。1879年にはアンジェリカが生まれ、セントアンジェラが16歳となる1881年にはセントサイモンが生まれている。
セントサイモンが仔馬の頃どのような馬であったかについては殆ど伝えられていないが、ドーソンは厩舎に来たばかりのころはまるで牛のように鈍重で、兎のような動きをする目立たない馬だったと述べている。
[編集] 2歳(デビューまで)
2歳になるとバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家「アンリ・ド・サン=シモン」から名前をもらい「セントサイモン」と名付けられた。だがその年の5月、生産者そして当時の馬主であるバッチャーニが、自身の持ち馬ガリアードが優勝した2000ギニーの僅か30分前に心臓麻痺で急死する。そのため7月には貴族に義務付けられた遺産公開セールが行われ、セントサイモンも上場された。このセールには4年前にポートランド公爵とその財産・牧場を相続したウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第6代ポートランド公爵)と、その持ち馬を管理していた調教師マシュー・ドーソンがフルメンという名の馬を手に入れるために訪れており、その馬が高くて買えなかったため何か気になるところのあった隣の馬房のセントサイモンを1600ギニーの手ごろな価格で競り落とした。
1600ギニーと手ごろな値段になった理由として、成長後で体高(肩までの高さ)16.1ハンド(約164 cm)の雄大な馬格を誇っていたものの、胴が詰まりのろのろと歩くその様は見栄えのいいものではなかったこと、血統の悪さ、さらに既にクラシック登録(正確にはバッチャーニの方針により元々2000ギニーにしか登録がなかった)、及びフュチュリティ等の主要2歳戦の登録が締め切られ、その登録が馬主死亡のため無効(1928年にこの規則は廃止)になり出走権が失われたこと等が災いした。また、バッチャーニの元でセントサイモンを管理していたジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)がこの馬を手放したくなかったためわざと太らせた上で汚くして見栄えを悪くしていたという話もある。このセールでは父ガロピンが8000ギニーでヘンリー・チャップリンに売却され、母セントアンジェラが320ギニーでレオポルド・ド・ロスチャイルドに売却されフランスに渡っている。
[編集] 血統背景
父ガロピンについては前述(#出生)、詳細についてはガロピンを参照。父系はエクリプス系の中でも傍流のキングファーガス→ハンブルトニアンの流れをくんでいる。この系統はセントサイモンが登場するのと同時にガリアードやサンドリッジなども種牡馬として成功し隆盛を極めた。
母セントアンジェラはバッチャーニの生産馬、現役時代は8戦して1勝を上げていた。産駒はセントサイモンを含め5頭が勝ち上がっている。血統背景は父が英リーディングサイアーであるキングトムが目立つくらいで、母アデラインも1勝馬、その産駒で勝ち上がった者は4頭と平凡であった。これらが属す牝系は後に11号族のc分枝に分類されたが、1881年時点でこの牝系から生まれた活躍馬は皆無であった。その他血統構成は、父でインブリードされていたブラックロック(強烈な気性難で知られる)がさらに重ねられ、その息子ヴォルテールと合わせ、父方に向かって近交が行われている。その他サルタン、サーピーターティーズル等ヘロド系の影響も強いが、当時流行していたストックウェル、ニューミンスター、ハーミット等の血を殆ど含んでいない。このため種牡馬入りしたセントサイモンは殆どの繁殖牝馬とインブリードを気にせず配合できるといった血統上の利点を持っていた。
[編集] 血統表
血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照
セントサイモンの血統 (キングファーガス系(エクリプス系)/インブリード:Voltaire4×4=12.5%(父内)) | |||
父
Galopin 1872 鹿毛 |
Vedette 1854 黒鹿毛 |
Voltigeur | Voltaire |
Martha Lynn | |||
Mrs.Ridgway | Birdcatcher | ||
Nan Darrel | |||
Flying Duchess 1853 鹿毛 |
The Flying Dutchman | Bay Middleton | |
Barbell | |||
Merope | Voltaire | ||
Velocidede's Dam | |||
母
St.Angela 1865 鹿毛 |
King Tom 1851 鹿毛 |
Harkaway | Economist |
Fanny Dawson | |||
Pocahontas | Glencoe | ||
Marpessa | |||
Adeline 1851 鹿毛 |
Ion | Cain | |
Margaret | |||
Little Fairy | Hornsea | ||
Lacerta F-No.11-c |
[編集] 競走馬時代
[編集] 2歳時
7月中にはドーソンのヒースハウス(ニューマーケット)へと移り調教を受け始めた。最初の頃はさえない動きしか見せなかったが、徐々に能力の片鱗を見せ始め、7月31日にグッドウッド競馬場のハイネイカーステークスでデビューすると、フランスの実績馬リシェリューを6馬身差で下し初戦を楽に逃げ切った。登録後に勝利したため翌日の未勝利戦では60.3kgのハンデをペナルティとして課せられるが、危なげなく勝った。続くデヴォンシャーナーサリーステークス、プリンスオブウェールズナーサリーステークスも楽勝し、この時翌年2000ギニーで2着になるセントメダルを下している。さらに、当時セントサイモンと同じ厩舎にいたビジイボディ(翌年の二冠牝馬、同年の2歳チャンピオン)、ハーヴェスター(翌年のエプソムダービー勝ち馬)と走らせてみたところセントサイモンはこれらを全く相手にしなかった。
10月には出走できるレースがないのでセントサイモンと同期で既にリッチモンドステークス等に勝ち頭角を現していたデュークオブリッチモンドとの500ギニーを賭けたマッチレースが行われた。この時にデュークオブリッチモンドを管理していた調教師ジョン・ポーターは、セントサイモンの様な血統も悪く実績も無い馬と対等に扱われたことが気に入らなかったらしく、「スタートしたらすぐに飛び出して、あの乞食野郎の喉を掻き切ってしまえ!」と言い、さらにドーソンも「奴らにその台詞をそのままお返ししてやれ」と怒鳴った。レースはセントサイモンの一方的な展開になり、スタート後瞬く間に差を広げると2ハロン(約400 m)通過時点で20馬身(約50 m)もの差をつけた。主戦騎手を務めるフレッド・アーチャーはその時点で手綱を引き、対戦相手に実力差を見せつける様にデュークオブリッチモンドが追いつくのを待ってから正確に3/4馬身差を保ちつつゴールした。レース後にドーソンは「セントサイモンは私が調教した最強の2歳馬だ、おそらく史上最高の競走馬になるだろう」とコメントしている。
[編集] 3歳時
翌3歳になると、クラシックには出走できなかったためセントサイモンは古馬に挑んでいる。まず、当時イギリスで大レースを勝ちまくり、最強とされていたトリスタンとのマッチレース(無賞金の非公式戦、ペースメーカーが各1頭)が組まれ、これを易々と下した。 次に出走したアスコットゴールドカップ(Ascot Gold Cup、芝20ハロン)はこの時代イギリスで権威の高い競走であったが、セントサイモンは破天荒なレースぶりで圧勝している。この時は体重調整がうまくいかなかったためアーチャーは乗れず、代わりにアーチャーには及ばないものの、この年のエプソムダービーでハーヴェスターを勝利に導いた名手チャールズ・ウッドが騎乗していた。スタート直後は後方を進んでいたものの、残り6ハロンで手綱を緩めるとよほどストレスがたまっていたのか制御が不可能になり、全馬一気に抜き去るとそのまま前年の勝ち馬トリスタンに20馬身の大差をつけて勝利した。さらに、セントサイモンはゴール後も騎手の制止命令を振り切り暴走を初め、1マイルも疾走し続けた。
また、アスコットゴールドカップに次いで当時権威のあったグッドウッドカップ(Goodwood Cup、芝20ハロン)でも、前年のセントレジャーステークス馬オシアンを相手に20馬身差で勝利している。このレースを最後に引退、奇しくもデビュー戦と同じ7月31日であり、僅か1年の現役生活に終止符を打った。
なお、産駒がデビューする前の1887年に行われた競馬関係者100人のアンケート(複数投票)による「19世紀の名馬 TOP10」(Sporting Times)ではクラシックへの出走がなかったにもかかわらず53票を獲得し、グラディアトゥール、ウェストオーストラリアン、アイソノミーに次ぐ第4位にランクされた。
[編集] 競走成績
年月日 | 競馬場 | レース名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着馬/(2着馬) |
1883年7月31日 | グッドウッド | ハルネイカーステークス | 1着 | F.アーチャー | 芝5f | 6馬身 | (リシェリュー) |
8月1日 | グッドウッド | メイドン | 1着 | F.アーチャー | 芝5f | 1馬身 | (バルフェコルト) |
9月1日 | エプソム | デヴォンシャーナーサリープレートハンデ | 1着 | F.アーチャー | 芝5f | 2馬身 | (トリオンフィ) |
9月14日 | ドンカスター | プリンスオブウェールズナーサリープレート | 1着 | F.アーチャー | 芝7f | 8馬身 | (イアンビク) |
10月24日 | ニューマーケット | マッチレース | 1着 | F.アーチャー | 芝6f | 3/4馬身 | (デュークオブリッチモンド) |
1884年5月15日 | ニューマーケット | 非公式トライアルマッチ | 1着 | C.ウッド | 芝12f | 6馬身 | (トリスタン) |
5月30日 | エプソム | エプソムゴールドカップ | 1着 | F.アーチャー | 芝12f | 単走 | |
6月12日 | アスコット | アスコットゴールドカップ | 1着 | C.ウッド | 芝20f | 20馬身 | (トリスタン) |
6月26日 | ニューカッスル &ゴスフォース |
ニューカッスル&ゴスフォースゴールドカップ | 1着 | C.ウッド | 芝12f | 不明 | (キャッスルハースト) |
7月31日 | グッドウッド | グッドウッドカップ | 1着 | C.ウッド | 芝20f | 20馬身 | (オシアン) |
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- メイドン - 未勝利戦。60.3kgの酷量、2頭立て。
- 非公式トライアルマッチ - 非公式な競走だがレーシングカレンダーに記載されている。
[編集] 引退後
引退後は1年の休養をはさんで1886年から種牡馬生活を開始した。急に環境を変えないよう配慮されたため、まずはニューマーケットにあるドーソンのヒースファームで供用され、翌年からはポートランド公のウェルベックアベースタッドに移った。
その後は毎日元気に運動をこなし、種牡馬としての仕事もこなしていたが、1908年4月2日彼の朝の運動のすぐ後に、心臓発作で倒れ死亡した。27歳であった。
骨格はロンドン自然史博物館、蹄はジョッキークラブとヨーク競馬博物館にひと組ずつ展示されている。墓標はウェルベックアベースタッドにある。
その他、イギリスのニューベリー競馬場では、秋にセントサイモンを記念するセントサイモンステークス(芝12f5y)が行われている。
[編集] 種牡馬成績
種牡馬となったセントサイモンは初め50ギニーの種付け料で供用され、翌年100ギニーに引き上げられた。初年度の産駒が2歳になった1889年に種牡馬ランキング3位につけると、翌年はメモワール、セモリナの2頭がクラシック競走を制し、2世代のみでリーディングサイアーの座に着いた。1892年にはラフレッシュが牝馬三冠を制覇し、その後もパーシモン、セントフラスキン等の活躍により7年連続リーディングを維持した。1897-1899年の3年間は2位(1位ケンダル)、5位(1位ガロピン)、3位(1位オーム)と低迷するも、1900年と1901年には再びリーディングを奪取した。この間種付け料も徐々に上がり、1899年に500ギニー、1901年には600ギニーすら付けた。ポートランド公がセントサイモンから得た収入は24万ポンドを超えたとされている。
1901年の種付け料600ギニーは前年の活躍による。この年は勝利数こそ27勝と低調に終わったが、史上唯一の五大クラシック全勝、その他の主要3歳戦であるプリンスオブウェールズステークス、ニューマーケットステークス、コロネーションステークスをも勝利し、ダービーの2着もセントサイモン産駒だった。加えて古馬の高賞金レースエクリプスステークスまでも獲得し、この年の産駒獲得賞金総額は58,625ポンドに達した。
産駒には、能力の高さ(ステークス優勝馬:25%)に加え、気性難も伝えた。ダイヤモンドジュビリーは三冠を制した名馬だったが、世話をする者の手をかみちぎる等手に負えず、騎乗できる者は限られていた。また、セントサイモンは鹿毛遺伝子をホモ(EE, AA)で持っていたようで、産駒は1頭の芦毛馬(ポステュマス)を除いて全て鹿毛か黒鹿毛であった。なおセントサイモンの父ガロピンもホモ鹿毛で、気性難、多汗癖を持っていた事で知られている。
以下はセントサイモンが残した主な記録である。
- 1890-1896,1900-1901年の計9回イギリスチャンピオンサイアー。歴代4位
- 1903-1907,1916年の計6回イギリスチャンピオンブルードメアサイアー。歴代1位
- 産駒イギリスチャンピオンサイアー頭数 3頭 歴代1位
- 産駒数/種付け数 423/775頭
- ステークス優勝馬 107頭(25%)
- 総勝利数571勝
- イギリスクラシック勝利数 17勝 歴代1位
- 総獲得賞金553,158ポンド 当時歴代1位
- 最高年間獲得賞金 58,625ポンド(1900年) 当時歴代2位
- イギリス種牡馬成績の順位
1889 | 1890 | 1891 | 1892 | 1893 | 1894 | 1895 | 1896 | 1897 | 1898 | 1899 | 1900 | 1901 | 1902 | 1903 | 1904 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
3位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 2位 | 5位 | 3位 | 1位 | 1位 | 2位 | 3位 | 3位 |
[編集] 直系子孫の急激な拡大
セントサイモンの種牡馬成績は20歳に達した1901年頃を境に下降線を辿り始める、1902年には息子パーシモンがセプター等の活躍によりリーディングサイアーになるとセントサイモンは2位に落ち、二度とリーディングを取ることはなかった。しかしセントサイモンに代わって産駒が種牡馬として活躍する様になり、パーシモンの他にもセントフラスキン、デスモンド等数多の後継種牡馬が登場した。イギリスでは1888年 - 1913年の26年間にガロピン系だけで19回種牡馬リーディング1位を取っている。1901年にはガロピンとセントサイモンの直系子孫で4勝、1902年にも直孫で独占し、1912年の種牡馬リーディングでは首位パーシモンを筆頭としてデスモンド、セントフラスキン、チョーサー、ウィリアムザサードの5頭が7位までにひしめいた。この頃イギリス国内で行われる重賞勝ち馬の半分までをセントサイモン系が占めるまでになったという。「セントサイモン系でなければサラブレッドではない」という言葉も使われるようになった。
[編集] セントサイモンの悲劇
しかし、あまりに繁栄しすぎたため逆に急速に衰退してしまう、これは「セントサイモンの悲劇」と呼ばれている。1914年のエプソムダービー優勝馬ダーバー(フランス産)を最後に牡馬のクラシックホースは出なくなり、1930年頃にはイギリス国内でセントサイモン系、さらにはそのあおりを受けた父ガロピンの父系自体がほぼ消滅した。同時期、イギリス領であったオセアニア・南アフリカや、ヨーロッパ各国・南アメリカ等にもセントサイモン系は広がっており、イタリアで11度首位種牡馬になったアウルザック等を初めとして多くの産駒、孫がその国で独自にセントサイモンと同じような現象を起こしていたが、一部を残して本国のセントサイモン系と同じ道を辿った。
[編集] 原因
セントサイモンの悲劇が起こったのは当時イギリスのサラブレッド生産頭数は3000頭程度と少なく、外国から繁殖馬を輸入するといったこともめったに行われなかったためだと言われている。セントサイモンが大成功すると、膨大な数のセントサイモンの子・孫が種牡馬となった。これらによってセントサイモン系のサラブレッドが激増したが、それらの半数は牝馬であるため次の世代ではセントサイモン系の繁殖牝馬が増加する。また、セントサイモンやパーシモンの血を受けた牝馬は、それらが良血であることが多く、高確率で繁殖牝馬となる。これらの効果によりセントサイモンの血を持つ繁殖牝馬が激増し、1920年代末にはセントサイモン及びその父ガロピンの血を受けた馬が全体の80%以上に達した。
当時既に強い近親交配が避けられる方向に向かっていたためこのような繁殖牝馬にはセントサイモン系種牡馬がつけられず単純にセントサイモン系種牡馬の活躍の場が減っていった(一部ではセントサイモン系繁殖牝馬にセントサイモン系種牡馬を交配することも行われたが、ほとんど成功できなかった)。このため相当数のセントサイモン系種牡馬が英国外に輸出された。一方、大量にいたセントサイモン系牝馬に種付けすることができたベンドアや、バヤルド、アイソノミー等のセントサイモンとは無縁の系統に属する種牡馬が成功することで、残ったセントサイモン系種牡馬も圧迫され、結果として衰退、滅亡に至ったのである。このような現象を起こした種牡馬はハイフライヤーやストックウェル、テディ、そして後世のノーザンダンサー等が居るが、セントサイモンの悲劇はこの中でも最もよく知られている。
[編集] その後のセントサイモン系
セントサイモンの悲劇はセントサイモン系を大きく衰退させたが、全て滅び去ったわけではなかった。一部はフランスやイタリア、ベルギー等で存続しており、1938年にはフランス生まれのボワルセルがセントサイモン系として25年ぶりにエプソムダービーに勝ち、1946年にはフランスでプリンスローズがリーディングサイアーを獲得、1955,56年にはイタリアのリボーが凱旋門賞を連覇した。これにフロリゼル→マシーン系を加えた4系統が1960,70年代に勢力を再び増していくが、2006年現在ノーザンダンサー系やミスタープロスペクター系の勢力拡大の影響もあり一時期程の勢いはなくなっている(これらについてはセントサイモン系及びリボー系を参照されたい)。
[編集] サラブレッドへの影響
セントサイモンが後世のサラブレッドへ与えた影響は極めて大きい。現生するサラブレッドのほぼ全てはセントサイモンの血量を9-13%程度持つが、これは19世紀以降の種牡馬としては最大級であり、三大始祖にも匹敵する程である。サラブレッドの遺伝子プールの内10%程度はセントサイモン経由の遺伝子が占めているのではないかとも考えられている。
セントサイモンの血の広がり方を地域別に追って説明する。ヨーロッパではセントサイモン(イギリス)、パーシモン(イギリス)、セントフラスキン(イギリス)、ラブレー(フランス)、サイモニアン(フランス)、アードパトリック(ドイツ)、ヌアージュ(ドイツ)、アヴルザック(イタリア)等々セントサイモン系の大種牡馬が続出したこと、及びセントサイモンを母の父に持つロックサンドやジョンオゴーント、シニョリネッタ等が登場したことでセントサイモンの血が広く浸透した。実際に1922年を最後にセントサイモンの値を持たないエプソムダービー馬は出ていない。その後「セントサイモンの悲劇」の影響で一時的に影響力は低下するも、1920年以降チョーサーがファラリスとゲインズバラとの強力なニックスを武器に母の父として極めて大きな役割を持った事、ハイペリオン(セントサイモン血量18.75%)、ネアルコ(同19.53%)、イギリスにおいて最初にセントサイモン系勢力を回復させセントサイモン系中興の祖と言われたボワルセル(同21.09%)等、セントサイモンの強いインブリードを持つ大種牡馬が相次いで登場したことでその後は再び高いレベルで推移していった。
日本には1901年に牝馬サンダー(英名Sanderling)が持ち込まれたのが最初であり、その産駒第一サンダーの牝系子孫には障害の最多連勝記録を持つキングスピード等が出て子孫は今も残存している。輸入された産駒は他にもいるが馬匹改良を主目的としていたため大きな成功を見せることはできなかった。しかし孫世代は華々しい成績を収めており、1908年に小岩井農場が輸入したインタグリオー(チャイルドウィック産駒)と、1909年に奥羽種畜牧場によって輸入されたダイヤモンドウェッディング(ダイヤモンドジュビリー産駒)は共にセントサイモンの孫にあたり種牡馬としても初期の日本の馬産に大きく貢献した。イングリオーと同時に輸入された繁殖牝馬群小岩井農場の基礎輸入牝馬の内数頭もセントサイモンの血を色濃く受けている。その後もヨーロッパから輸入された馬を通じ浸透していった。なお、東京優駿勝ち馬は現在に至るまで全てセントサイモンの血を受けている。
その他競馬が行われていた地域にはほぼ例外なくセントサイモンの子や孫が導入され成功を見ている。当時イギリスの統治下にあった現オーストラリア、現南アフリカ共和国にもイギリスから直接セントサイモン産駒が持ち込まれている。また、馬産が盛んであったアルゼンチンにも三冠馬ダイヤモンドジュビリー、ジョッキークラブステークス馬ピーターマリッツバーグ等の一流産駒が導入され実際に現地でリーディングサイアー級の活躍を見せた。
一方、アメリカ合衆国は当初他の地域と比べセントサイモンの血が浸透するのが遅かった。もっともマンノウォーやゼヴ等の血統表中には存在しており、1924年を最後にセントサイモンの血を全く受けないケンタッキーダービー馬は出現しなくなったが、全体としては長らく低く抑えられていた。これは、20世紀初頭の禁酒法時代の影響でサラブレッドが大量に余っていたため、そもそも輸入された馬がサンドリンガム等少数に限られていたのが主な原因である。その後アメリカにはヨーロッパ血統が導入され、逆にヨーロッパにはアメリカ血統が導入され格差はかなり小さくなっている。
その他馬術競技用の馬においてもセントサイモンの名は見つけられる。20世紀初頭イギリスからフランスへ流出したセントサイモン系の一部はセントサイモンの悲劇が進行する中アングロノルマンやアングロアラブへと転化し、さらにこれらがセルフランセの形成に影響を与えた。1990年代馬術競技でトップクラスの活躍をしたセルフランセ100頭の内、26頭の父系祖先はセントフラスキンの後裔オレンジピール(1919年生、自身はサラブレッド)である。
[編集] 代表産駒(数頭は別項で説明)
パーシモン - エドワード7世の持ち馬。英二冠、ジョッキークラブステークス、アスコットゴールドカップを制した。代表産駒に四冠馬セプター等。イギリスチャンピオンサイアーになったのは4度で種牡馬としても産駒中最も成功した。
- →詳細はパーシモン参照。
ダイヤモンドジュビリー - パーシモンの弟で同じくエドワード7世の持ち馬。1900年に三冠を制す。
- →詳細はダイヤモンドジュビリー 参照。
ラフレッシュ - ヴィクトリア女王の生産馬。1892年の牝馬三冠、翌々年のアスコットゴールドカップ等大レースを多数制した歴史的名牝。
- →詳細はラフレッシュ参照。
チョーサー - 競走馬としてはそれほどでもなかったが、母の父としての成功は史上屈指。
- →詳細はチョーサー参照。
ラブレー - 競走馬としてはそれほどでもなかったが、セントサイモン系を現在へと繋げた。
- →詳細はラブレー参照。
セントフラスキン
- (St.Frusquin、1893年 - 1914年8月25日) 母イサベル。
- 生涯成績11戦9勝。主な勝ち鞍:2000ギニー、プリンスオヴウェールズステークス、エクリプスステークス、ミドルパークステークス
クラシックは2000ギニーしか獲得できなかったが、実力はセントサイモン産駒の中でも屈指とされ、同世代のライバルパーシモンにはエプソムダービーでは負けたが通算では勝ち越している。セントレジャーステークスを前に故障で種牡馬入りし、1903,07年のチャンピオンサイアー 1924年のチャンピオンブルードメアサイアーを獲得するなど成功した。代表産駒は2000ギニー、エプソムダービーのセントアマント、ほか5頭のクラシック勝ち馬を送り出した。イギリス以外で繁殖場として成功したものも目立ち、日本にもフラストレートが輸入された。他英三冠馬ゲインズバラの母の父としても知られている。しかし父方直系子孫はセントサイモンの悲劇を乗り越えられずサラブレッドとしては衰退。20世紀中頃には南米に残るのみになったがそれも現在では滅び、セルフランセの主流父系としてのみ存続している。セントフラスキン自身は21歳のとき生殖能力喪失により安楽死された。
フロリゼル
- (Florizel II、ダイオメドの父とは同名異馬、1891年 - ?) 母パーディタ。
- 生涯成績22戦11勝。主な勝ち鞍:グッドウッドカップ
パーシモン、ダイヤモンドジュビリーの兄に当たり、エドワード7世の初期の活躍場になった。種牡馬入りしてからはセントレジャーステークスに勝ったドリクレス、ロシアダービーに勝ったフロリアル(この2頭はロシアで父系を伸ばした)、ヴォロデョフフスキー(エプソムダービー)、ホリゾント(独セントレジャー)、ロイヤルアーチ(アイリッシュダービー)等国際色豊かな産駒を送り出した。他日本輸入されたフロリースカップ、エプソムダービーにて婦人参政権論者エミリー・デビスンに激突されたアンマーも本馬の産駒である。
デスモンド
- (Desmond、1896年 - ?) 母ラベスデジェアール。
- 生涯成績11戦3勝。主な勝ち鞍:ジュライステークス、コヴェントリーステークス
母はオークス馬という良血であったが現役時代は3勝のみ。種牡馬入り後はアブユール(エプソムダービー)、ザホワイトナイト(アスコットゴールドカップ2回、コロネーションカップ)、クラガノール(エプソムダービー1位入線失格、2000ギニー1位入線2着降着)等の産駒を送り出し1913年チャンピオンサイアーとなった。直系子孫はセントサイモンの悲劇に巻き込まれ現在残っていない。
ウィリアムザサード
- (William the Third、1898年 - 1917年2月2日) 母グラヴィティ。
- 生涯成績14戦10勝。獲得賞金13,578ポンド。主な勝ち鞍:アスコットゴールドカップ、ドンカスターカップ
エプソムダービーはヴォロデョフフスキーの2着に敗れたが、アスコットゴールドカップではそのヴォロデョフフスキーを5馬身差突き放し、クイーンアレクサンドラプレート、ドンカスターカップも圧勝した当時の一流ステイヤーであった。種牡馬入り後は1911,14年にサイアーランキングで2位につけた。代表産駒はアスコットゴールドカップとジョッキークラブカップに勝ったWillonyx。だが、直系子孫はセントサイモンの悲劇に巻き込まれ、孫に南半球で活躍した馬が数頭いる程度で早い段階で消滅した。1922年チャンピオンブルードメアサイアー。
メモワール
ラフレッシュの姉で同じくヴィクトリア女王の生産馬。オークス、セントレジャーステークスの二冠に加え、ニューマーケットオークス、ニューマーケットステークス、ナッソーステークスも制し、1000ギニー、プリンスオブウェールズステークス、チャンピオンステークスでも2着に入った。本馬はセントサイモンの初年度の産駒にあたり父の成功を決定づけた一頭ということになる。産駒にはジュライステークスに勝ったカイロ、繁殖牝馬として成功するミスガニング等。没後はウェルベックスアベータッドに埋葬された。
[編集] 主要産駒一覧
- 国名を明記していないレース、記録については全てイギリスでのもの
1887年産
- セントサーフ(St.Serf)
- メモワール(Memoir) オークス セントレジャーステークス、ジュライカップ
- セモリナ(Semolina) 1000ギニー
- シニョリーナ(Signorina) ミドルパークステークス、オークス3着 シニョリネッタ(ダービー、オークスダブル制覇)、シニョリーノ(2000ギニー2着)の母
1888年産
- サイモニアン(Simonian) 1910,12年フランスチャンピオンサイアー
1889年産
- ラフレッシュ(La Fleche) 牝馬三冠、アスコットゴールドカップ、チャンピオンステークス、ケンブリッジシャーハンデキャップ、2着 - エプソムダービー
- セントダミアン(St Damien) ハードウィックステークス
1890年産
- ミセスバターウィック(Mrs Butterwick) オークス ファレーロン(ジョッキークラブステークス)の母
- スールト(Soult) 1908-12年ニュージーランドチャンピオンサイアー
- ビルオブポートランド(Bill of Portland) オーストラリアチャンピオンサイアー
- チャイルドウィック(Childwick) チャンピオンステークス
1891年産
- エミアブル(Amiable) 1000ギニー オークス
- サンダー(Sanderling) 日本輸入
- マッチボックス(Matchbox) 2着 - エプソムダービー
- セントフローリアン(St.Florian)
- フロリゼル(Florizel) グッドウッドカップ アニリンの父系祖先 パーシモンの全兄
1893年産
- セントフラスキン(St.Frusquin) 2000ギニー、エクリプスステークス、ミドルパークステークス、2着 - エプソムダービー 1903,07年チャンピオンサイアー 1924年チャンピオンブルードメアサイアー
- パーシモン(Persimmon) エプソムダービー セントレジャーステークス ジョッキークラブステークス、アスコットゴールドカップ、エクリプスステークス、1902,1906,1908,1912チャンピオンサイアー 1914,15,19年チャンピオンブルードメアサイアー
1895年産
- カラー(Collar) ハードウィックステークス
1896年産
- デスモンド(Desmond) 1913年チャンピオンサイアー
- ボニファス(Boniface) ハードウィックステークス
- マナー(Manners) プリンスオブウェールズステークス
1897年産
- ダイヤモンドジュビリー(Diamond Jubilee) クラシック三冠、エクリプスステークス 1914-16,21年アルゼンチンチャンピオンサイアー
- ラロッチェ(La Roche) オークス
- ウイニフレッダ(Winifreda) 1000ギニー
- サイモンデイル(Simon Dale) プリンスオブウェールズステークス、2着 - エプソムダービー
1898年産
- ピーターマリッツバーグ(Pietermaritzburg) ジョッキークラブステークス、1911年アルゼンチンチャンピオンサイアー
- ウィリアムザサード(William the Third) アスコットゴールドカップ、ドンカスターカップ、クイーンアレクサンドラプレート、2着 - エプソムダービー 1911,14年サイアーランキング2位 1922年チャンピオンブルードメアサイアー
- サンタブリッジ(Santa Brigida) ヨークシャーオークス ブリッジオブキャニー(ジョッキークラブステークス)、ブリッジオヴアーンの母
1899年産
- セントウィンデライン(St.Winderline) 1000ギニーでセプターの2着 ウールウィンダー(セントレジャーステークス)の母
1900年産
- ヂプロマット(Diplomat) 日本輸入
- ソルトピーター(Saltpetre) グッドウッドカップ
- チョーサー(Chaucer) ハイペリオン等の母の父 シンザンの父系祖先 1916年サイアーランキング2位 1927,33年チャンピオンブルードメアサイアー
- ラブレー(Rabelais) グッドウッドカップ 1909,19,26年フランスチャンピオンサイアー リボーの父系祖先
1901年産
- ダーレイデイル(Darley Dale) エクリプスステークス
- サンドニ(St. Denis) プリンスオブウェールズステークス
1902年産
- プラムセンター(Plum Centre) プリンスオブウェールズステークス
1905年産
- シベリア(Siberia) ジョッキークラブステークス
- プライマー(primer) ハードウィックステークス、2着 - エプソムダービー
1907年産
- グレイシア(Glacier) トボガン(オークス、ジョッキークラブステークス)、シルリアン、ブルーアイスの母
[編集] 特徴
[編集] 馬体
体高は16.1ハンド(約164 cm)、又は16ハンド(約163 cm)とされ、どちらにしても大型馬の部類に入る。凹型の背形を持ち、肩の高さよりも尻の高さの方が高く、また、体長が体高よりも7cm程短い胴が詰まった体格をしていたため実際よりも小さく見えたとも言われている。馬体そのものの評価は、2歳時のセリでは見栄えがしなかったため低い価格で取引されている一方、1916年に出版された雑誌のレビューによれば短い背中、強大な肩、引き締まった脚、堅く良い骨、強靱な四肢、筋肉質ながら柔軟な馬体の持ち主であると高く評価されている。これらの特徴は父ガロピンから受け継いだもので、後の子孫にも強く受け継がれた。
[編集] 性格・気性
セントサイモンは極めて気性が悪く扱いづらい馬であった。特に何かを強制させようとするとそれが顕著に表われ極めて攻撃的になった。アスコットゴールドカップでの暴走もこれが原因とされている。厩務員であったチャールズ・フォーラムは常に攻撃され続け命の危険を感じたため、ゴドルフィンアラビアンやキンチェム、曾祖父のヴォルティジュールが猫等と仲良くなることで気性が落ち着いたという話を聞きつけるや気性の改善を図る為に猫を馬房に放してみた。しかし、即座に猫は口にくわえられ叩き殺されてしまった。短気からか常に発汗していた事も知られている。他にも夏に引退し次の繁殖シーズンまで1年近くあったにもかかわらず、気性を落ち着けるためにさらに1年間種牡馬入りを遅らせる等数々の努力が試みられたが、この気性の悪さは生涯直らなかった。なぜか蝙蝠傘だけは恐がり、そのため暴れて対処しようがなくなった時は、杖に帽子を被せて蝙蝠傘に模しセントサイモンを大人しくさせた。
[編集] その他のエピソード
一度も全力でレースをした事が無いとされるセントサイモンだが、アーチャーによれば調教で一度だけ全力疾走をしたことがあるという。3歳時の調教の際、アーチャーが調子が悪いと感じ拍車をかけると、突然暴走を始めた。ポートランド公の手記には以下のように書かれている「我々は見た、セントサイモンが厩舎の馬の前を全力で駆けていくのを、そして別の調教師の馬の前を、まるで狐の前の鳩のように視界から消えていった。」
その後町はずれまで走ったところで、ようやくアーチャーはセントサイモンを止めることができた。その際「私は生きている限り二度と拍車は使わない。これは馬ではなく煮えたぎる蒸気機関車のようだ。」と語った。また、 アーチャーは29歳で自殺するまでにイギリスクラシックを21勝した名騎手であり、セントサイモンの後に16戦不敗の三冠馬オーモンドにも騎乗し大レースを制覇しているが、オーモンドとセントサイモンどちらが上かと聞かれた際に迷うことなく「もちろんセントサイモンが上だ」と答えた。
セントサイモンの疾走はドッグレースに使われる犬「グレイハウンド」の走り方にそっくりだったという話も残っている。また、ドーソン調教師はセントサイモンに常に電気的なものを感じていたという。この他にもドーソンは「私は生涯、真に偉大な馬といえるものをたった1頭だけ調教できた、それがセントサイモンだ。」「もっと強調すべき点は、わずか1ハロンの距離でも、セントサイモンは3マイル(24ハロン)を走る時と全く同じ調子で疾走した。この馬には距離の長短はいささかの問題にもならなかった……」(『世界の名馬』(原田俊治著)より引用)と後に語っている。
なお、この馬に因んだ蒸気機関車がある(LNER Class A1/A3の1両)。
[編集] 主な対戦馬、及び関連性の高い馬
- フルメン - ポートランド公がセントサイモンを購入するきっかけを作った馬。セントサイモンと同じガロピン産駒で、バッチャーニ公死亡の際には同じセリに出され5000ギニーという極めて高い値段が付いた。競走馬としては期待に応えられなかったが後ドイツで種牡馬として成功する。ドイツチャンピオンサイアー3回。
- ハーヴェスター - セントサイモンと同期のエプソムダービー勝ち馬。ダービーはサンガシアンと史上唯一の同着。一時マシュー・ドーソンの元で調教を受けていた。2歳時のトライアルレースではセントサイモン相手に大敗。のちハンガリーで種牡馬となる。
- ビジボディ - セントサイモンと同期の二冠牝馬(1000ギニー、オークス)。ミドルパークステークスにも勝ち2歳チャンピオンにもなっている。一時マシュー・ドーソンの元で調教を受けていた。2歳時のトライアルレースではセントサイモン相手に大敗。
- デュークオブリッチモンド - セントサイモンと同期。リッチモンドステークス等。ウェストミンスター公の持ち馬で2歳時にセントサイモンとマッチレースを行う。結果屈辱的な敗戦にウエストミンスター公は失望し、去勢されてしまった。
- トリスタン - 3世代上の一流馬。1883年のアスコットゴールドカップ、ドーヴィル大賞典3連覇等29勝。セントサイモン相手に2度大敗するも同年のチャンピオンステークスとハードウィックスステークスは3連覇を果たしている。産駒にチョーサーの母カンタベリーピルグリム等。後フランス、ハンガリーで種牡馬となる。
- オシアン - 1883年のセントレジャーステークス、サセックスステークス、グレートヨークシャーステークス等。グッドウッドカップでセントサイモンに大敗。
- アンジェリカ - セントサイモンの姉で兄弟唯一の著名馬。競走馬としては未出走だったがオーモンドとの間に残したオームが種牡馬として成功し、グランデールとの間に残したディングルは牝系を伸ばした。スターロツチ一族の母系祖先に当る。
[編集] 関連項目
- セントサイモン系(本馬の父系子孫の総称)
[編集] 参考文献
- 山野浩一『伝説の名馬 (Part2)』中央競馬ピーアール・センター、1994年 ISBN 4924426415
- 原田俊治『世界の名馬 セントサイモンからケルソまで』 サラブレッド血統センター、1970年 ISBN 4879000310
- 石川ワタル『世界名馬ファイル』KOEI、1997年 ISBN 487719293X
- St. Simon(Thoroughbred Heritage)
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