マルゼンスキー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1974年5月19日 |
死没 | 1997年8月21日 |
父 | ニジンスキー |
母 | シル |
生産 | 橋本牧場 |
生国 | 日本(北海道早来町) |
馬主 | 橋本善吉 |
調教師 | 本郷重彦(東京) |
競走成績 | 8戦8勝 |
獲得賞金 | 7660万1000円 |
マルゼンスキー(1974年 - 1997年)は、日本の元競走馬及び種牡馬である。ずば抜けた能力等から「超特急」や持込馬と言う事から「スーパーカー」との愛称で競馬ファンから呼ばれた。
※年齢は当馬の現役時代に合わせ旧表記(数え年)にて記載
目次 |
[編集] 出自
母シルはイギリスクラシック三冠馬ニジンスキーの子供を腹に宿した状態で、アメリカのキーンランドセールで購入され、輸入された。そして日本で生まれたのがマルゼンスキーである。所謂持込馬であった。
生産者はマルゼン橋本牧場の橋本善吉で、馬主でもある。元オリンピック代表で参議院議員の橋本聖子はその娘。橋本善吉は『牛の橋本』として海外でも知れ渡る程の牛の仲買商であるが、幼少時から馬の生産を夢見ていた事もあり、海外まで牛を買いに行った際に馬を購入して来る事がままあった。その代表的な成功例がマルゼンスキーの母親であるシルと、ばんえい競馬の名種牡馬マルゼンストロングホース(ベルジャン種)とされる。
因みに、シル購入の経緯であるが、『キャンセル料が馬鹿にならない海外研修旅行の欠員穴埋めの為に、直ぐに参加出来る橋本が呼ばれた(当時は為替レートの関係から行楽目的の海外渡航は稀で、パスポートを所有しているのは海外と取引のあるビジネスマン位だった)』のが切っ掛けである。其の為、研修の内容は目的地への移動の最中で知ったと言うドタバタ状態での参加であった。この様な状況下で参加した研修旅行で、後にマルゼンスキーを預ける事になる本郷重彦調教師と運命的出会いをする。あっという間に意気投合した二人は、共にキーンランドセールを見学。其処で偶然目に止まった一見大した馬には見えないシルを牛仲買で培ったカンで購入を決意。大金を注ぎ込んだが、見事橋本はシルの競り落としに成功したのである。この一件は牛の仲買商仲間にも知れ渡り、仲間内では『牛の橋本、馬の競売で発狂』と言わしめた程の暴挙と受け取られた。
社台ファーム総帥の吉田善哉は「シルを競り落とせなかった」ことを後悔したと言う。吉田もシルの競りに参加していたが値段が予想より上がった為に早々と降りていた。その後、吉田は個人的興味から橋本牧場へマルゼンスキーを見に行き(本人もプライドが有ったのか『庭の見学』と言っての訪問)、外向である事を差し引いても素晴らしい馬体であった事で更に後悔したと言われている。
[編集] 現役時代
[編集] 快進撃
1976年に購入時の縁から東京競馬場の本郷重彦厩舎に入厩。買い手がつかず橋本自身が馬主となる原因となった外向を抱えていた上、本郷は購入の経緯を知っている事もあり、故障発症を考え思う様な調教が出来ず六分程度の仕上がりで緒戦を迎えた。だが、その不安はあっさりと消し飛んだ。何とデビュー戦を母・タイプキャストの持込馬・タイプアイバー(プリテイキャストの半兄)等を相手に大差勝ちしたのである。続くいちょう特別も完璧とは程遠い仕上がりで9馬身差圧勝。しかし、3戦目の府中3歳ステークスは将来を考え抑える競馬を試みたがよもやの裏目、一瞬前に出たヒシスピードを辛くも差し返し3連勝を飾ったものの唯一のハナ差という屈辱的苦戦を味わう。そして大一番の朝日杯3歳ステークスは、前走の鬱憤を晴らすべく生涯唯一の100%の仕上げで出走。レースはほぼ馬なりで1600mを1分34秒4というタイムで走破し、着差は2着ヒシスピード鞍上の小島太に『バケモノだ』と言わしめた程の13馬身差の圧勝(いわゆる大差勝ち)の上に、本気で追っていたら後2秒は早いタイム(現レコードが33秒台な事を考えると驚異的予想タイム)を出せたと言わしめる程の内容であった。この2歳レコードタイムは、14年後の1990年にリンドシェーバー(外国産馬)に破られるまで君臨した。
明けて1977年、4歳の初戦も2馬身半差をつけて勝利した。その後は骨にヒビが入り、休養を余儀なくされるも、その休み明け初戦も7馬身差。余りの強さに他の調教師が恐れをなして(大差を付けられタイムオーバーを食らうと暫く出走出来なくなる為)か、マルゼンスキーの出走予定レースは登録が少なく、常に成立が危ぶまれていた程である(レース成立の為に、調教師仲間に『タイムオーバーにはしない』事を条件に出走を頼み込んだ事もあった)。
[編集] 持込馬としての不運
しかし、持込馬であるマルゼンスキーには当時の外国産馬と同様に東京優駿(日本ダービー)を初めとするクラシックへの出走資格がなかったのである。これ以前には持込馬の出走が認められており、また、1984年に再びこの規制は解除されたのだが、ちょうどこの馬の時代(1971年の活馬輸入自由化以降)には内国産馬の保護政策による規制が行われていた。なお、規制解除後、1992年桜花賞のニシノフラワーが、持込馬によるクラシック制覇を達成しているが、過去には1957年ヒカルメイジが東京優駿(日本ダービー)に、1970年にはジュピックが優駿牝馬に優勝するなど、持込馬のクラシックホースが存在していた。
東京優駿(日本ダービー)の前、主戦騎手の中野渡清一(現・調教師)は、「28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか貰わなくていい。他の馬の邪魔をしない(外ラチ沿いに走り続けようと考えていたらしいが、明らかに不利な方法。しかしマルゼンスキーほどの能力ならば、との見方もある)からマルゼンスキーに日本ダービーを走らせてくれ」と語った有名な逸話がある。しかし、東京優駿(日本ダービー)への出走が叶うことはなかった。
他方、マルゼンスキー不在の3歳クラシック路線は、皐月賞を前にして早くも『敗者復活戦』と蔑まれる有様であり、前年のトウショウボーイとテンポイントを中心軸に繰り広げられた激しい東西対決と比較すれば、なおさらに興味を殺がれるものとなった。その様な状況では当然として馬券の売上にも少なからぬ悪影響を及ぼす事となった。この為、マルゼンスキーは後の1988年に地方競馬出身でクラシック登録が無かった為に同様の問題を競馬界に引き起こしたオグリキャップと共に、平成期以降に行われたクラシック競走の制度改善の切っ掛けを作った一頭と言われる。
次に出走したのは日本短波賞で、2着となった後の菊花賞優勝馬プレストウコウに7馬身差をつけて優勝。しかもハロン棒をゴール板と勘違いしてペースを落としたものの、それに気付いて再加速をしたマルゼンスキーは直線だけで7馬身突き放すという驚異的な内容であった。
猛暑を避けるように札幌競馬場へと移動したマルゼンスキーは、札幌競馬場の短距離ステークス(ダート1200m)を1分10秒1のレコードで2着ヒシスピードに10馬身差で優勝。この当時、同じく札幌に来ていた1歳上のトウショウボーイとの対戦が噂されるようになったが、実現はしなかった。
その後は年末の有馬記念を目標に調教されていたが、先天的な脚部の外向を原因とした屈腱炎を発症し、引退に追い込まれる。この年の有馬記念はテンポイントとトウショウボーイのマッチレースとして有名になったレースだが、このレースへの出走は叶わなかった(後年、主戦を務めた中野渡は「出走できていれば、おそらくテンポイントとトウショウボーイの前を走っていただろう」と語っている。トウショウボーイに比べ馬場状態の良否を気にしないマルゼンスキーなら、グリーングラスすらインベタを躊躇った荒れた内埒を最後迄先頭を駆け抜けたとしても不思議では無いだろう)。
その爆発的なスピードと、海外から来たというイメージからスーパーカーと呼ばれたが、逆に自身のスピードと、生まれつき外向していた前脚が負担となり、引退を余儀なくされてしまった。通算8戦8勝で、2着につけた差の合計が61馬身。
同世代のダービー馬であるラッキールーラなどは、マルゼンスキーとの対戦が無かった為に、対戦のあった馬(ヒシスピード・プレストウコウ等)を使った机上の比較から競走馬としての評価を極めて低く貶められる事となった。それが祟って後に種牡馬としては良質な牝馬を集められずに失敗・韓国に渡る原因の一つにもなっている。また、皐月賞馬ハードバージもやはり種牡馬としては成功できずに乗馬となり、最後には観光施設でショーや馬車に用いられる使役馬となり斃死する末路を辿るなどした為、後に競馬マスコミがこの世代を総括する際、他の牡馬たちは『マルゼンスキーの影に泣いた悲運の世代』として語られる事となった。
[編集] 競走成績
年/月/日 | 競馬場 | レース名 | 距離 | 騎手 | 重量 | 着 順 |
人気/ 頭数 |
タイム | 馬 場 |
1着馬(2着馬) | タイム 差 |
1976/10/09 | 中山 | 新馬 | 芝1200 | 中野渡 | 52 | 1 | 1/8 | 1:11.0 | 良 | (オリオンダーダ) | -2.0 |
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10/30 | 中山 | いちょう特別 | 芝1200 | 中野渡 | 52 | 1 | 1/9 | 1:10.5 | 良 | (シヤダイエツセイ) | -1.5 |
11/21 | 東京 | 府中3歳S | 芝1600 | 中野渡 | 54 | 1 | 1/5 | 1:37.9 | 重 | (ヒシスピード) | ハナ |
12/12 | 中山 | 朝日杯3歳S | 芝1600 | 中野渡 | 54 | 1 | 1/6 | R1:34.4 | 良 | (ヒシスピード) | -2.2 |
1977/01/22 | 中京 | オープン | 芝1600 | 中野渡 | 57 | 1 | 1/5 | 1:36.4 | 良 | (ジヨークイツク) | -0.4 |
05/07 | 東京 | オープン | 芝1600 | 中野渡 | 57 | 1 | 1/8 | 1:36.3 | 良 | (ロングイチー) | -1.2 |
06/26 | 中山 | 日本短波賞 | 芝1800 | 中野渡 | 58 | 1 | 1/7 | 1:51.4 | 不 | (プレストウコウ) | -1.1 |
07/24 | 札幌 | 短距離S | ダ1200 | 中野渡 | 54 | 1 | 1/5 | R1:10.1 | 良 | (ヒシスピード) | -1.6 |
[編集] 現役引退後
マルゼンスキーは、種牡馬として、初年度産駒のホリスキーが1982年の菊花賞を、サクラチヨノオーが1988年の東京優駿(日本ダービー)を、レオダーバンが1991年の菊花賞を制して、自身は出走することすらかなわなかったクラシック競走に勝利した。その他にも宝塚記念を勝ったスズカコバン、ダート戦線で活躍したカリブソングらを輩出。しかし、社台自慢の種牡馬・ノーザンテーストが君臨していた事もありリーディングサイアーは取れず、生産者の橋本は「マルゼンスキーがノーザンテーストの交配相手と同じ質の牝馬さえ集められれば」と悔やんでいたという。トウショウボーイとは対照的に牡馬やステイヤーの活躍馬が多かった。また母の父としても、ウイニングチケット、ライスシャワー、スペシャルウィークなどを輩出した。ブルードメアサイアーとして1995年から2003年まで9年連続2位、2004年3位、2005年4位となっている。1990年には顕彰馬に選ばれた。
1997年8月21日に心臓麻痺により死去。後日営まれた葬儀には母シルも参列した。現在、故郷である北海道安平町の橋本牧場に墓がある。
[編集] 代表産駒
- ホリスキー 菊花賞
- サクラトウコウ 七夕賞、新潟3歳ステークス、ネーハイシーザーの父
- サクラチヨノオー 朝日杯3歳ステークス、東京優駿(日本ダービー)
- レオダーバン 菊花賞
- スズカコバン 宝塚記念
- カリブソング フェブラリーハンデキャップ
[編集] ブルードメアサイアーとしての代表産駒
- ライスシャワー(父リアルシャダイ) 菊花賞、天皇賞(春)2回
- ウイニングチケット(父トニービン) 東京優駿(日本ダービー)
- スペシャルウィーク(父サンデーサイレンス) 東京優駿(日本ダービー)、天皇賞(春・秋)、ジャパンカップ
- メジロブライト(父メジロライアン) 天皇賞(春)
- メジロベイリー(父サンデーサイレンス) 朝日杯3歳ステークス ※メジロブライトの半弟
[編集] ライバル
[編集] 競走馬時代
圧倒的な強さを誇り、テンポイント・トウショウボーイ・グリーングラスとは世代が違った事もありライバルは居なかったと思われている(同じ年代なら日本ダービー優勝馬ラッキールーラ等が挙がるが、同期の牝馬に負ける等の体たらくもあり、同世代のクラシック参戦牡馬をライバルと呼ぶ人は殆ど居ない)。しかしながら、ライバルは無敗でアメリカクラシック三冠を達成したシアトルスルーであったと主張する競馬ファンや評論家もいる。根拠としては同じ1974年生まれ、共に2歳にしてマイル戦で1分34秒台を叩き出す能力の高さ(アメリカのダートはスピードが出る)、圧倒的な勝ち方がその根拠とされている。競馬にタラレバはないが、もしマルゼンスキー(母のシル)が日本に輸入される事無くアメリカで生まれ走っていた場合、シアトルスルーの三冠は如何なっていたか判らないと考える者もいる。
この馬の場合、むしろ同時代の馬とではなく、日本競馬史上最強馬の候補として様々な時代の名馬たちと比較されることがある。 競馬雑誌『優駿』創刊50周年記念増刊号の史上最強馬アンケートにおいて、マルゼンスキーは5位タイの得票を得ており、競馬評論家の井崎脩五郎はそこではマルゼンスキーに投票している。
[編集] 種牡馬時代
種牡馬としてのライバルはノーザンテースト、トウショウボーイの2頭である。ノーザンテーストは同じノーザンダンサー系、トウショウボーイは父内国産種牡馬として覇を競った。特にトウショウボーイとは現役時代にマルゼンスキーの故障で対戦が無かった事からファンの間でも種牡馬対決が盛り上がった。マルゼンスキーの大成功によってニジンスキー系の種牡馬が大量に輸入されニジンスキーブームが生産地で発生した。余談だがヤマニンスキー(ヤエノムテキの父)はマルゼンスキーと母父も同じ、ラシアンルーブル(イソノルーブルの父)は母父どころか母母父も同じという理由で生産地でマルゼンスキーを種付けできない生産者から人気があった。
[編集] 血統表
マルゼンスキーの血統 (ニジンスキー系(ノーザンダンサー系)/Menow 4×4= 12.50%、Blue Larkspur 5×5=6.25%、Bull Dog 5×5=6.25%) | |||
父
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Flaming Page 1959 鹿毛 |
Bull Page | Bull Lea | |
Our Page | |||
Flaring Top | Menow | ||
Flaming Top | |||
母
*シル Shill 1970 鹿毛 |
Buckpasser 1963 鹿毛 |
Tom Fool | Menow |
Gaga | |||
Busanda | War Admiral | ||
Businesslike | |||
Quill 1956 栗毛 |
Princequillo | Prince Rose | |
Cosquilla | |||
Quick Touch | Count Fleet | ||
Alms F-No.5-g |
日本中央競馬会・顕彰馬 |
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クモハタ | セントライト | クリフジ | トキツカゼ | トサミドリ | トキノミノル | メイヂヒカリ | ハクチカラ | セイユウ | コダマ | シンザン | スピードシンボリ | タケシバオー | グランドマーチス | ハイセイコー | トウショウボーイ | テンポイント | マルゼンスキー | ミスターシービー | シンボリルドルフ | メジロラモーヌ | オグリキャップ | メジロマックイーン | トウカイテイオー | ナリタブライアン | タイキシャトル | テイエムオペラオー |