ハクチカラ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1953年4月20日 |
死没 | 1979年8月 |
父 | トビサクラ |
母 | 昇城 |
生産 | ヤシマ牧場 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | 西博 |
調教師 | 尾形藤吉(東京) |
競走成績 | 49戦21勝(海外17戦1勝) |
獲得賞金 | 1656万8070円+約80000ドル |
ハクチカラ(Hakutikara)は、日本の競走馬。日本の調教馬として初めて海外重賞制覇を達成した他、国内でも東京優駿(日本ダービー)を勝利するなど活躍した。後にインドに寄贈され、当地で生涯を閉じた。1957年年度代表馬、1984年顕彰馬に選出。半弟に重賞を4勝したヤシマフアーストがいる。
目次 |
[編集] 戦績
国内でキタノオーやヘキラク達ライバルを相手に東京優駿、目黒記念(春・秋)、天皇賞(秋)、有馬記念等32戦20勝と活躍。
天皇賞、有馬記念ではいずれも単勝支持率が8割を超えるという圧倒的な支持に応えての優勝で、名実共に日本競馬の現役最強馬となった。しかし、古馬の最高格のレースである天皇賞と有馬記念を制したということは、すなわち、ハクチカラの名声を高める為に日本で出走するべきレースがもはや存在しないという事を、同時に意味する事でもあった(しかも、当時の天皇賞は勝ち抜け制で、優勝経験馬にはそれ以降の天皇賞への出走権が無かった)。ちなみに、後年、同様の理由で海外遠征プランを陣営が計画した馬としてはテンポイントがいる。
翌1958年、関係者はアメリカ遠征を決意し、1958年5月にハクチカラを渡米させた。これは日本の競馬関係者が育成してきた競走馬が、史上初めて海外の競馬先進国と呼ばれる地域に挑戦したものとなった。
ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては飛行機に乗る事自体が高嶺の花であり、増してやデリケートなサラブレッドを太平洋横断させるという、この様なスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカにすらほとんど有していないに等しい状態であった。この事から、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った旅客機がチャーター便として用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった(※参照)。
日本の空港には馬を出し入れできるスロープがなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の拳銃の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意する事を条件とされた為、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈る様な思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中全く落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。
ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた保田隆芳は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。
現地での初戦、2戦目と最下位に破れ3戦目のサンセットハンデキャップでギャラントマンの4着になるも最初の半年間は不振であった。保田隆芳が帰国した6戦目のトーナメントオブロージズ賞から好走するようになり、3着、2着、5着、4着と入着を続けついにワシントンバースデイハンデキャップで初勝利を迎える。アニサド、ラウンドテーブルらを破る快挙であり、後に大種牡馬となるラウンドテーブルを破ったためアメリカでもニュースになったほど。その後は不振が続きそのまま引退。海外での成績17戦1勝。
なお、アメリカでの騎乗ではいいところの無かった保田隆芳であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎える事になった。これは当地の最新の騎乗技術、すなわちモンキー乗りを習得した事であり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は天神乗りが主流であった中央競馬のリーディングジョッキー争いをたちまち席巻したことはあまりにも有名である。
競走生活を引退後のハクチカラは、日本に帰国して種牡馬になったがこれといった活躍馬を出せず、今度はインドに寄贈され、再度海を越える事になる。インドでは国立クニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)等数頭のインドのクラシックホースを出した後、1979年に26歳で死亡した(老衰)。
- ※(参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情について
- ハクチカラがアメリカ遠征を敢行した1958年5月当時は、太平洋横断線を往来する航空機はまだDC-7を中心とするプロペラ機のみで、現在の様なジェット機はアメリカの航空会社のものも含めて就航していなかった。
- 当時、日本に飛来した事のある中長距離国際線用のジェット機としては、世界初の実用ジェット旅客機であったイギリス製のコメットが存在したが、当時は連続して発生した空中分解事故の対策作業の為に飛行停止中。アメリカ製のボーイング707、DC-8はいずれも、日本はもとよりアメリカでも営業路線への就航開始前の段階である。したがって、ハクチカラの渡米当時はそもそもプロペラ機の他に選択肢が存在していなかった(この他の中長距離ジェット旅客機としては、ソ連でTu-104が就航していたが、当時の日本へは飛来していない)。
[編集] 年度別成績
1955年(6戦5勝)
- 2着 朝日杯3歳ステークス
1956年(11戦6勝)
- 1着 東京優駿、カブトヤマ記念
1957年(15戦9勝)
- 1着 天皇賞(秋)、有馬記念、目黒記念(春)、目黒記念(秋)、東京杯、日本経済賞、毎日王冠
- 2着 金杯、安田賞、オールカマー
1958年(6戦0勝)
- 2着 トーナメントオブロージズ賞
1959年(11戦1勝)
- 1着 ワシントンバースデイハンデキャップ
- 2着 カリフォルニア州共進会賞
[編集] 主な対戦相手
- キタノオー 朝日杯3歳ステークス、菊花賞、天皇賞(春)、対ハクチカラ6勝4敗、サラ系
- ヘキラク 皐月賞、対ハクチカラ2勝12敗
- ラウンドテーブル(Round Table) サンタアニタハンデキャップ他66戦43勝、当時の賞金王、ワシントンバースデイハンデキャップでは競走中に故障
- ギャラントマン(Gallant Man) ベルモントステークス他26戦14勝、ラウンドテーブル、ボールドルーラーのライバル
[編集] 血統表
ハクチカラの血統 (ブランドフォード系/Orby5×5=6.25%) | |||
父
トビサクラ 1942 栗毛 |
*プリメロ Primero 1931 鹿毛 |
Blandford | Swynford |
Blanche | |||
Athasi | Farasi | ||
Athgreany | |||
*フライアースメードン Friar's Maiden 1931 鹿毛 |
Friar Marcus | Cicero | |
Prim Nun | |||
Tetrarch Girl | The Tetrarch | ||
Affinity | |||
母
昇城 1944 栗毛 |
*ダイオライト Diolite 1927 黒鹿毛 |
Diophon | Grand Parade |
Donnetta | |||
Needle Rock | Rock Sand | ||
Needlepoint | |||
月城 1932 栗毛 |
Campfire | Olambala | |
Nightfall | |||
*星旗 | Gnome | ||
Tuscan Maiden F-No.16-h |
日本中央競馬会・顕彰馬 |
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