競走馬
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競走馬(きょうそうば)は、競走用に改良された馬。競馬の競走に用いられる馬の総称。以下、競走馬に関するさまざまな事柄に関して記述する。
なお、競走馬の血統や配合に関する事柄については、競走馬の血統を参照のこと。
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[編集] 競走馬として用いられる馬の品種
- 平地競走用
- 障害競走用
- サラブレッド
- セルフランセ
- 繋駕競走用
- スタンダードブレッド
- その他トロッター
- ばんえい競走用
- ペルシュロン
- ブルトン
- ベルジャン
- 半血(上記3品種あるいはそれ以外の種との混血)
なお、かつて(明治以降、おおむね1950年代前半まで)の日本においては、馬資源の不足などの理由から品種を問わず平地競走にも用いられていた。
[編集] 競走馬の生産・育成の過程
ここでは、主に日本での競走馬の生産・育成の過程を記載する。馬齢については2000年以降の新表記(出生年をゼロ歳、翌年を1歳…)で記す。
[編集] 生産地
日本では、北海道の日高地方、青森県、岩手県に競走馬を生産する牧場が多い。
[編集] 種付け
種牡馬と繁殖牝馬を交配させ、繁殖牝馬を妊娠させること。一般に、毎年春に起こる牝馬の発情にあわせて行われる。なお、他の家畜では一般的な、人工授精によって競走馬を生産することは国際血統書委員会(ISBC)によって禁止されている。
[編集] 出産・離乳
ウマの妊娠期間は約330日である。出産時期は2~6月頃である。生まれた仔馬は出産から約6ヶ月で母馬から強制的に引き離される。
[編集] 馴致
競走馬として扱われることにウマを慣れさせることを馴致またはブレーキングという。もっとも初歩的な馴致は人間の存在に慣れさせることであり、これは一般に生まれた牧場で行われる。
1歳になると育成牧場ヘ移動させ、馬具の装着に慣れさせることに始まり、最終的には人間が騎乗することに慣れさせる。
[編集] 馬主による購入
競走馬用のウマははじめは生産者が所有するが、やがて馬主によって購入される。一般的な時期は生まれた直後から2歳にかけてである。購入方法は競り市(セール)による場合と、生産者と馬主の直接取引(庭先取引という)による場合とがある。馬によっては引き続き生産者自身が馬主となり、レースに出走させる場合もある。外国産馬の場合は、外国のセールで馬主が購入して日本に輸入することになる。購入に関しては馬主や生産者と関係が深い調教師が絡む場合も多い。
また、日本においてはあまり一般的ではないが、ピンフッカー(Pinhooker)と呼ばれる育成専門の業者が介在する場合もある。このピンフッカーは当歳ないし1歳馬を購入し、調教を加えて市場価値を高め、2歳時のセリ市で高値で売却することを目的とする。
かつては生産者から日本中央競馬会(JRA)が購入して自ら育成した後、抽選で馬主に再販売された抽せん馬もあった。
[編集] 競走馬登録・入厩
競走馬として登録され、デビューに備えて管理にあたる調教師の厩舎に預けられる。入厩の時期は一般に2歳の春から夏にかけてである。なお、レースに出走するまでに競走馬名が決定する。
競走馬名に関するルールの詳細については、競走馬名を参照のこと。
[編集] 競走生活
日本においては2歳の春(5~7月頃)以降、レースに出走することとなる。なお、一定の期間は出走経験のない競走馬のみが出走することのできるレース(新馬戦)が主催者によって用意されるのが一般的である。競走生活は一般的に5歳前後まで続く。なお、競走を重ねるにつれて、個々の競走馬の能力や適性が次第に明らかになる。
競走馬の故障・疾病に関する詳細については、故障を参照のこと。
[編集] 競走生活からの引退
競走馬が引退する時期については、種牡馬や繁殖牝馬としての期待の大きさや健康状態、馬主の意向などさまざまな要因が作用する。なお、日本においては、競走生活を引退した後に種牡馬または繁殖牝馬として産駒を生み出した馬が再び競走馬となることはできない。
競走生活を引退した馬のその後の用途としては、
などの選択肢があるが多くは乗馬となる。ただし、表立って発表はされないものの、現実には殆どの馬が食肉として処分される。
[編集] 競走馬名
現在では、競走馬は競馬に出走するにあたり馬名登録を済ませることが義務付けられている(馬名登録義務)。
競走馬名については競馬と生産に関する国際協約(通称: パリ協約)により、アルファベット18文字(空白を含む)までと決められている。これに倣い日本ではカタカナ2文字以上9文字以下(訓令式でローマ字表記すれば18文字を超えない)、香港の漢字表記では4文字以下となっている。
欧米では、競走馬名は父や母の名前から連想して付けられることが多い。(例: ノーザンダンサーの直仔など)
[編集] 日本における競走馬登録
日本における馬名登録の時期・方法については、以前はトレーニングセンター(中央競馬の場合美浦・栗東)に入厩するか、産地馬体登録検査をする時にJRAに申請して正式登録となったが、2002年からJRA、NAR(地方競馬)の全ての競走馬登録を財団法人日本軽種馬登録協会が一括して行うようになり、血統登録証明書が発行され次第(概ね1歳7月以降)馬名登録が出来るようになった。
[編集] ルール
- 馬名に使用できる文字
カタカナのみ。
- 「ヰ」・「ヱ」については、過去に使用例(スウヰイスー)があったが、現在では現代仮名遣いに限ると定められているため使用できない。
- 「ヲ」については、1997年より使用を認めた。(「エガオヲミセテ」等)
- 促音・拗音については、1968年より使用を認めた。(「エアグルーヴ」等)
- 1928年以降カタカナに統一される。それまでは漢字の馬名が存在していた。また、1954年にはラ・フウドルという記号が含まれる馬名が登録されたこともあった。
- 馬名に使用できる字数
2文字以上9文字以内
- 2002年より10文字以上の馬名のほかに1文字の馬名も禁止となった。(禁止されるまでは発音などに難点があるため使用しないように指導していた。)
- 唯一の1文字馬名は、1934年デビューの「ヤ」。(「矢」が語源)
- 1937年に「9文字以内」の字数制限が設けられた。
- 日本以外で登録された競走馬についてはカナによる制約を受けないため、輸入種牡馬やジャパンカップなどの国際招待競走でカナ馬名にすると10文字以上の馬がいる。
- サイレントウィットネス(Silent Witness)
- ストラテジックチョイス(Strategic Choice)
- マークオブディスティンクション(Markofdistinction)
- オリエンタルエクスプレス(Oriental Express)(←内部リンクにすると、競馬とは関係の無い、元・西武ライオンズの郭泰源にジャンプする。)
- フリートストリートダンサー(Fleetstreet Dancer)
- ロックオブジブラルタル(Rock of Gibraltar)
- 使用できない馬名
- GII優勝馬・GIII優勝馬の馬名(登録抹消後10年を経過しないと再使用できない。)
- 過去に登録された馬名(登録抹消後5年を経過しないと再使用できない。)
- 馬名変更前の旧馬名(変更後2年を経過しないと再使用できない。)
- 末尾に「ゴウ」・「ゴー」・「ゴオ」がある馬名。(審議などで競馬場内外に流れる放送で、“○○○○号(ごう)の進路が狭くなった事について…”と競走馬を呼ぶ時に必ず“号(ごう)”を入れる為である。)
- 特定の個人・団体名など宣伝(営利)目的のような馬名
- 例外~馬主自身の名称や商標については冠名として認められる(「オンワード」・「サクラ」・「ニホンピロ(ー)」など)。
- ブランド名、商品名、曲名、映画名、著名人等が含まれる馬名
- 例外~著名人では「リンカーン」「シャラポワ」「ペリー」などフルネームでない場合や冠名を伴う馬名は認められることがある。80年代半ばに「プリンセスナウシカ」、90年代には「サザンシルフィード」(漫画『風のシルフィード』から「サザンウィンド」と「シルフィード」から引用された)など、その時代のヒット作を感じさせる馬名も存在した。
- 馬の性別にそぐわない馬名
- 例外~ウズシオタローのように牝馬でありながら認められた例もある。
- 公序良俗に反する馬名
- 再使用禁止馬名以外で、現役馬・登録抹消馬・種牡馬・繁殖牝馬に類似する馬名(特に一文字違いや発音)
- 競馬用語・競走名等が含まれる馬名
- カタカナ表記では異なる馬名でも英表記では同一もしくは類似となる馬名
[編集] 珍馬名
従来、馬の名前には、主にスピードや強さを表す語(パワー、スピード、ハヤテ、ハヤト、ストロング、サンダーなど)が良く使われていたが(他には星座やギリシャ神話の神、牝馬のレディ、フラワー、ガールなどの英単語はあったが、日本語のフレーズはジョオー、ヒメなどを除きほとんど使われていなかった)、日本における馬名がカタカナ9文字までに制限されているため、馬の名前に使えそうなスピードや強さを表す語はほとんど使い尽くされてしまったことや、これに伴う登録基準の緩和からか、1990年代以降、単なる漢語や和語、フレーズなどをそのまま馬の名前にした、いわゆる「珍名馬」が増加している。
代表例は、2006年の高松宮記念を制した「オレハマッテルゼ」を始めとする小田切有一の所有馬、「マチカネ」の冠を付けた馬を所有する細川益男らであろう。一連の「珍名馬」増加の背景には、日本語のフレーズを馬の名前に最初に採用した小田切の影響、あるいは国際レースの増加に伴う海外の馬との名前の重複の可能性の回避などが強いと思われる。
なお、「珍名馬」の例については2歳珍名馬を参照のこと。
[編集] 国際保護馬名
国際保護馬名(International list of protected names)は、過去の優秀な成績の競走馬や主要な種牡馬や繁殖牝馬との馬名の重複を防ぐために国際競馬統括機関連盟によりアルファベットで登録され管理されている。
登録基準は、2005年以降では主要な国際競走(カルロスペルグリニ大賞、ブラジル大賞、コックスプレート、ドバイワールドカップ、香港カップ、凱旋門賞、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス、アイリッシュチャンピオンステークス、ブリーダーズカップ・クラシック、ブリーダーズカップ・ターフ)の優勝馬、国際血統書委員会が申請した主要な種牡馬・繁殖牝馬、競馬統括機関が申請した優秀な成績の競走馬と規定されている。 なお、2004年以前は対象となる競走が一部異なっていた。
日本調教馬も前出の対象競走優勝馬の他に、一部の東京優駿の優勝馬(例:SHINZAN、TAKE HOPEなど)や著名馬(HAISEIKO)などが登録されている。また2006年度時点のリストには、KATSURANO HAISEIKO、OPEC HORSE(ともに東京優駿優勝馬)が登録されている一方で、St.Lite(1934年の三冠馬)、NARITA BRIAN(1994年の三冠馬)やOGURI CAP(顕彰馬)が未登録など必ずしも一貫して申請・登録されてはいない。
[編集] 競走馬の適性
前述のように競走馬は競走を重ねるにつれて、競走を行うにあたっての適性が次第に明らかになる。そうした適性について記述する。
[編集] 距離に関する適性
日本においては、競馬の競走は平地競走は最短800m最長3600m、障害競走は最長4250mの距離で行われる。 競走馬にはそれぞれ、得意とする距離のレースがある。距離に関する適性は競走馬自身の走法や体型、気性などのさまざまな要因の影響を受ける。競走馬生活を送るうちに走法や気性が変化し、それに伴って距離適性が変化する競走馬もいる。
[編集] 得意距離による馬の呼称
[編集] スプリンター
スプリンターとは、6ハロン(約1200m)前後の距離を最も得意とする競走馬のことである。(代表馬:サクラバクシンオー・サイレントウィットネス)
一般に、胴が短く筋肉質な体型の馬が多い。また、気性面においてはスタートから全力で走ろうとする馬が多い。
中央競馬では伝統的に長距離のレースで活躍する馬が評価される傾向が強く、スプリンターには活躍の場が少なかった。中央競馬においては1984年にグレード制が導入された時点では1200mのGIレースは存在せず、1990年にスプリンターズステークスが初めてGIに格付けされた。さらに1996年以降は高松宮記念(高松宮杯)が1200mのGIレースとして施行されている。2006年には夏競馬において、サマースプリントシリーズが整備され、ますますスプリント路線が整備されている。なお中央競馬では生粋のスプリンターが年度代表馬に選出されたことは無い。
[編集] マイラー
マイラーとは、1マイル(約1600m)前後の距離を最も得意とする競走馬のことである。(代表馬:タイキシャトル・ニホンピロウイナー)
スピード能力に優れるが、スタミナに欠けるため2000メートル以上の距離になると最後に失速する事が多い。ただし、あまりに競走能力が違いすぎていたり、レース展開によっては、多少距離が長くても最後まで失速せずに勝ってしまう場合もある。逆に、スプリンターほどスタートダッシュは早くないので、1400m以下の短距離戦では能力を出し切る前にレースが終わってしまう事もある。
前述したように中央競馬では伝統的に長距離のレースで活躍する馬が評価される傾向が強く、グレード制導入以前は八大競走の中で1600mのレースは桜花賞のみであった。1984年にグレード制が導入された際に安田記念とマイルチャンピオンシップがGIに格付けされたことで初めてマイラーに大きな活躍の舞台が与えられた。その後は1996年にNHKマイルカップが3歳のチャンピオンマイラー決定戦として、また、2006年にヴィクトリアマイルが古馬牝馬のチャンピオンマイラーを決定するGIレースとして創設されるなど、マイラーの活躍の場は増加しつつある。また、二歳馬のチャンピオンを決めるレースが中山競馬場で朝日杯フューチュリティーステークスが阪神競馬場で牝馬限定の阪神ジュべナイルフィリーズが1600mで行われている。
[編集] ステイヤー
ステイヤーとは、長距離レースを得意とする競走馬のことである。2500m以上の距離が長距離とされ、クラシック・ディスタンスの2400mも長距離に含む場合がある。概して3歳秋以降に頭角を現す晩成型の馬が多い。(代表馬:メジロマックイーン・ライスシャワー)
一般に、胴が長くすらりとした体型の馬がステイヤーであり、また、長距離レースを勝つためにはペース配分が重要であるため、騎手に逆らって暴走することがあるような気の荒い馬は少なく、素直でおとなしい気性の馬が多い。スタートで大きく出遅れることが多い馬は、出遅れを挽回できる長距離レースでしか勝てないという場合もある。
かつての日本では中央競馬における八大競走のうち古馬が出走できるレースがすべて2500m以上で行われるなど、ステイヤーとしての資質こそが優れた競走能力の証であると評価されていた。しかし近年はマイルないし中距離のレースにおけるスピードを重要視する世界的な風潮の影響から、中央競馬においても1984年に秋の天皇賞の施行距離が3200mから2000mに縮小されるなど、ステイヤーが活躍する長距離レースは施行数が減少傾向にある。
また、近年は中央競馬の全体的な傾向として早熟なスプリンターやマイラーを父に持つ血統が人気を集めているため、ステイヤーは種牡馬としても繁殖牝馬が思うように集まらず、苦戦する傾向にある。しかしながら母の父としてはスタミナを伝える役割を期待されることが多く、活躍馬の母の父として血を残すステイヤーも数多い。
[編集] コースに関する適性
[編集] 馬場の種類に関する適性
日本では芝とダート、2種類のコースによってレースが行われる。芝コースの競走のみを得意とする競走馬を芝馬、ダートコースの競走のみを得意とする競走馬をダート馬という。いずれのコースの競走をも得意とすることを芝ダート兼用、あるいは万能と表現する。
なお、ダートに関しては競馬場によって砂質や砂の深さに違いがあり、ダート馬であるからといってあらゆる競馬場のダートコースに対応できるとは限らない。とくに国による砂質の差は大きい。
[編集] 馬場状態に関する適性
競走馬の中には降雨や降雪によって悪化した馬場状態での競走を得意とするものがいる。そのような競走馬を道悪巧者、重巧者、不良巧者などと表現する。また、馬場状態がよくとも芝が踏み荒らされているなど、悪条件での競走を得意とする競走馬もいる。
[編集] コースの形態に関する適性
競馬場の中にはコースの一部(主にゴール前)に急な勾配をもつものがあるが、そのようなコースを苦手とする競走馬もいる。そのような競走馬は勾配のない平坦なコースでよりよい成績を挙げるため、平坦巧者と呼ばれることがある。
[編集] 左回り・右回りに関する適性
競馬の競走は、競馬場によってコースを右回りに周回する場合と左回りに周回する場合とがあるが、いずれかを苦手とする競走馬がいる。なお、一般に競走馬は左回りに周回する場合のほうが右回りに周回する場合よりも早く走ることができるとされる。ちなみにヒトも多くの人は左回りの方が周回しやすいと言われている。
[編集] 障害競走の適性
一般に、障害を飛越する能力の高い馬は障害競走の適性を持つといえる。 日本では多くの場合、平地競走で成績が振るわない競走馬が障害競走に転向するが、平地競走の能力が著しく劣る競走馬であっても、障害を飛越する能力が優れているために障害競走で優れた成績を収める例は数多い。
[編集] 競走馬の性質・癖
競走馬の持つ性質や癖について記述する。
[編集] 物見
競走馬は基本的に臆病な性格で警戒心が強い。とくに初めて足を踏み入れた場所や初めて見る対象に対して強い警戒感を示す。これを物見といい、レースや調教において走りに集中できない要因となることがある。
[編集] 競走馬生産の歴史 (日本)
[編集] 江戸時代
江戸時代、欧州ではいわゆるサラブレッド生産と現代式の競馬が体系化・整備された時期を迎え、鎖国下の日本にも僅かに欧州産の血統管理された馬が輸入された。著名な例としては、1863年(文久3年)に、フランス皇帝ナポレオン3世から徳川家茂に贈呈された26頭の駿馬がいる。このときの1頭である牝馬の高砂は孕仔の吾妻を産む。吾妻の子孫は明治全期を通じて大いに繁栄し、13頭の帝室御賞典競走の勝ち馬を出したほか、1955年(昭和30年)の最良アラブに選出されたタツトモや1999年(平成11年)NARアラブ系最優秀3歳馬ハッコーディオスをはじめ昭和、平成の時代も活躍馬を輩出し、現在でも地方競馬の重賞勝馬を出している。しかしながら26頭のうちのほとんどは、重臣らに分け与えられてしまい、国産馬の改良には全く寄与しなかった。この時代には、このような名駿が日本に持ち込まれたにもかかわらず、欧州式の馬産・品種改良の方法論は導入されなかった。近代的な馬産が行われるには、明治期を待たねばならない。
横濱競馬場では、設立当初は日本馬と中国産馬によって競走が行われていたが、後に競走馬の質と量を確保する目的で、主にオーストラリアからサラブレッド競走馬が輸入された。当時の日本には血統登録制度が確立されておらず、こうした濠州産サラブレッド(濠サラ)は後に公式な記録がはじまると「血統不詳馬」となった。これらの濠サラは競走引退後に払い下げられ日本各地で繁殖に供されたが、ミラなどの大いに活躍したごく一部の競走馬を除いて血統や競走の記録は失われ、単に「洋種」馬として供用された。高砂や吾妻も同様の扱いを受けており、血統管理と淘汰に立脚した品種改良を目的とする近代的な馬産は、まだ確立されていない。
[編集] 明治時代
明治時代、政府による近代的な産業振興策に基づいて、日本国内では官民による洋式の牧場が各地に開設された。これらの牧場のうち著名なものとしては、内務大臣大久保利通が旧幕府の御料牧場を改良して岩山敬義に監督させた下総御料牧場、北海道開拓使黒田清隆がエドウィン・ダンを顧問に日高に拓いた新冠牧場(後の新冠御料牧場)、三菱財閥が岩手に開設した小岩井農場、八戸に追放された会津藩士が1872年(明治5年)に興した青森の広沢牧場などが挙げられる。
これらの牧場では、乳牛・肉牛・綿羊・肉豚などと並び、乗用馬、貨車用馬、農耕馬など様々な目的で様々な品種の馬が輸入され、血統のはっきりしない在来種、洋種(前述の濠サラなど)、血統のはっきりしているアラブ、アングロノルマン、アングロアラブ、ギドラン、ハクニー、トロッターらに混じってサラブレッドが繋養されているといった状態で、これらの交配によって雑種も生産された。この時代にはサラブレッド種牡馬・種牝馬の数が絶対的に不足していたこともあり、競走用のサラブレッドの生産が本格化するのはもう少し先のことで、さまざまな種の雑種の生産や育成を通じて西洋式の馬産の方法技術を模索していた時期と言える。
明治初期には広沢牧場をはじめ各地に西洋風の方式を取り入れた牧場が創設されたが、これはもっぱら特権を失った士族への授産という性格が濃く、計画的な馬の品種改良には至っていない。体系的な馬産が開始されるのは明治中期のことである。1894年(明治27年)の日清戦争、1899年(明治32年)の北清事変、1904年(明治37年)の日露戦争に際し、陸軍は軍馬として在来種を中心とした日本産馬を大陸に連れて行き、西洋の馬との差を痛感することになる。
北清事変後の北京では、駐屯する西洋列強の軍馬に比べ、日本産馬は馬力、速度、持久力、悍性とすべてにおいて著しく劣っていることが明らかになる。列強の馬に比べると日本産馬は20センチほど体高が低く、走らせると1分で180メートルも引き離された。性質も悪く、日本産馬は集めて繋ぐと暴れ、物資を運ばせれば転倒し、大砲を運ばせれば動きが鈍く、騎手の指示に従わず、牝馬を見れば発情し、銃声に驚いて逃げ出す有様で、西洋列強の軍隊との共同作戦において隊列を乱したり行軍を遅らせたりと列国に多大な迷惑を与え、西洋からは日本の馬は猛獣かとか日本の騎兵は馬の一種に乗っていると嘲笑された。あわてた軍部は日英同盟を頼って濠州からサラブレッド牝馬を大量輸入するが、これらの馬は結局戦場には連れて行かれず、民間に払い下げられた。
特に日露戦争の陸戦では日本側の人的損失は甚だしく、戦後の国内世論は西洋並みの優秀な軍馬を育成することが急務であると説き、やがてそれは明治天皇の知るところとなる。1904年(明治28年)に政府内に馬政調査会が設置されて国内各地に官営の種畜場が開設されていたが、もともと馬術に関心の強かった明治天皇は元老伊藤博文に馬匹改良を命じ、1906年(明治39年)には第一次桂太郎内閣直属の馬匹改良を目的とした馬政局が設立、農商務・外務・大蔵・逓信大臣を歴任した曽根荒助男爵が馬政局長官に任命され、軍馬改良を柱とする馬政30年計画が上奏された。馬政局は奨励する種馬の種類として、軽種にサラブレッド、中間種にハクニー、重種にペルシュロンを指定し、これを補うものとしてギドラン、アングロアラブとアングロノルマンを選定した。
これを受けて国営の奥羽種畜牧場では1906年(明治39年)に濠州産馬128頭を輸入、翌年にはインフォーメーションなどの種牡馬を導入した。宮内省管轄の下総御料牧場は(1907年(明治40年)にブラマンテー、サッパーダンスなどサラブレッド種牡馬4頭を英国より輸入すると共に、雑種の繋養馬を売却処分した。民間では三菱財閥の小岩井農場が1907年(明治40年)、種牡馬インタグリオーと種牝馬20頭を英国より輸入し、本格的なサラブレッド生産に着手した。このとき小岩井農場に輸入された種牝馬のうち、ビューチフルドリーマー、フロリースカップ、アストニシメント、プロポンチスなどの子は特に優秀で、これらの小岩井農場の基礎輸入牝馬の子孫は現在にまで連なる繁栄を示している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 珍名馬券写真集
- 中央を中心としたいわゆる「珍名馬」の単勝式馬券を紹介している。