ホクトベガ
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性別 | 牝 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1990年3月26日 |
死没 | 1997年4月3日 |
父 | ナグルスキー |
母 | タケノファルコン |
生産 | 酒井牧場 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | 金森森商事(株) |
調教師 | 中野隆良 (美浦) |
競走成績 | 中央32戦7勝 地方9戦9勝 海外1戦0勝 |
獲得賞金 | 8億8812万6000円(地方含む) |
ホクトベガは日本の競走馬。1996年最優秀ダートホース、NARグランプリ特別表彰馬。
目次 |
[編集] 生涯
1992年に中央競馬の美浦の中野隆良厩舎に入厩。1993年1月5日の新馬戦で楽に逃げ切る。4戦目のフラワーカップで初重賞勝利を収めるが、クラシックの桜花賞、優駿牝馬はベガの前に5着、6着に敗れた。秋のエリザベス女王杯では、牝馬三冠のかかるベガに対して、4コーナーで最内を強襲、そのまま伸びて勝利を収めた。この時の関西テレビの馬場鉄志アナの実況に「東の1等星、北斗のベガ、ベガはベガでもホクトベガ」という名フレーズがある。生産者の酒井は「出走するだけで掲示板に載れればいい」と思っていて京都競馬場に行かなかったところ、ホクトベガが優勝した為「テレビの前でホクトベガに申し訳ない気持ちになった」と雑誌でコメントしている。
4歳時(1994年)は札幌競馬場で札幌日経オープン、札幌記念と連勝するが、他のレースは苦しい競馬が続いた。一時はGI競走の優勝馬でありながら障害レースへの転向も陣営は検討し、実際に障害飛越の練習も行われたほどであった。余談ではあるが、この時に行われた障害練習による足腰の強化が、後のダート路線での活躍につながったのではないかと言われ、程度の差こそあるが、調教において障害練習を採り入れる厩舎が続出するきっかけとなった。現在においては、調子を落としレースに勝てなくなった馬に対して、レースのリズムを取り戻す、有効な調教のひとつと考えられている。
この障害入り構想は5歳時(1995年)のアメリカジョッキークラブカップで、サクラチトセオーの2着に入った事でどうにか帳消しになったが、その後も歯がゆいレースが続いていた。
転機は1995年6月13日にやってきた。この年から中央競馬と地方競馬の交流が盛んに行われる様になり、川崎競馬場では伝統の牝馬重賞エンプレス杯が牝馬限定の交流レースとして開催されることとなり、ここにホクトベガが出走した。田んぼのような不良馬場で行われたレースでは、その年のダイオライト記念優勝馬であり牡馬も含めた当時の南関東最強の一角であるアクアライデン、当時の南関東最強牝馬と呼ばれたケーエフネプチュンなどを全部まとめて子供扱いにする3.6秒(18馬身)差という圧倒的としか言い様の無い大勝利を見せつけて地方競馬に大きな衝撃を与える。砂の女王伝説はここに幕を開ける。
ちなみにこの時、川崎競馬の関係者は3度驚いた、と言う。
- 最初はホクトベガとヒシアマゾンが出走登録を行っていた(実は少なからぬ関係者がこの時点では冷やかしではないかと内心考えていた)。
- JRAのGI優勝馬ホクトベガが、本当に川崎競馬場の開催レースに出走してきた。
- 小回り急カーブで知られる川崎のコースや初ナイター競馬を全く苦にせず、2着に18馬身差の大差での勝利。
その後、5歳時は中央競馬の芝の競走を使ったがまたしても勝ちきれない競馬に終始する。6歳になり、陣営はエンプレス杯の再現を期待してエンプレス杯と同じ川崎競馬場の川崎記念(1996年1月24日)に出走させた。
本来ならばこの競走は第1回ドバイワールドカップに出走する日本のダート最強馬ライブリマウントの壮行レースと考えられており、他の出走馬も『打倒ライブリマウント』を掲げてトーヨーリファール、アマゾンオペラを筆頭に当時のJRA・地方の全国ダート戦線の錚々たる最精鋭たちが顔を揃えていた。にもかかわらず、いざレースになってみれば3コーナーひと捲くりで先頭に立ったホクトベガに他馬はまるで太刀打ちできず、2着馬ライフアサヒに1秒の差をつける勝利を収めた。
これによりホクトベガ陣営はダート重賞に活路を求める。その後もフェブラリーステークス、ダイオライト記念、群馬記念、帝王賞、エンプレス杯(連覇)、マイルチャンピオンシップ南部杯では『女王様とお呼び!』とテレビ実況で言われてしまう程の圧勝で7連勝。いずれも、ほとんどのレースで3~4コーナーのひと捲くりだけで勝ってしまうという次元の違う圧勝であった。芝レースのエリザベス女王杯4着を挟んで、浦和記念に勝利。この浦和記念だけは他のレースと異なり2着キョウトシチーとの着差は3/4馬身差であったが、レース内容自体は完勝であり、むしろキョウトシチーの善戦が光るという内容であった。続いて出走した芝レースの有馬記念では9着と敗れるが、年が明けて出走した川崎記念を連覇し、ダート交流競走10連勝の金字塔を打ち立てた。また、彼女の行く所次々と地方競馬場の入場人員数の新記録が打ち立てられた。そして、その待っている地元ファンの期待を一度として裏切らない強さであった。最後の川崎記念に至っては、当時はスタンド改修工事もあり実質3万人程度の収容能力であった川崎競馬場に、その倍近い約59000人が来場している。ダートグレード制以前のこと、GI競走1勝の身ゆえに現在から見れば戦績に劣って見えるが、これらの実績を鑑みれば、彼女は1990年代でも最大級のスターホースの1頭であったことは紛れもない事実である。
1997年、第2回ドバイワールドカップに招待され出走。このレースをもって競走からは引退、レース後はそのまま渡欧し、ヨーロッパの一流種牡馬との交配が計画されていた。
しかし、当初の開催予定日に当地では数十年に一度という猛烈なスコールとなり、順延となった。そしてレースとなった運命の4月3日、ホクトベガは4コーナーで他馬に接触して転倒(進路妨害されたという説あり)、競走を中止。その後後続馬に接触され、左前腕節部複雑骨折により予後不良と診断され、安楽死処置を受けた。手綱をとった横山典弘はのちに、自らの強引な騎乗がアクシデントを引き起こしたと悔いた。
コース4戦4勝、いまや伝説となった18馬身の圧勝劇を見せたエンプレス杯の行われる川崎競馬場では、1998年から交流重賞のスパーキングレディーカップに「ホクトベガメモリアル」の冠をつけ、現在もその名が残されている。ドバイでもホクトベガの名を冠した競走が施行された。なお、輸送(検疫)の関係上、遺体は日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓には遺髪のみが収められた。
ちなみに、ホクトベガを管理した調教師の中野はホクトベガの強さについて、この言葉を残している。
「彼女はモナリザ、その強さは永遠の謎だよ」
[編集] ホクトベガの馬体
ホクトベガは牝馬ながら500kg近い雄大な馬体の持ち主であった。また、逞しく力強いが同時に牝馬らしい丸さに欠けるという見方も多かった。事実、その馬体は牡馬が周回するパドックに入った所で何ら見劣りするものではなく、むしろ他の牡馬たちを凌駕さえする見栄えの良さであった。
調教師の中野はホクトベガの馬体を見て「牝馬には繁殖に向いた馬と競走に向いた馬があるが、ホクトベガの馬体は明らかに競走型である」として、ベガやユキノビジンなど同世代のクラシック路線を競った牝馬たちが次々に引退し、繁殖生活に入るのを横目に競走生活を続行させ、果たして5~6歳になってからダート路線で大活躍した事は有名である。
[編集] 主な勝ち鞍
- エリザベス女王杯 (GI)
- フェブラリーステークス(GII)
- フラワーカップ(GIII)
- 札幌記念(GIII)
- エンプレス杯(2回)
- 川崎記念(2回)
- ダイオライト記念
- 群馬記念
- 帝王賞
- マイルチャンピオンシップ南部杯
- 浦和記念
[編集] 血統表
ホクトベガの血統 (ノーザンダンサー系/アウトブリード) | |||
父
*ナグルスキー Nagurski カナダ 1981 鹿毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
Deceit 1968 黒鹿毛 |
Prince John | Princequillo | |
Not Afraid | |||
Double Agent | Double Jay | ||
Conniver | |||
母
タケノファルコン 1982 黒鹿毛 |
*フィリップオブスペイン Philip of Spain 1969 黒鹿毛 |
Tudor Melody | Tudor Minstrel |
Matelda | |||
Lerida | *マタドア | ||
Zepherin | |||
クールフェアー 1978 栗毛 |
*イエローゴッド | Red God | |
Sllay Deans | |||
シャークスキン | シルバーシャーク | ||
Artrevida F-No.9 |