志賀島
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志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮である。
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[編集] 地理
砂州により本土と陸続きになった陸繋島。全国的にも珍しい。和白方面から志賀島和白線が続いている。島には3つの集落がある。海の中道から志賀島に入る道のある南東部にあるのが志賀、西部にあるのが弘、北部にあるのが勝馬である。また、志賀と弘には漁港がある。勝馬に漁港はないが、田畑が広く、農業が営まれている。島を一周する志賀島循環道路は、福岡県西方沖地震の際、崖崩れが起こり、道路が寸断された。しばらくの間、勝馬・志賀間の通行ができなかったが、2006年10月18日に復旧した。
[編集] 歴史
- 日本書紀や古事記に綿津見神の祭主・阿曇氏についての記述が見られる。
- 筑前国風土記に神功皇后の三韓征伐の際に立ち寄ったとの記述が見られる。これには古代の半島・大陸との海上交通における志賀島の泊地としての役割が反映されていると考えられる。
- 万葉集において、柿本人麻呂の「大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ」と詠まれる。“島門”とは博多湾への入口に位置する志賀島と能古島を門に見立てた謂い。
- 文永11年(1274年)、元寇にて蒙古軍が志賀島で捕虜となり、うち120人ほどが首切塚(蒙古塚)で斬首されたとされる。
- 弘安4年(1281年)、能古島とともに元寇東路軍の停泊地となり、陸路西戸崎から攻めてきた鎌倉幕府軍との戦闘がおこなわれる。また海上では日本側の夜襲がおこなわれもした。島内に残る火炎塚のある場所では高野山の僧侶によって敵軍退散の祈祷がおこなわれた。
- 天明4年(1784年)、金印(漢委奴国王印)が甚兵衛という志賀島の農民により田んぼを耕している最中に偶然発見された。
- 明治22年(1889年)、糟屋郡志賀村が発足。
- 昭和28年(1953年)4月、糟屋郡志賀町として町制施行。
- 昭和46年(1971年)4月、福岡市に併合される。
- 平成17年(2005年)3月20日午前10時53分頃、福岡市北西約40キロ沖を震源とするマグニチュード7の福岡県西方沖地震が発生。震源に近い志賀島では住宅や神社仏閣などの損壊が発生し、また島を周回する県道志賀島巡回道路が崖崩れや道路の亀裂により通行止めとなった。
- 平成18年(2006年)10月18日、西方沖地震以来不通となっていた、福岡県道542号志賀島循環線勝馬・志賀間(北岸)が復旧。島の周回道路は全線通行可能になった。
[編集] 観光
- 志賀海神社
- 潮見展望台
- 二見岩
- 金印公園
- 蒙古塚
- 休暇村志賀島
- 勝馬海水浴場
- 白瀬(ダイビングスポット)
- 黒瀬(ダイビングスポット)
- 赤瀬(ダイビングスポット)
[編集] 交通
博多埠頭より市営渡船が運航されている。道路が本土と繋がっているため陸上交通によるアクセスが可能。福岡市内から西鉄バスの路線バスが運行しており、また西戸崎駅からバスに乗り換える手段もある。
[編集] 外部リンク
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