プーマ
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- スポーツ用品メーカー。下記の詳述参照。
- ドイツが開発中の歩兵戦闘車。→プーマ装甲歩兵戦闘車
- イタリア軍の装備する装甲車。→プーマ軽装甲車
- ブラジルにかつて存在したスポーツカーメーカー。→プーマ(自動車)
- 旧ラオス王国で首相を務めたラオスの政治家。→スワンナプーマ
プーマ(PUMA AG Rudolf Dassler Sport)は、ドイツヘルツォーゲンアウラッハを本拠地とする世界的なスポーツ用品・スポーツウェア等を製造から販売までしている多国籍企業。
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[編集] 創業者
ルドルフ・ダスラー
[編集] 歴史
プーマの原点は1924年にアドルフとルドルフのダスラー兄弟が体育館用のシューズを開発したことに始まる。靴工房を運営した父クリストフ・ダスラーは、その後子孫であるアドルフとルドルフの2人の兄弟に対し、ヘルツォーゲンアウラッハ地域の慣例に従って靴職人になるように言い伝え、靴工房での修行を行うようになり、水車小屋からフェルトクズを得て、そこからゴムチューブなどでスリッパを作り、各地の市場に販売された。
1920年、ダスラー兄弟商会設立。1924年それを応用し、靴紐の変わりにゴムの付いた革底を使用した体育館シューズを開発し、1925年地元の体育協会が1万足を注文したことで利益を上げ、工場の増築が図られるようになった。ルドルフはその後、著しく発展し世界的なスポーツとなりつつあったサッカーで使用するシューズや、知人で陸上競技のコーチであったヴァイツァーの提案による陸上用シューズの開発を行い、世界恐慌になりかけていた1928年には実に8000足を売り上げ、アムステルダムオリンピックでも参加者の多くはこのダスラー社の靴を使用していた。
その後、一旦1933年ごろから不況のあおりをまともに受けて経営危機に立たされたが、1936年のベルリンオリンピック開催が決定すると、その売り上げが原料不足になるほどまで急上昇していった。その後1935年にポスターによる広告活動が開始された。だが、第二次世界大戦の影響で一旦生産が規制され、1942年ルドルフも兵役に徴兵された。
その後、兄弟は喧嘩をしてしまい1948年に独立して、アドルフはアディダス、ルドルフはルーダを設立。このルーダが1949年からプーマというブランドに生まれ変わった。このプーマとはアメリカライオンのピューマから命名された。
[編集] サッカー
サッカー選手達にとっては定番中の定番ブランドである。おそらく、ペレ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナ、ローター・マテウスなど世界でもトップクラスのプレイヤー達が履いていた影響もあるだろう。日本においても、三浦知良をはじめとして、プーマのスパイク使用のトップ選手は多い。現在では、テレビコマーシャルにペレを起用している。
[編集] WRC
フォード社のマシン、フォーカス RS WRCやサテライトカテゴリーのジュニアWRCで走らせているフィエスタにもスポンサーをしている。
[編集] 日本における活動
尚、プーマは全国高校サッカー選手権大会の協賛スポンサーを第84回大会から担当している。(それまではナイキが協賛スポンサーだった)
これまでは(2000年以前位)、サッカーに携わる人以外にはさほど馴染みの無いブランドで、ナイキ、ミズノ、アディダス等のメーカーよりサッカー以外のスポーツでは見かけることは無かったが、近年のサッカーブームやプーマロゴが女性に大変受けており、これまでなかった女性を意識したデザインや色柄も最近品揃えがある。
[編集] 日本での販売
- プーマ・ジャパン(独PUMA.AGの日本法人、日本国内におけるPUMAの販売代理店業務および全権利の管理)
- ※2003年5月に独PUMA社の日本法人であるプーマ・ジャパンが設立されたことにより
- コサ・リーベルマンはPUMA事業から撤退した。
- プーマ・アパレル・ジャパン(プーマ・ジャパンとヒットユニオンのよるジョイントベンチャー、日本国内におけるPUMA APPARELの販売代理店業務)
- ヒットユニオンはPUMAの販売事業から撤退した。
[編集] 直営店
- プーマストア
- 原宿、大阪、福岡、仙台
- プーマアウトレット
- 軽井沢、長島、神戸
[編集] ライセンス販売
[編集] 外部リンク
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