戊戌の変法
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戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、清において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為、梁啓超、譚嗣同らの変法派によって行われた、政治改革運動。日本の明治維新に範を取って上からの改革により清朝を強国にするという、変法自強運動の集大成。あまりに短い改革の日数をとって、「百日維新」と呼ばれることもある。
変法の法とは、単に法律を意味するのではなく、政治制度も含めたシステム全体を意味する。すなわち変法とは、それまでの伝統的な政治外交礼制などを大きく変えることを含意したことばであることに留意しなければならない。具体的には、科挙の改革とそれに代わるべく計画された近代的な学制の整備、新式陸軍の創設、訳書局・制度局の設置、懋勤殿の開設(議会制度の導入)など、主に明治日本に範をとった改革案が次々と上奏・布告された。
この戊戌変法は、康有為を中心とする一派と張之洞や文廷式、厳復といった政権内外の改革積極派が手を取って推進したものであったが、時間の経過とともに両者の間に不協和音が生じ、康有為一派以外の人々が離反してしまう事態となる。あるいは離反しなかった者も保守派のために更迭を余儀なくされ、康有為たちは次第に追いつめられていく。伊藤博文の来華中に戊戌の政変と呼ばれる西太后派のクーデターが発生したために変法運動は挫折した。よって以上に挙げた施策はほとんど実行されずに終わってしまう。
このような上からの改革が失敗したことにより、同様の手法により清を建て直すという手段への期待は失われ、また光緒26年(1900年)の義和団事変後の清朝の惨状への失望も加わり、1911年の辛亥革命への大きな流れが形作られていくことになる。
ただ戊戌変法は確かに短命な改革ではあったが、その意義は決して過小評価できるものではない。実行されなかった各種改革案も、清朝末期に戊戌政変を引き起こした当事者たる西太后たちによって再度取り上げられている。また改革の際、(実質政党の原型であった)学会を各地に創設したり、プロパガンダに新聞を活用するなどの政治手法を積極的に中国に持ち込んだ功績は認められなければならないであろう。
[編集] 関連項目
[編集] 関連文学
- 『蒼穹の昴』 浅田次郎著 (1996年) ISBN 4-06-274891-6
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