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日本航空123便墜落事故 - Wikipedia

日本航空123便墜落事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日、当時の日本航空123便、東京(羽田)大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山[1]に墜落した事故である。

単独の航空機事故では史上最大の死者を出した。運輸省(当時)航空事故調査委員会による事故調査報告書[1]によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名にのぼり、その中には歌手の坂本九阪神タイガース球団社長などの著名人も多数含まれていた。生存者は4名で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。また、この事故が航空業界のみならず国内社会全体に大きな衝撃を与えたことから、一般的に「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」と言う場合、この事故を指すことが多い。

ボーイング747型機(-200型、外観は塗装以外ほぼ事故機と同様)
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ボーイング747型機(-200型、外観は塗装以外ほぼ事故機と同様)

目次

[編集] 事故の経過

[編集] 事故当日のJAL123便

当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、伊豆大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、18時56分大阪(伊丹)着のフライトプランだった。使用機体はボーイング747のJA8119であった。 JA8119は同日、503便と504便で羽田~札幌、363便と366便で羽田~福岡を往復する定期便として飛行し、123便で5回目。伊丹到着後、126便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定だった。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量だった。

乗務員は、49歳の機長、39歳の副操縦士、46歳の航空機関士の3人のコックピットクルーと、客室乗務員(男性1人、女性11人)12人の計15人、乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった。

18時4分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて[2]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。

[編集] 異常事態発生

18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft (7200m)へ向け上昇中、23900ft (7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊される。その際、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。そのため、エンジンと電気系統は無事なものの、油圧を使用しての操縦は不可能の状態に陥ってしまう。フゴイドやダッチロールをおこした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すものの、クルーの決死の操縦により17分間は20000ft (6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft (4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。

[編集] キャビン内の状況

機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス(緊急事態発生の際に自動的に流れ始め、予め録音してある男性の声で乗客にシートベルトの着用や安全姿勢を指示する音声)が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備えたのか、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、みな落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。これらの遺書は、後に事故現場から発見された。客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、コックピットの放送録音装置には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予感してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで残っていた。

[編集] 地上との交信

123便は18時25分頃に緊急救難信号「スコーク77 (7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部 (ACC)に受信される。直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、ACCは了承、どちらに旋回するか尋ねると機長は右旋回を希望する。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。27分、ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し123便から宣言が出された。その後123便を羽田へ誘導し続ける。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。28分、ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。

31分、ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。33分頃から日航はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下してるので後ほど呼び出すまで待機するよう求められ、日航は了承した。

40分、ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便専用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが返答は無かった。42分、123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信がし続けられる。そのため、ACCは交信が入る機に個別で指示し続けた。

45分、無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍横田基地 (YOK)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが羽田 (APC)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。47分、123便は千葉木更津へレーダー誘導するよう求め、ACCから真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、123便から「アンコントローラブルです」と返答がきた。その後、APCの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。48分、何故か無言で123便から機長の荒い呼吸音がACCに記録されている。49分、123便からの応答がこない為、日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。

53分、ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と疲れ果てた声で無線が入ってくる。ACCとYOKが返答、YOKは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPCの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。54分、日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APCが羽田から55マイル (100km)北西で、熊谷から25マイル (45km)西と告げる。55分、APCから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後にAPCが123便に対し、飛行計画を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPCとYOKが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。

57分、YOKが123便に対し、貴機は横田から35マイル (65km)北西の地点におり、横田基地に最優先で着陸できると交信、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、クルーや関係機関の奮闘むなしくこの時すでに123便は墜落していた。

[編集] コックピットの状況

衝撃音がした直後、機長は地上への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。

ところが、管制官の「どちらに旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。

ボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、すでに操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、更には副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。

ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。最初に残っていた音声は事故直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取り中、冷静で正常な客室乗務員の声とは裏腹にパイロット達の会話は正常な飛行状態では異常ともとれる緊迫した声だったと分析されている。この緊迫を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。

18時24分35秒頃、コックピットのボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。直後に機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士は「油圧」が異常に低下していることに気づく。25分、機長はスコーク77を発信し、ACCに羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンク(迎え角)とるなそんなに」と怒鳴っている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。そして、僅か3分足らずの27分、圧力の喪失を示すと思われる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が残されている。

そして同じころ客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下させていった。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイトやダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が残っている。

31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案、[3]35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(壊れる)しました」と連絡している。[4]

37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、パイロットはギアの自重により着陸ギアを出すバックアップシステムを用いて着陸ギアを降ろした。この操作によって機体は右に大きく旋回しながら高度を下げ、更には横揺れが縮小され多少機体が安定した。

46分、機長が「これは駄目かも分からんね」との呟く様な独り言を残している。47分、この頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が操縦している副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft (1800m)前後をさまよっていた。更にこの間航空機関士が副操縦士の補助をしていた様子である。

49分頃、機首が39度も上がり、速度は108kt (200km/h)まで落ちた。その頃から機体の安定感が崩れ何度も失速を繰り返し、そのたびに最大出力「マックパワー」を指示する声が残っている。50分、機長が「あたま下げろ」との指示に対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続く失速を抑えるため、電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定しだした。この緊迫の中、48分頃から不安定な飛行を押さえるこの頃まで、所々お互いを励まし合う声が記録されている。

54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね熊谷から25マイル西の地点であると告げられる。その直後55分頃、暫く安定してた機体が再び機首が上がり速度180kt (330km/h)まで落ち失速しかけため、フラップを限界まで下げて機体を水平に戻そうとした。しかしフラップを下げた途端、大きく機体は右にそれながら急降下を始める。彼らはすぐさまフラップを引っ込めるとともにエンジン出力を上げ、機首を上げようとした。

[編集] 墜落

3名の必死の努力の甲斐もなく、123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動。同20秒頃、機体は僅かに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触、反動で一度は浮上したものの機体は大きく機首を下げ右側に傾き、26秒に右主翼が地面を抉り、機体の強度が失われ破壊が始まり、垂直、水平尾翼、右主翼が脱落。28秒、機体後部が離脱、その後機体全体の破壊が始まった。機体は機首を下げながら右側に回転して行き、18時56分30秒、高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。墜落前、クルーたちが機首を上げるためエンジン出力を上げたことで速度は346kt (640km/h)に達していた。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーにも23秒と26秒に衝撃音が残されている。また、一度目の衝撃音の直前には機長ともう1名(誰かは不明)の「もうだめだ」との叫びが残されていた。

衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。機体の大半は大破し原型を留めていなかった。しかし、客室後部はそれ以外の機体部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために、墜落当初は生存者が多数いたとの生存者の証言があった。最終的には4名が生還した。

[編集] 捜索・救難活動

123便の機影は墜落直前、18時56分02秒にレーダーから消失した。高度3000m以上は絶対監視されていることから、レーダー(アンテナは箱根山の山頂)にも写らない低空飛行、地上への墜落、のいずれかの事態が考えられた。18時59分、救難調整本部が警視庁航空自衛隊海上保安庁に通報した。一部関係者は低空飛行をし続けている事を願い、日航、ACCなどが123便に対して呼び出しを続けていた。社内専用無線では同僚たちからクルー達への励ましの言葉も伝えられたと言う。19時21分に自衛隊機が秩父市近郊[5]で山火事を発見、一部で123便の墜落地点かと推測も飛び交ったが、日航、ACCなどは諦めずに交信し続けたという。だが19時半を過ぎても依然としてレーダーに123便の機影は写らず、何処の空港や基地にも123便が着陸したとの情報も無く、墜落がほぼ確実なものとなった。たとえ低空飛行を続けていたとしても、燃料が底をつく頃と推測されたため、各機関は捜索準備に掛かった。レーダー消失地点等から捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定され、19時45分運輸省に捜索本部が設置され、捜索が開始された。そして20時30分、関係機関は山火事が確認された長野県南佐久郡近郊が123便の正式な墜落地点とした。

複雑な地形・険しい山地という悪条件が重なり、ちょうど日暮れの時間帯であったことから、一部の新聞社などのヘリコプター、自衛隊機では墜落現場を確認できたが、正確な場所の特定にはなお時間がかかった。救助も当時のヘリコプターでは、夜間の接近は困難であったために、地上からの救出に全力を挙げることとされたが、すでに夜間であったため、レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出したのは13日午前4時前だった。大半は徒歩で現場まで向かい、付近は険しい地形だったため墜落現場に到着したのは事故から14時間ほど経った13日午前8時半だった。捜索開始当初、墜落現場は長野県側ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁の発表やNHKの報道による「墜落現場」が二転三転して、おおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。

現場に一番早く到着したのは日の出とともに登った地元の消防団である。運送中の医療用放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も、到着が遅れた原因の一つになった。生存者の証言によると、墜落直後はまだ多くの人が生きていた様子が窺われる。

現場は悲惨そのものだった。墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、盛夏であったために遺体の腐敗の進行も早かった。遺体は機体から投げ出され樹木に突き刺さったもの、機体の残骸に挟まれたり切断されたもの、一部が落下の衝撃で地中深くに埋もれたものなどで散乱していた。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部分も少なくなく、また当時は、DNA鑑定技術も確立されていなかったために、身元の特定は困難を極めた。地元群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆け付け、猛暑・悪臭等の劣悪な環境の中で判別作業が進められたが、520人の犠牲者のうちほぼ五体揃った遺体として発見されたのは約200体程度。他は身体の一部(機長はのみが発見されている)や遺留品のみで識別され、身元が判別できないままの、膨大な量の遺体片が残された。また、アメリカ人1名を含む2名の身元は遂に確認できなかった。最終的な身元確認作業の終了までには、約4ヶ月の時間と膨大な人員を要した。最終的に確認できなかった部位は、12月、合同慰霊祭で埋葬された。

[編集] 自衛隊の捜索協力

事故直後、災害派遣命令が下されるよりも前に、航空自衛隊百里基地から当時スクランブル待機していた、第305飛行隊のF-4EJ戦闘機が緊急発進して現場へ向かったほか、航空自衛隊のヘリコプターも、夜間にもかかわらず現場で詳細な位置を確認して報告した(同基地のRF-4偵察機は、当時即応体制になかったため、発進は翌朝6時だった。)。

当時、公試中であった海上自衛隊護衛艦まつゆき」(艦番号DD-130)は、相模湾で、事故機の垂直尾翼の一部を偶然発見。揚収・回収に成功し、その後の事故原因の解明に、大きく寄与することとなった。

正式に災害派遣命令が下された後に、陸上自衛隊の部隊などが現地入りして捜索救出活動を行った。現場は険しい山中であったために車輌の進入やヘリコプターの着陸が容易ではなかった。遺体の収容に先立って生存者4名が陸上自衛隊の輸送ヘリコプターV-107によって現場から救出・搬送された。この際の、上空でホバリング中の機体への生存者の収容作業は、救出活動を象徴する映像となった。

その他に、自衛隊はマンパワーや重機を活かして、遺留品の捜索、ヘリポートや簡易道路の建設などで大きな役割を果たしている。当時のメディアでは、先のヘリコプターの映像を除いて、自衛隊の支援はあまり報じられず、むしろ自衛隊の出動が遅いと批判する声が上がっている。当時の自衛隊には夜間しかも山間部での救難活動が可能なヘリコプターが無く、これを教訓として1990年より順次UH-60 ブラックホーク救難ヘリコプターが調達されている。

第一空挺団は政府の命令なしに独自の判断で出動、当時の貧弱な装備では非常に危険な夜間の降下を上申している(却下された)。さらに待機人員が通常よりやや少ない盆休みの時期にもかからわず隊員は迅速に出動して凄惨な現場で活動しており、現場レベルでの尽力は評価されるべきものである。自衛隊組織ないしは政府機関相互の連携の問題として墜落現場の情報を有効に活用できなかった点が悔やまれる。

生存者の救出につながった独自出動だが、空挺団司令は「謀反の可能性あり」と左遷された。

[編集] アメリカ軍の捜索協力

墜落機の飛行状況は、在日アメリカ軍も把握していた。「公開された」コックピットボイスレコーダーによれば、横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し呼びかけていた。

"JAPAN AIR 123 JAPAN AIR 123 If you hear me, attempt contact 129.4."(日本航空123便、日本航空123便、聞こえていたら周波数129.4で応答せよ)
"JAPAN AIR 123. This is YOKOTA APPROACH CONTROL on guard. If you hear me, squawk 5423, contact YOKOTA 129.4."(日本航空123便、こちら横田アプローチ。貴機の救援にあたっている。聞こえていたら識別信号5423を発信し周波数129.4にて応答せよ)
"JAPAN AIR 123, JAPAN AIR 123 This is YOKOTA APPROACH CONTROL on guard. Your position is 4・・・35 miles northwest of YOKOTA. Your are clear to land at YOKOTA. Repeat, you are clear to land at YOKOTA"(日本航空123便、日本航空123便、こちら横田アプローチ。救援にあたっている。貴機の現在地は横田アプローチの北西4…35マイル。貴機は最優先で横田アプローチに着陸が可能。繰り返す、貴機は最優先で横田アプローチに着陸が可能)

墜落場所も早い段階で把握していたとされており、墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ軍C-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。

その後、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、アメリカ軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加と政府の迅速な判断に課題を残した。なお警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも言われている。また、後の原因究明の際に問題になったように、「証拠隠し」をされかねないことを懸念したという陰謀論都市伝説まがいの説もある。

この在日アメリカ軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明にはアメリカ軍の現場特定、救出活動の申し出はすべて誤報であったとして否定された。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を呼ぶ一因ともなった。なお、事故より10年後に、在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であったとして改めて発表されている。尚、上記の内容は、長い間、表に出る事は無かったが、新潮社週刊誌に詳細記事が掲載されたり、上智大学文学部が英語の入試問題として、このC-130輸送機の操縦士の手記を載せたことから再び議論が高まったといえる。

[編集] 報道

当時放送されていた日本テレビの「ザ・トップテン」(当時:毎週月曜午後8時)では番組冒頭に、報道センターから小林完吾アナウンサー(当時:日本テレビ在籍)が速報で報道、その後時折中断して、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(その時はまだ墜落は不確定)についての最新情報を報道した、午後9時以降は通常番組を止め、日本航空123便行方不明報道特別番組に変更していった。

乗客名簿に名前があったがキャンセルした人がいて、その人の自宅に地元の報道陣が詰めかけ、家族も諦めていたところへ本人がひょっこり帰ってきて皆を仰天させたという話がある。

事故の一報を他局より先にキャッチしたフジテレビは、ニュース速報を流した直後の午後7時半頃からレギュラー番組をすべて休止し、露木茂アナウンサーをメインにした報道特別番組を約10時間に渡り放送している。翌朝には中継に必要な機材を現場に運び上げ、FNNニュースレポート11:30において生存者救出の映像を事故現場から生中継した。

各在京のテレビ局は午後9時以降『日航ジャンボ機行方不明・報道特別番組』に変更され、翌朝13日午前5時頃に墜落現場上空からのヘリからの生中継が伝えられるまで、最新情報や乗客名簿の読み上げが続けられた。 各テレビ局は終夜放送が行った、この出来事以降終夜放送が行われたのは1995年1月17日に発生した『阪神・淡路大震災』まで行われなかった。

最初に、現場へ到着したカメラマンは、FLASHが専属契約をしていた大学生アルバイトカメラマンだった。カメラマンの間では、今でも日航機事故の話題が何かと上る。日航機事故の報道・撮影をしたかどうかで、その後のカメラマン生活が変わったという声がある。

なお、報道カメラマンが事故現場に多数入ったため、事故現場にカメラマンが捨てたフィルムの空箱が至る所に散乱していた上、撮影に夢中になるあまり事故の証拠や遺品などを多数踏み潰していたと言う事故調査関係者の証言がある。救助隊が造った即席のヘリポートに報道ヘリが勝手に着陸して救助隊員が負傷したという証言もある。

[編集] 事故の原因

航空・鉄道事故調査委員会の前身、当時の航空事故調査委員会が結論付けた事故原因の要点は以下の通りである。

  1. 1978年6月2日伊丹空港で同機がしりもち事故を起こした。
  2. その後のボーイング社による修理が不適切であったため、圧力隔壁金属疲労が蓄積した。
  3. そのために、飛行中に圧力隔壁が破壊されて、航空機後部の4系統ある油圧操縦システムの全てが失われて操縦不能に陥った。

しかし、「航空事故調査委員会による結論」は、当時の乗員・乗客の行動や生存者の証言との矛盾点として、圧力隔壁破壊があった場合に起きる急減圧、室温低下などが証言からは発生したことが窺えない点が指摘されている。それによれば、圧力隔壁が破壊された場合、急に機内の気圧が低下し、乗員・乗客が意識を失う可能性が高いにもかかわらず、同機では前述のように遺書を残したり、機内を撮影した乗客がいることを考えると急減圧が起きていなかったのではないかと推測されるのである(2005年8月14日にキプロス・ヘリオス航空のボーイング737型機がギリシャ北部の山中へ墜落したヘリオス航空522便墜落事故では、与圧装置の故障によって上記の「急減圧」が発生し、操縦士が気を失ってしまったことが原因とされている。救援に向かったギリシャ空軍戦闘機のパイロットが目撃。急減圧が発生すれば人体への影響が大きい事を示している)。

この矛盾の説明として、フラッター現象や機体の構造的欠陥(2002年に機体の老朽化によりチャイナエアラインのボーイング747型機が南シナ海海上で空中分解を起こした中華航空機空中分解事故がある)などの他の原因を主張する専門家・ジャーナリストも多い。また、垂直尾翼が破損した後に多くの部品が相模湾に落下したが、なぜか事故調査委員会や日本航空が、事故原因の鍵を握っているはずのそれらの部品の捜索、引き上げをまったく行なおうとしなかったことが、「航空事故調査委員会による結論」を疑問視する一つの理由にもなっている。

他にも、自衛隊の無人標的機やミサイルなどの他の飛行物体との衝突説や、機内爆弾説を主張するジャーナリストも存在するが、これらの説には「航空事故調査委員会による結論」以上に矛盾点が見られる。

いずれにしろ、ボイスレコーダー (CVR)とフライトレコーダー (FDR)の完全公開による真相究明が待たれる。尚、ボイスレコーダーは現在日本航空が管理していて、今後、再調査の必要が生じれば提供する用意があるとのことである。日本航空機長組合[2]、日本航空乗員組合[3]は2006年11月現在も事故調査結果に納得しない旨、再調査を求める意見をホームページ上に掲げている。

[編集] 乗客

[編集] 一般の乗客

この日は「お盆の入り」で、夏休み中でもあり全国において休みに入っていた人々が多かった。そのため、同機には故郷への帰省客や翌日に行われる甲子園球場での高校野球選手権大会に出場する学校の関係者(観戦のため一人で搭乗していた9歳の少年も犠牲となった)、出張帰りのサラリーマンのほか、茨城県筑波郡で開催されていた筑波科学万博東京ディズニーランドなどから帰宅する者や海外からの観光客も多く搭乗していて、ほぼ満席の状態であったが、そのほとんどが帰らぬ人となってしまった。

[編集] 著名人

同機には歌手坂本九や元宝塚歌劇団娘役で女優北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガースの中埜肇球団社長(彼の死で阪神ナインは一層奮起し優勝できたという)、在阪報道機関への犯人からの「終結宣言」がその日の夕刊に掲載されたグリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長、伊勢ヶ浜親方(元大関清國)の妻子、大脳生理学の世界的権威で大阪大学教授塚原仲晃コピーライター中島らもの師匠でもあった藤島克彦をはじめとする著名人などが多く乗り合わせていたが他の乗客と共に亡くなった。

[編集] 奇跡的に事故を免れた著名人と乗客

宝塚歌劇団雪組の麻実れいは車が遅れたために搭乗に間に合わず、タレント明石家さんまは搭乗する便を123便より一本早くしたため、フジテレビの逸見政孝アナウンサーも妻の勧めで直前で取り消して東海道新幹線を利用したため、それぞれ奇跡的に事故を免れた。

その他、西川のりお長江健次田原俊彦らも搭乗予定だったという話もある。

事故当日のダイヤでは、18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で全日空機が飛んでいて、日航機に乗るのか全日空機に乗るのかで生死を分ける結果となった。その日その時間帯に限って羽田空港と浜松町を結ぶモノレールが10分程度遅れたため乗り遅れて、結果的に難を逃れた客もいた。

[編集] その後

[編集] 事故後のJAL123便

この事故以降、JAL123便は翌日は欠航、その後8月14日~31日までは123便のままで運航していた。9月1日から1ヶ月間は同ダイヤで応急的に133便となり、同年10月以降は同ダイヤで125便として運航が継続されることとなった。以降、JAL123便は欠番となる。

1994年9月には関西国際空港が開港し、大阪便としての便数振り分けに伴って伊丹便は便数減となり、同ダイヤで107便となり、120番台便名は使われなくなった。2000年4月には昼間時間帯に増便されたため同ダイヤで109便となった。

1997年7月には羽田 - 高知便が開設され、120番台便名が使用されることとなったが、2往復中、羽田発が121便と125便、高知発が122便と126便で、ここでも123便は使われなかった。

2003年4月には日本エアシステムとの統合準備に伴い、羽田 - 高知便は日本エアシステムによる運航に統一されたため、再度120番台便名は使われなくなった。翌年の便名4桁化まで使われることはなかったため、この時点で日本航空の120番台便名は消滅した。

2004年4月の日本航空と日本エアシステムの統合後は、便名4桁化に伴い同ダイヤで1525便として運航されていたが、2005年11月に運航ダイヤが調整され、1525便は18:30発に変更された。

[編集] 事故の影響

事故直後から長年根強く原因とされていたのが「操縦ミス」によるクルーの過失だった。事故前、日航ではトラブルが多発していたうえ、事故3年前日航が起こした羽田沖墜落事故では機長の異常な操縦が原因で墜落した例もあり遺族は日航関係者やクルー、更にはその家族に怒りをぶつけた。クルー遺族には連日嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次いだ。更には遺体安置所では日航社員が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出たため、クルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後の深夜、裏側からひっそりと入り数十分間だけの限られた時間で確認させる処置がとられた。また、職場では客室乗務員や空港関係者に対する嫌がらせも一時問題となっていた。

事故の数年後、墜落したJA8119が大阪国際空港でしりもち事故を起こした際の機長や、JA8119などの機体の整備を担当していた整備員が自殺している。

また事故当時、後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告看板が事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消された。他にもテレビや雑誌新聞などの広告が一定期間出稿停止された。

事故後、日本航空が支払った賠償金の総額は、約600億円である。以後数年間、特に帰省ラッシュ時に競合相手である全日本空輸東亜国内航空に利用者が急増して日本航空の業績は大幅に悪化する事態となった。また、もう1つの競合相手である東海道新幹線(および鉄道全体)の利用客も増加した。

[編集] 現在

現在、墜落現場である「御巣鷹の尾根」には慰霊碑が建てられ、毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。しかし、事故発生から20年余り経過した現在では遺族の高齢化が進んでおり、慰霊登山を断念せざるを得ない遺族が増えているのが実情である。

事故から15年を目前とした2000年、クルーの遺族が長年訴え続けたボイスレコーダーの音声がクルー遺族のみに(日航に返却する条件で)テープで公開された。しかし、同年7月~8月にかけて事故調査の資料がマスコミなどに大量に流出した。この中にはボイスレコーダーの音声テープも入っており、以前にクルー遺族が聞いた音声よりも鮮明だったという。8月8日にはテレビで一部音声が全国で放映され、この報道によってクルーの努力が明らかとなり、それまでクルーに批判的だった多数の乗客遺族らから、感謝や過去に非難・批判した事の謝罪の声が、クルーの遺族に届けられたという。

事故から20年目に当たる2005年8月12日JALウェイズの福岡発ホノルル行きのDC-10が離陸直後にエンジンから発火し、部品が福岡市東区の住宅街に落下するという事故が起きた。この日の午前中の慰霊行事で社長が二度と事故を起さない旨の挨拶をした直後に発生した事故で更には2005年以降日本航空でのトラブルが多発した為、同事故の遺族をはじめ各方面から批判の声があがった。

2006年4月24日羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された[4]。JA8119残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席)、飛行記録装置、コックピット音声記録装置など、事故に関する資料を展示している。一般公開されているが事前の申し込みが必要となる。

[編集] その他

陸上自衛隊はこの事故による出動の際、メーカーから「野外入浴セット」の提供を受けた。これが隊員の疲労回復に役立つと判明したため制式採用されることとなった。

全世界の航空機パイロットは、エンジンパワーの操作のみでも、ある程度までは飛行機の操縦が可能であることを、この事故から学んだ。

事故当時、刊行されていたJAL機内誌の当月号には、連載中の全国市町村巡りの記事があり、墜落現場である上野村村長の記事が掲載されていたという、恐ろしいまでの偶然があったことは、有名である。

[編集] 陰謀論

またこの事件には数多くの陰謀論が存在する。主に「航空自衛隊機による誤撃墜」、「自衛隊演習機や標的機の衝突」、「証拠隠滅のための救出活動を延期(生存者の殺害をはかったもの)」などがあげられる。事故原因を分析するウェブサイトや書籍の中には、真偽が疑わしいページも含まれていることは留意すべきである。

[編集] 海山論争

事故調査委員会の推定では、事故発生後の数分間は油圧を使った操縦が可能で、旋回したのち操縦不能となったとされている。羽田に戻ることを宣言した123便は、陸上を進むことになる右旋回を要求しているが、このとき左旋回をして海の方へ進路をとることができたとして、この判断を問題とする見解もある。一部掲示板等では、かかる意見を持つグループを海派、それ以外を便宜上山派などと称し、議論が繰り返されているが答えは出ていない。

[編集] 事故を題材にした出版物

この事故が社会的に与えた影響は大きく、この事故をテーマにした文学やマンガも数多い。代表例としては、同事故を含めた当時の日本航空を社内から描いた山崎豊子の『沈まぬ太陽』、地元新聞社の苦悩を描いた横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』が挙げられる。ほかにも漫画では『金田一少年の事件簿』に日航機事故をモチーフとした殺人事件が、『海猿』では同様の原因で着水する事故が取り上げられている。また『ゴッドハンド輝』では、主人公・真東輝が少年時代、天下航空機事故の唯一の生存者であるという話が取り入れられている。

[編集] 脚注

  1. 墜落地点は御巣鷹山のすぐ南の高天原山(たかまがはらやま)にある無名の尾根である。後に、この尾根は、上野村村長であった黒沢丈夫によって「御巣鷹の尾根」と命名されるが、実際は御巣鷹山に属する尾根ではない。
  2. 資料によれば遅れは4分ほどだった。各航空会社は、15分以上の遅延で初めて「遅れ」としていた為、当時123便は一応「定刻」で離陸したことになる。
  3. 酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、墜落まで着用された形跡はない。その理由については不明である。
  4. R5のドアは墜落現場で破損していない状況が確認されている。また、機長に対しては「荷物の収納スペースのところがおっこちてる」と報告しておりR5に関しては酸素マスクの異常についてのみ報告している。なぜ「R5のドアがブロークン」と連絡したのか、そもそも、連絡がどのような内容であったかは不明。
  5. 後述の通り、この時点では上空からの大よその特定のみで、墜落現場の正確な地点の発表や報道はされていない。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

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