国鉄キハ58系気動車
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国鉄キハ58系気動車(こくてつきは58けいきどうしゃ)は、旧日本国有鉄道が1961年に開発した急行形気動車である。
1969年まで大量製作され、1960年代から1980年代にかけて、幹線・ローカル線を問わず日本全国で急行列車に多用された。
なお、「キハ58系」という表記は、同用途の同系車体をもつ国鉄気動車を趣味的もしくは便宜的に分類したものであり、国鉄が定めた正式のものではない。
目次 |
[編集] 概要
1960年代、蒸気機関車牽引列車を置き換え、スピードアップと居住性改善を図る無煙化を目的に大量製造され、日本全国で急行列車として運用された。
明るく見通しの良い広い車内と大きな1段上昇窓を備え、蒸気機関車の引く旧来の客車とは一線を画した『速くゆとりのある旅』を乗客に提供した。幹線・ローカル線の別なく、全国に気動車急行列車網を完成させた車両である。その朱とベージュの塗色は地方の風景に溶け込む秀逸なデザインであり、1990年代初頭まで長きにわたり、ローカル線の点景として欠かせない存在でもあった。
1970年代以降、幹線電化の著しい進展に伴い、急行列車の電車化、さらには特急格上げが進められたことから、気動車急行列車は徐々にその運用域を狭めた。キハ58系も1980年代以降はローカル線の普通列車用として多くが転用されている。
後続形式の増備に伴って大幅に在籍数は減少したものの、2006年時点でも本州以南の地域で若干が運用されている。
[編集] キハ58系の主要形式
一般に「広義のキハ58系グループ」として扱われるのは、北海道用の耐寒耐雪型キハ56系、信越本線用の空気ばね装備車キハ57系、本州以南向けの標準型であるキハ58系の3系列である。これらの系列全体の製造両数1,823両は、日本のディーゼルカーとしては史上最多で、一時は国鉄在籍気動車の3割を占めたこともあった。
本項目では主に狭義のキハ58系について記述し、キハ56系、キハ57系についてはキハ58系との共通点のみを記述、詳細は各項に記載する。
普通車 (2エンジン) |
普通車 (1エンジン) |
グリーン車 (1エンジン) |
グリーン車 (2エンジン) |
備考 | |
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キハ56系 | キハ56形 | キハ27形 | キロ26形 | - | 北海道向け 耐寒耐雪仕様 二重・小型客室窓 |
キハ57系 | キハ57形 | - | キロ27形 | - | 信越本線用 横軽・アプト区間対策車 ディスクブレーキ装備・空気ばね台車付 |
キハ58系 | キハ58形 | キハ28形 | キロ28形 | キロ58形 | 本州以南向け 一般型 |
上記の他、郵政省所有の郵便車キユ25形、余剰のキロ28形、キロ58形の走行装置を流用して車体を新製した郵便荷物車キユニ28形、荷物車キニ28形、キニ58形が、国鉄末期にはグリーン車の利用の減少に伴い、半室を普通車に改造したキロハ28形が、両運転台化改造により、キハ53-200、キハ53-500、キハ53-1000の各型が登場した。のちに四国にはキロ28を格下げしたキハ28 5000番台、キロハ28 1を格下げしたキハ28 5301、四国と九州にはキロ28 2000番台を格下げしたキハ28 5200番台が存在した。
また、広義のキハ58系をお座敷列車や欧風列車(いわゆる「ジョイフルトレイン」)に改造したものの一部は、キロ29形、キロ59形、キハ29形、キハ59形となっている。
[編集] 開発の経緯
1950年代後半以降、気動車による準急列車が日本各地で運転を開始し、スピードアップや居住性改善に大きな効果を上げると、非電化主要幹線の急行列車についても、蒸気機関車牽引列車から気動車に切り替えようという動きが起きた。
当時の準急列車用気動車キハ55系は、走行性能面では当時必要な水準を満たし、一部はいち早く急行列車に使用されたものの、急行用としては設備のグレードが低かった。そこで、急行列車として十分な内容を持った気動車の開発が目論まれることになる。
急行形気動車の開発過程では、1959年に試作された大出力エンジン気動車キハ60系や、1960年に登場した日本初の特急用気動車キハ80系での経験がフィードバックされている。
全体としてはキハ55系と同等の走行性能を持たせつつ、欠点を改善したものとなっている。以下にキハ58系の主な仕様を記す。
[編集] 車体構造
特急形気動車同様、浮床構造を採用した広幅車体となり(キハ55系に比して10cm拡幅)、車体裾は絞り込まれている。
正面形状は、踏切事故に備えて高運転台構造となり、急行形電車並みに貫通路上に列車種別表示窓を設けた。前照灯はその両脇に振り分けられ、小型のシールドビーム2灯式となった。ただし、急行形電車で標準となったパノラミックウィンドウとスカートは、コストダウンのため採用されなかった(一等車を除いて全車運転台付車である58系気動車の場合、運転台周りの装備追加に伴う大量増備時のコスト上昇を配慮せねばならなかった。のち末期のマイナーチェンジ型で採用されているが、この頃になるとパノラミックウインドウが電車で広く普及していた事情がある)。
更に、曲線区間での雨どいの張り出しを無くすため、国鉄車両としてはあまり例のない張り上げ屋根構造を採用し、全体の形態はキハ55系より格段に洗練されている。
客ドア幅もキハ55系よりも拡大され、850mmとなった。またキハ55系ではトイレを車端部においていたが、キハ58系ではデッキが車端部に配置され、トイレは車室側に置かれた(キロ28形2500番台車だけはデッキ外に設置)。
[編集] 客室設備
キハ58系では水平シリンダー型エンジンを採用することで床下でのエンジン整備が可能となり、車室内の点検蓋は廃止された。これにより静粛性、居住性は高まっている。床の表張りは内地向けはビニール張りだが、北海道用のキハ56系のみは木板張りとして保温性と耐久性を高められた。また従来、車室中央壁面で立ち上げられていた排気管を、車体両端に移設して車内見付を良くしてもいる。これらの改良は、先に開発された特急形のキハ80系に準じたものである。
二等車は向かい合わせの四人掛けクロスシート(ボックスシート)を10窓分備える(運転台側戸袋部のみ二人掛け1列があり、合計定員84名)。車体幅が広がったことで、急行形電車同様、窓側に肘掛幅分のスペースが確保され、窓枠下には栓抜き付きの小型テーブルと大型灰皿が設けられた。従前、気動車では一般に白熱灯が照明に用いられてきたが、58系では40W蛍光灯が用いられ、車内を明るくした。
1等車(1969年以降グリーン車)については、急行列車用1等客車では標準となっていたリクライニングシートを導入、併せて急行型電車同様の1段下降式の2連型側窓を採用して、高級な仕上がりとなっている(キロ26形のみは防寒のため単独の小型・二重窓)。
従来型の気動車の暖房装置は軽油燃焼式温風ヒーター(温気式暖房機。三国ウェバスト式ないし五光式)で熱量が不足するケースもあったが、1958年の北海道用気動車キハ22で温水暖房方式が実績を上げたことから、本形式でも温水暖房方式を採用し、暖房効率と静粛性の改善を図った。車室内足下に放熱パイプを配置、エンジン冷却水を通している。この暖房用放熱器によって窓側の足下スペースはやや圧迫された。
[編集] 走行機器
1960年に特急列車用として開発された水平シリンダー型のDMH17H(180ps/1,500rpm)ディーゼルエンジンを搭載し、これに従来からの標準型液体変速機である振興造機TC-2Aないし新潟コンバータDF115Aを組み合わせた。エンジン出力・変速機はキハ55系後期型と変わっておらず、走行性能も同等である。水平シリンダー方式自体は斬新だったが、基本構造は在来の垂直シリンダー型と同じく無過給の予燃焼室式で、1961年の時点でも既に陳腐化していた。
台車もキハ55系後期型同様、標準型の金属ばね台車DT22(付随台車はTR51)である。空気ばね台車が既に標準だった同時期の国鉄急行形電車に比較するとグレードが落ちるが、地方路線向けに量産せねばならない事情から、コストダウンを優先した結果である(当時アプト式ラックレール区間だった信越本線の横川-軽井沢間を通過させるために製作されたキハ57系は、例外的に枕ばねがベローズ式空気ばねのDT31・TR68形台車を装着していた)。
ブレーキ装置は、当時の気動車用標準型であるDA-1形自動空気ブレーキである。また、キハ57系のDT31系台車はディスクブレーキだったので、DA系ブレーキシステムに中継弁を付加したDAR形(運転台付車輌はDAR-1、運転台のない車輌はDAR-2)自動空気ブレーキを採用した。
[編集] 主な改良
1961年度中に3系列の急行形気動車が急行列車として営業運転を開始した。
この年4月にキハ56系が根室本線急行「狩勝」に、続いて7月にはキハ57系が信越本線急行「志賀」ほかに、そして10月にはキハ58系が中央東線急行「アルプス」ほかにそれぞれ投入されたものである。これらは利用客からおおむね好評を得た。
以後、キハ58系(およびキハ56系)は毎年100両~200両単位での大量増備が続けられたが、その期間中には随所に絶えず改良が加えられた。この改良は多岐に及び、枚挙に暇がないが、その中でも代表的な事項を以下に示す。
[編集] 800番台車(修学旅行用)
1962年から1963年にかけ、東北・九州地区からの修学旅行列車用に製作されたグループ。キハ58形801~819、キハ28形801~813の合計32両が製造された。
車体構造は基本的に通常のキハ28・58形に準じているが、車内は同時期の修学旅行用電車、国鉄155系・159系電車の流れをくんだ設備となっている。
通常のキハ58系同様、1ボックスが4人掛けであり、網棚もレール方向であるが、それ以外の、デッキ補助席、客室内速度計、着脱可能な跳ね上げ式の大型テーブル、レール方向に3人が並んで使える大型洗面台、客室端の座席引き出し式の急病者用簡易ベッドなど、修学旅行用電車で好評であった設備はそのまま踏襲された。
また、車体色も塗り分けこそ通常型に準じていたが、黄色5号に窓回りや裾を朱色3号と、155系・159系電車のそれを反転させたもので、修学旅行用に共通の意匠とされた。
これらを用いた修学旅行専用列車は、東北地区発東京方面行きは「おもいで」、九州地区発関西方面行きは「とびうめ」の愛称で運転された。閑散期には臨時列車などにも用いられたが、1970年代後半から塗色を改めて一般用に転用され、1987年までに廃車となっている。
[編集] 長大編成対応車
国鉄気動車は、制御回路を低圧直流電源に、またブレーキを空気圧作動の自動ブレーキにそれぞれ頼っていた。このため長大編成を組むと空気圧・電圧の低下で、先頭運転台から後方車両までの制御の応答性・確実性に問題が生じ、キハ58系も当初はその例に漏れなかった。長大編成を頻繁に組む急行形気動車では11両17エンジンに制限され、特に深刻な問題であった。
そこで1963年度以降のキハ58形(401~799号、1000~1052号)、キハ28形(301~485号)、キロ28形(101号~)には、制御回路・ブレーキ系統の中継装置を設置し、最大15両程度の長大編成を組めるようになった。それ以前の車両についても、1971年までに全車同仕様に改造されている。これに伴い、ブレーキシステムはDAE-1(運転台付車輌)及びDAE-2(運転台のない中間車両)電磁自動空気ブレーキに仕様変更され、15両23エンジンまで制御可能となった。
[編集] 末期増備車(パノラミックウィンドウ車)
1968年から翌年にかけて製造された、キハ58系の最終形である。後の冷房化工事を考慮した設計変更が行われているため、冷房準備車もしくは略して冷準車という呼び方もされる。
DMH17系を核とした構成の陳腐化、また、電化の進展や特急列車の増発による気動車急行列車の減少が予測されたため、同時期の他の気動車同様、製造両数は少ない。
暖地向けとしてキハ58形1101~1143号とキハ28形1001~1024号が、また寒地向けとしてキハ58形1501~1534号とキハ28形501~504号および1505~1510号が製造された。
1966年から増備されていた近郊形気動車キハ23系に追随する形で、運転台前面窓をパノラミックウインドウに変更、運転台下部にも排障器(スカート)を採用し、従来形に比して洗練度が増した外観となった。冷房装置の搭載を前提に、屋根部の形状も従来よりフラットで高さも抑えられており、印象は大きく変化している。
冷房時には窓やベンチレーターが締め切りになることを想定し、客室の換気対策として強制換気方式が採用された。その吸気口が客室端部の裾に、さらに、1エンジン車の車体窓柱部には、3両分の冷房電源を賄うための大型の「4VK型発電セット」用の吸気口が設けられた。
冷房搭載準備済車は天井にユニットクーラーを簡単に装着できる構造になっていたが、その後実際に全車が冷房化された訳ではない。2006年時点でも東日本旅客鉄道(JR東日本)盛岡地区に非冷房のキハ58が残存する。
なお、暖地向けのパノラマミック車は現在はキハ58 1114(JR西日本・越前大野鉄道部)、キハ58 1132(JR九州・筑豊篠栗鉄道事業部直方運輸センター)・キハ28 3014(JR西日本・広島運転所)の3両のみが存在する。
[編集] 冷房化・出力不足の問題
[編集] 冷房化
国鉄の列車冷房は1960年代前半まで、特急列車や優等車両に限って装備されていたが、1966年頃からは急行列車の2等車(普通車)にも搭載対象が広げられた。
キハ58系列の冷房改造に当たっては、まず、九州と四国において、1等車(グリーン車)試作冷房車が登場した。この試作車は、45psのバス・トラック用4気筒ディーゼルエンジンで、直接圧縮機を駆動する方式で、客車時代にもマロ55形等に試験的に施工されていたが、キハ58系共々一般化はしなかった。
気動車における直接駆動冷房方式はこの時点では本格採用されず、実際の本格的な冷房改造車では、特急・急行形電車等と同じ電動式の分散式クーラーを屋根上に搭載することとなる(当初AU12形冷房装置が用いられたが、のちAU13形が主流となる)。
電動式の冷房装置には大容量の交流電源が必要となるが、気動車の走行用エンジン付属発電機は走行機器と照明用等の給電しか考慮しておらず、エンジン自体にも新たな発電機を駆動する余力はなかった。このため最終的には、小型軽量の「4DQ-11P-DM72形」ディーゼル発電機(三菱日本重工製)を搭載し、自車1両分の冷房電源を確保することとした。1等車のキロ26・27・28形に順次施工され、これを装備した車両は、原番号+1000となっている。なお、キロ28形139号以降については、当初より冷房車であった。
1960年代後半の2等車冷房改造に際しても、当初バス用の小型エンジン直結型冷房が検討されたが、結局従来からの発電式とすることになった。2等車用としてダイハツ製V型8気筒90PSディーゼルエンジンを動力源にした「4VK-DM83形」ディーゼル発電機が開発された。この発電ユニットは自車を含めて3両分の冷房電源を供給できた。欠点は、甲高くけたたましい騒音を発することである。
- これ以前にも、AU12型クーラー3基(通常は20m級1両あたり5~6基搭載が標準)を搭載して、1等車の4DQ電源装置から限られた電源を受けて使用する「簡易冷房」が、高温多湿の四国や九州において、苦肉の策として施工されていた。
4VK電源装置は、当初キハ28形に改造で搭載された。キロ28形については、当初、中央本線用のキロ58形を冷房するために、冷房改造未施工車から開始され、後に4DQ形搭載車両の再改造にも波及した。これを装備した車両は番号が原番号+2000となっている。
なお、北海道用のキハ56系普通車(キハ56・キハ27)には冷房化は施工されておらず、北海道旅客鉄道(JR北海道)に移譲後、ジョイフルトレイン化されたグループと、キハ56・キハ27形のごく一部が冷房化されたにとどまった。
[編集] 出力不足
4VK電源装置の開発で、キハ58系の冷房化は一定の進展をみた。ただしこの発電機は、2エンジン車には床下スペースの問題で搭載できず、1エンジン車のみ搭載可能だった。従って、全車両を冷房化するには3両に1両の割合で1エンジン車である必要があった。
キハ58系に搭載されていたDMH17H型ディーゼル機関は、信頼性・耐久性・静粛性は一応の水準に達していた。が、いかんせんその基本を1940年代に遡る旧式設計ゆえに出力180psと著しく非力であり、これを2台搭載した気動車でも、性能は電車に及ばなかったのである。
冷房用電源エンジンの搭載スペース確保と、走行エンジンの出力確保は、常にトレードオフとならざるを得なかった。このため冷房化後のキハ58系急行列車には、前身となったキハ55系準急列車よりも編成内の2エンジン車比率が下がって、速度低下を余儀なくされる例も生じた。中央本線の勾配区間では、出力不足解消のために1等車までも2エンジン化が要請され、専用車のキロ58形が登場している。このような編成では当然、冷房化はできない。
この問題の根本的解決には、大出力エンジンと冷房用電源装置を備え持つ新型気動車キハ65形の登場を待たなければならなかった。
[編集] 現代に至るまで
[編集] 退潮期
1970年代以降、幹線電化の著しい進展に伴い、急行列車の電車化、さらには特急格上げが進められた。気動車急行列車は徐々にその運用域を狭めて行く。グリーン車については1970年代中期に早くも余剰となり、一部は荷物車・郵便荷物合造車へと改造された。
しかしながら1980年頃に至っても、キハ58系急行列車は各地に運転されていた。複雑な分割併合を行う多層階立て列車がまだ盛んに運転され、奥羽本線「おが」、中央西・篠ノ井・信越線「赤倉」等のように全線電化された区間を走る列車も残存した。だがそれらの列車は、1960年代から速度や設備水準が改善されておらず、時代の潮流に取り残されつつある存在であった。
その多くがキハ58系で運行されていた東北・上信越方面の気動車急行は、1982年の東北・上越新幹線開業に伴い、ほとんどが整理・廃止されている。その後、国鉄末期~JR初期にかけて、九州、四国などで車内のアコモ改良として座席を転換クロスシートや回転クロスシート、リクライニングシートを配置した車両が登場し、気動車急行列車で使用されたが、全国ほとんどの気動車急行列車が廃止または特急格上げで消滅した。
2006年現在、キハ58系を用いて運行されている急行列車は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の芸備線「みよし」が残存するのみである。「みよし」の運用に充てられているキハ58系は2連3本6両(キハ58 563・593・648/キハ28 2309 2329 3014)があり、4往復を2本が補完して1本が予備車となる運用となっている。
[編集] 普通列車等への転用
余剰となったキハ58系は、1980年頃の時点でもまだ車齢20年足らずであり、十分な耐用年数を残していた。それ以前から一部が普通列車に用いられていたが、1980年代以降はローカル線の普通列車用として多くが転用された。
当時、老朽化したキハ10系気動車の代替車として増備されていたキハ40系気動車は低出力で勾配路線に向かなかった。これに対し、キハ58系は2基エンジン車主力の系列で勾配路線へ投入しやすく、急行用で設備水準もそれなりであった事情がある。
キハ58系は、乗務員や検修員にも扱いに習熟した者が多く、またすでに冷房を搭載した車両も多かったことから、1980年代中期以降ジョイフルトレインに改造される例が多数生じた。特に民営化当初は多数のキハ58・28が斬新な形状に改造され、団体専用列車を中心とした運用に用いられている。
また普通列車で運用する事を前提に出入口付近のクロスシートをロングシートに改造した車両や、さらにはデッキと車室の仕切やトイレ・洗面所設備をも撤去した車両も登場した。JR移行後はワンマン運転対応車も登場している。JR西日本では通勤輸送を考慮し、ロングシート化改造されたキハ58・28系5500番台が出現、末期は姫新線・播但線で運用された。
[編集] 両運転台改造車
国鉄末期の1986年からJR化後の1988年にかけて、5両のキハ58形が両運転台化改造された。改造は車体の後位を切断して廃車の運転台を接合する方式で施行され、外観は富士急行キハ58003(のち有田鉄道移籍。後述)に似ているが、窓配置に違いがある。形式は既にキハ45系に存在したキハ53形とされ、既存車との重複を避けるため新番台区分が起こされた。同趣旨の改造としては、キハ56形を改造したキハ53形500番台があるが、こちらについては、キハ53形500番台(501~510)を参照されたい。
- 200番台
- 1000番台
[編集] 訓練車への改造
1991年に、キハ28形を改造し1両(キヤ28形1号)が登場した。外観は国鉄色に白線2本と「訓練車」の文字が追加されている。現在も盛岡車両センターに所属している。
[編集] 譲渡
本系列は、ほとんどが晩年まで国鉄→JRで使用されたことから、日本国内の鉄道事業者への譲渡は、北近畿タンゴ鉄道へ譲渡された4両が唯一例である。この他に、部品取り車として有田鉄道へ1両譲渡された例があるが、車両として入籍はされていない。
[編集] 北近畿タンゴ鉄道KTR1000形、KTR2000形
北近畿タンゴ鉄道へは1989年度に、KTR001形「タンゴエクスプローラー」を補完する特急用車両として、キハ28 2198,2314およびキハ58 591,102の4両が入線しており、それぞれKTR1000形(1001,1002)、KTR2000形(2001,2002)となった。形式は旧キハ28形のKTR1000形が1台、旧キハ58形のKTR2000形が2台エンジンを搭載していることにちなむ。旧所属は、1001,2001が国鉄清算事業団、1002,2002がJR西日本である。
特急用として相応しい設備とするため、JR西日本鷹取工場において、座席の回転リクライニングシートへの交換、KTR1000形のトイレ、洗面所の撤去・物置化等の改造が行なわれた。第2編成(1002,2002)については、「エーデル丹後」と同様の展望席が設けられた。外板塗装は、4両とも銀色に北近畿タンゴ鉄道を象徴する濃緑と深紅の帯を窓下に巻いたものとなった。
これらは、「レインボーリゾート」と命名され、第2編成単独のほか、第1編成(1001,2001)を中間に組み込んだ3両または4両編成による運行やJR線内への直通運転も実施され、第1編成は線内の定期普通列車でも運用された。1996年に、KTR8000形「タンゴディスカバリー」が新製されたことにより、その代替で廃車された。
[編集] 海外への移出
キハ58系はその汎用性と両数の多さから、廃車後に無償で日本国外へ譲渡された車両が存在する。1993年にJR東日本がロシア・サハリン州へ譲渡。1997年からJR西日本がタイへ譲渡を始めた。JR西日本車のタイ譲渡は現在も続けられている。更に2005年にはJR西日本車がミャンマーに譲渡された。
サハリンでは耐寒設備不十分ながら、現地のローカル列車運用の主力となった。一方で到着して間もなく3分の1ほどが解体され、残る車両のうちさらに半数ほどはほとんど使われることなく長期間留置された末、解体されている。実際には、部品不足で運用休止中だった既存ディーゼルカー(日本製)の代車という位置づけであったようで、在来車復帰後は倉庫用の車両を残して解体されている。現在でも、一部のキハ58が国鉄色のまま活躍している。
タイでも当初は優等列車として運用されたものの、2~3年もすると客車代用として使われるようになり、現在では運転台・エンジンを完全に撤去している。冷房も使用されていない。
- 運転台が現地の標準とは逆なので使い勝手が悪かった
- 元々車齢が高く、老朽化が進んでいた
- 編成の組み方がバラバラで適切な運用ができなかった(冷房の使用停止もこれに起因する)
などの原因があったようである。
タイでは運転台の撤去と同時に、ドアの移設など大掛かりなリフレッシュ工事が施され、2005年現在ではグレーに青と白のグラデーション(妻面は黄一色)に塗装変更し、バンコク首都圏の客車列車に繋がれて運行されている。
ミャンマーに移った車両は低屋根化、冷房装置の撤去などの改造工事が施工されている。これらは当初急行列車に利用されていたが、現在はヤンゴン近郊列車に使われているようである。
一時はジョイフルトレイン「フェスタ」のタイ譲渡も計画されていたが、これはタイ側の事情で中止になっている。
参考サイト:タイ国鉄友の会
[編集] 富士急行のキハ58系
導入目的としては南海電気鉄道におけるキハ55系や小田急のキハ5000・5100と類似するが、富士急行は1961年と1963年に、国鉄キハ58系による中央本線急行「アルプス」に大月駅で併結して新宿まで乗り入れをおこなうため、計3両のキハ58形を自社発注した。中央線および富士急行線は急勾配路線であり、全車が2基エンジン仕様である。
形式は全て「キハ58形」であるが、その表記は国鉄の旧型電車のような5桁数字となり、58001~58003とされた。58001・58002はキハ58形オリジナルと全く同一の片運転台車であるが、予備車兼用の58003は001・002のいずれとも連結可能なよう、便所・洗面所省略の両運転台仕様で製造された。58003の増設側運転台寄り戸袋窓は、客室窓そのままのサイズの広幅なのが特徴である。
1975年、富士急行線直通の急行「かわぐち」は電車化される形で「アルプス」に統合され、キハ58形は富士急行での運用を失った。
このため3両は有田鉄道に譲渡され、同鉄道のキハ07形を置き換えた。なお入線の際にエンジン1台を撤去している。有田鉄道は平坦線のため、1基エンジンでも支障はなかった。001・002は便所・洗面所も撤去している。
長らく有田鉄道での運用が続いたが、利用客の減少が続いた後年には専ら両運転台・単行運転可能な58003のみで運用をまかなうことになった。これにより58001・58002は徐々に稼動する機会を失い、早くに廃車となった。後に樽見鉄道からレールバスのハイモ180が入線してからは、58003も予備車の扱いとなったが、同鉄道の廃止まで在籍し、現存する。
[編集] 製造所(メーカー)
[編集] 2006年時点の在籍状況
[編集] JR北海道
- 全車両廃車
[編集] JR東日本
- 花輪線直通奥羽本線快速列車で運用
[編集] JR東海
- キロ28形2303号(保存車)のみ在籍
[編集] JR西日本
- 臨時・団体列車で運用。
- 越美北線の福井~一乗谷で運用。車両不足による代走。
- 1両のみ所属。保留車。
- ジョイフルトレイン「ふれあいSUN-IN」・「ほのぼのSUN-IN」
- 臨時列車で運用。
- ジョイフルトレイン「ふれあいパル」
[編集] JR四国
[編集] JR九州
- 臨時・団体列車で運用 7月22日からあそ1962として運行開始
[編集] ギャラリー
[編集] 参考文献
- 石井幸孝『キハ58物語 津々浦々くまなく走ったディーゼル急行1900両』(JTB、2003年) ISBN 4533050077
- 交友社『鉄道ファン』2002年1月号 No.489 特集・キハ58系一族
- 斎藤幹雄「タイ国鉄へ渡ったキハ58系レポート」
- 交友社『鉄道ファン』2005年2月号 No.526 p168~p171