劉ビ
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劉濞(りゅう び 紀元前215年 - 紀元前154年)は、前漢前期の皇族、呉王。呉楚七国の乱の首謀者。父は、劉邦(高祖)の兄・劉喜。沛県の出身。(濞の字はさんずいに鼻)
幼少期について、その詳細は不明だが、代王に封建された父・劉喜が匈奴との交戦中に敵前逃亡し、ごう(合+おおざと)陽侯に格下げされた後、紀元前196年に淮南王英布が反乱を起こした際に、叔父・劉邦の親征軍に将軍として従軍し、騎兵を率いて活躍した。
その功績によって、戦死した荊王劉賈の後釜として、呉王に封建された。封建された直後、その挨拶のために、劉邦の元に参内したときの話として、次のようなものが伝えられている。
すでに王に封建したものの、劉濞の人相が、謀反人のそれであることに不安を感じた劉邦は次のように言った。
「予言によれば、これから50年後に(帝都・長安から見て)東南の地(呉の領域)で反乱が起こるというが、わしもお前も同じ血を引いた一族同士。まかり間違えても反乱などと馬鹿げたことをするなよ。」
劉濞が答える。
「ゆめゆめそのような真似はいたしません。」
かくして、呉王として任地に赴いた劉濞であったが、中央政界に於ける呂雉を筆頭とする呂氏一族の専横とこれに対抗する元勲達との政争に巻き込まれることもなく、国内整備に邁進することとなる。その結果として、呉は、その領域内から産出される、銅と塩の生産と、それの他国への販売によってもたらされる巨万の富を背景に、国民に税をかけること必要もなく、労役に国民を駆り出した際には、却って手間賃を払うというような一種の別天地の様相を呈するようになる。さらに、税役を負担しきれず他国から逃亡してきた連中を国内に迎え入れ、彼等を軍に編入して軍備を拡大させたことから、中央政府でも統制出来ぬくらいの勢力を誇るまでになった。
しかし、呂氏一族が滅び、文帝(劉恒)が即位し、文帝が政権を握るようになると徐々に様相が変わっていく。文帝の側近達は、積極的に諸侯王の勢力を弱めていくことを文帝に進言し、文帝もこれを容れ、主に、文帝と帝位を争った斉王家を対象にその政策が実行されてゆく。
そんな中、長安に父・劉濞の名代として、王太子・劉賢が長安に参勤し、文帝に拝謁する。その儀式一切が終わって間もなく、劉賢をねぎらう宴会が催され、ここで事件が起こった。 宴会の余興をめぐって、皇太子・劉啓(後の景帝)と口論となった劉賢が皇太子に殺害されたのである。劉賢が殺害されたこと及びその後の漢王朝側の対応に不満を抱いた、劉濞は諸侯王の義務である、長安への参勤を取りやめた。当然このことは、中央政府内で問題視されたが、文帝のとりなしで、不問にされた。文帝からすれば、自分の息子にも非があるわけだし、何よりも内乱を起こして、政権を傾けるようなことがあっては、との思いがあったのであろう。文帝は、劉濞が老齢であることを理由に、参勤を免除し、杖と脇息を与えて、ことを不問にしたのである。
呉と漢王朝との関係は、文帝の存在もあって、一応の安定を得たものの、紀元前157年に文帝が死ぬと、事態は急変する。文帝の後を継いだ景帝は、かつて劉賢を殺害した相手であり、さらに景帝の側近・晁錯はかねてより積極的な諸侯王削減策を唱えていた。これに危機感を覚えた劉濞は、中央政府の政策に反感を覚える、楚や斉の諸侯王と手を組み、紀元前154年、ついに二十数万の軍勢を率いて挙兵する。これが、呉楚七国の乱である。
情勢は、当初、反乱軍が優勢であり、長安では討伐軍への従軍を命じられた諸侯がその費用を金貸しに借りようと申し込んだ際に、長安中の金貸しから断られたという逸話が残るほどであった。しかし、有利な情勢に気をよくした劉濞の作戦ミスと周亜夫の活躍により、徐々に形勢は逆転し、劉濞はわずかな側近達を引き連れて、かねてから親交のあった東越王のもとへ逃走する。しかし、ここで東越王の裏切りに遭い、刺客に殺害された。また首謀者の劉濞の死を知り、反乱を共謀した各国の王やその太子らも自殺、もしくは漢軍に討ち取られ、呉楚七国の乱は3ヶ月で鎮圧された。これ以降、漢王朝は諸侯王の勢力削減策をさらに強化し、中央集権制への移行を進めることとなるのであった。