少帝弘 (漢)
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少帝弘(しょうてい・こう ? - 紀元前180年、在位紀元前184年 - 紀元前180年)は、前漢第4代皇帝(歴代皇帝に含まないこともある)である。姓は劉。名は弘。元の名は義。なお、劉備の父の劉弘とは別人である。
[編集] 略伝
恵帝(劉盈)と後宮の女性(一説に呂氏)との間に生まれたとされる(一説では、恵帝に跡継ぎの男子がいなかったという)。初めは常山王に封じられる。後に少帝恭が呂太后(呂雉)に殺害されると、その後釜として即位した。
しかし、紀元前180年に呂太后が死に、皇族や元勲の陳平・周勃・灌嬰達のクーデターによって呂氏一族が滅ぼされると、劉弘ら兄弟は監禁されてしまう。間もなく、代王・劉恒が即位(文帝)することになるが、その直前に劉弘はお家乗っ取りを図る呂太后がどこかから連れて来た、どこの馬の骨とも知れぬ者と称して、汝陰侯・夏侯嬰により宮内より追い出された。彼は間もなく兄弟の常山王・劉不疑、淮陽王・劉彊、襄城侯・劉山、軹侯・劉朝、壺関侯・劉武らと共に毒を盛られて誅殺された(一説では劉弘は呂氏の血筋を引いているという)。
引き続き一説では、彼が前漢の歴代皇帝に含むことを考慮すると、子がなかったとされる恵帝と文帝の異母弟である梁の共王・劉恢(高祖第5子)の子で、少帝恭の兄弟ともいわれる。また、劉恢は呂后の甥の呂産の娘を正室としていたので、劉弘はその間の子ではないかともいわれる。しかし、真偽の程は定かではない。