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光武帝 - Wikipedia

光武帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

光武帝
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光武帝

光武帝 (こうぶてい 紀元前6年 - 57年 在位25年 - 57年)は後漢王朝の創始者、初代皇帝。姓は劉。諱はしゅう)。文叔ぶんしゅく)。光武帝は謚号で、よく前業(=前漢)を継ぐ(=中興)を光、よく禍乱を定めるを武ということから、謚された。廟号は世祖。王莽による簒奪後の赤眉の乱の混乱を統一し、後漢王朝を建てた。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残したといわれる。

目次

[編集] 若き日

劉秀は漢の景帝の息子で長沙王に立てられた劉発の末裔である。若い頃の劉秀は非常に慎重でかなりおっとりとした性格と見られていた。「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言う劉秀の言葉が残っている。執金吾とは首都の警備司令官の事で、陰麗華とは劉秀の地元南陽で美人と評判の豪族の娘で、後に劉秀の皇后となった。若き日の劉秀は執金吾になって美人を妻に迎えられれば良いなと思うくらいのさして大きな野望を持たない人物であった。まさか自分が皇帝になるとは思っても見なかった事であろう。

景帝――長沙定王劉発――舂陵節侯劉買―┬舂陵戴侯劉熊渠―┬舂陵考侯劉仁――┬舂陵康侯劉敞――劉祉
                   │        │        ├劉慶――――――劉順
                   │        │        └劉憲――――――劉嘉
                   │        └蒼梧太守劉利――┬劉張――――――劉玄(聖公、更始帝)
                   │                 └劉?―――――┬劉顕――劉信
                   │                         └劉賜
                   └鬱林太守劉外―――鉅鹿都尉劉回――┬南頓県令劉欽―┬劉縯(伯升)
                                     └蕭県令劉良  ├劉?(仲)
                                             └劉秀(文叔、光武帝)

[編集] 赤眉軍・緑林軍

の王莽は周代の政治を理想とし、現実にそぐわない的外れな政治ばかりをしていたので国政は混乱し、全国で反乱が起きた。

14年、まず山東の琅邪郡で呂母と言う老女が数千の徒党を集めて反乱を起こした。呂母は県令に殺された息子の仇討ちの為に兵を挙げ、県令を殺した後も、法が過酷であり税を払うことも出来ぬと解散せず、18年、同郷の樊宗が兵を挙げ合同する。この反乱軍は敵味方を見分けるために眉を赤く塗ったので赤眉軍と呼ばれる。一方、王莽の官軍である太師軍・更始軍は強引に兵糧等を徴収して評判を落した。ために「寧ろ逢うなら赤眉 太師に逢うてはやりきれぬ 太師に逢うならまだしも 更始に逢えば殺される」と囃された。また王匡と言う者がこれも貧民を集めて緑林山に逃げ込んだ。こちらは緑林軍と呼ばれる。

22年冬、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん、縯は糸偏に寅)は自分も挙兵するが、思うように兵は集まらなかった。しかしそこに劉秀が参加してくると「あの慎重居士の劉秀が参加するくらいだからこの反乱は成功するに違いない」と参加してくる人間が増えた。この軍を舂陵軍と呼ぶ。

挙兵時の逸話として、劉秀は金を持っていなかったので馬が買えず、牛に乗っていた。緑林軍に合流してから官軍の馬を奪いこれに乗った。仮にも反乱を起こそうと言うのに牛に乗ってやってくると言うのはひどく滑稽で劉秀の性格が感じられる。

その頃、緑林軍は疫病のため分裂し、その中の一派は南陽に逃げ込み新市軍と号し、もう一派は南郡に入り下江軍と号した。新市軍はその南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。この連合軍が、更に下江軍とも連合し、劉縯が淯陽と言う所で官軍を破る。連合軍が南陽の主都宛城を包囲した後、皇帝を立てようと新市・平林軍の将らが謀った。劉縯を押す声もあったが、優秀な人物を押し立てると自分達の思うとおりに動かせないと考えた新市・平林軍の将らによって無能な劉玄が立てられた。元号の更始から更始帝と称される。

23年夏、更始帝軍を討伐するために王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を発した。王莽は軍事に関しては素人で、この軍は63の別々の流派の兵法家を付ける、猛獣を引き連れる、など編成が出鱈目であった。 王莽の討伐軍は劉秀が立てこもる昆陽城を攻撃した。劉秀は夜に十三騎で城を脱出し、近県を巡って三千の兵を集めて包囲軍と立ち向かう。王莽軍は総大将が数千を率いて迎え撃つ。劉秀は普段非常に慎重で臆病な人物と周りから見られていたため、周囲の将兵は「あの劉秀があんなに激しく攻めるとは、何か勝つ算段があるからに違いない」と思い、勇躍して戦い緒戦を飾った。更に勢いに乗った劉秀軍は更に昆陽を攻め、城からも打って出たため漢軍は包囲した王莽軍に大勝した。

昆陽の勝利に前後して、劉縯も宛を落城させ、縯秀兄弟の名は高まり、更始帝はこの人気を恐れた。この時、劉玄の皇帝即位に反対していた劉縯の部下が、更始帝が授ける官位を受け取らなかったので、更始帝らはこれを反逆として誅殺しようとした。劉縯はこの部下をかばったため、更始帝らはこれを口実に同時に劉縯をも誅殺した。劉秀は心中では怒り悲しんだと思われるが、攻略先から宛まで帰り、更始帝に兄の件を詫び、外面には何も現さず、周りの人が劉縯の弔問にやってきても何も語らず、これによって身に降りかかるであろう災禍を逃れた。

この昆陽・宛の大勝を見て、傍観していた他の地方の豪族達が更始帝軍に合流し、一気に更始帝軍は大軍となった。更始帝軍は洛陽長安を落とし、宛を都としていた更始帝は洛陽、長安と遷都する。洛陽が都の時まで、劉秀は更始帝と側近達に昆陽での戦功と劉縯の弟ゆえに危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ遣る適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いる可し」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀の独立の気運が得られた。長安に入った更始帝軍は堕落し、日夜宴会を開いて長安の財物を略奪し、政治を執り行わないため、更始帝の評判は一気に落ちた。

[編集] 河北を転戦

23年冬、更始帝から離れた劉秀は河北へと向かう。 しかし、河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した時に、邯鄲に王郎と言う者が成帝の落し子だと名乗り挙兵し、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。 そのため劉秀は後の二十八将となる鄧禹、王覇、馮異らわずかの人数で河北を逃げ回ることになる。冬の凍える寒さの中、馮異が薪を集め鄧禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さをしのいだりした。 しかし、王郎を拒否し劉秀に頼らんとする信都郡の太守任光、李忠、萬脩ら、和正郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植、耿純が手勢を率いて陣営に加わる。そのため、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純は二十八将に数えられることとなる。

劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王の劉楊(「漢書」記述、「後漢書」では劉揚と記述)を味方に引き入れるために、劉楊の妹が嫁いでいた豪族の郭昌の娘(郭聖通、後の郭皇后)を妻に迎える。 これにより劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。

こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後に二十八将に数えられる呉漢、蓋延、王梁(以上漁陽)、景丹、寇恂、耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は、王郎軍を次々と破り、24年夏、邯鄲を陥落させ、王郎を斬った。

劉秀の力が大きくなった事を心配した更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀はこれをまだ河北には平定すべき賊がいるからと拒否し、自立する事を決心した。銅馬軍と言う流軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越えた。

[編集] 即位

25年、河内の実力者となった劉秀に配下達は皇帝となることを勧めた。幽州からの凱旋、南下途中において二度まで断った劉秀だが 三度目の要請に「之を思わん」と答え、『赤伏符』という讖文を奏上されて四度目の要請で、六月即位し、元号を建武とした。

同じ月、赤眉軍は劉盆子を籤で選んで皇帝と為し、遡る四月には公孫述が皇帝と号した。

この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降って後に、その将に殺される。その赤眉軍も長安やその周囲の三輔を荒らして周り、遂に食料が無くなった所で故郷である山東へ帰ろうと東に進んだ。27年、劉秀の派遣した大司徒鄧禹征西大将軍馮異らは一旦は赤眉軍に破れるが、再起した馮異は赤眉軍を破り西への退路を絶った。東で待ち構えていた光武帝軍は赤眉軍を下して配下に入れた。

30年(建武六年)、山東を平定する。

33年(建武九年)、隴西を攻略し、群雄の隗囂死して、遂に降す。

36年(建武十二年)、最後に残った公孫述を滅ぼし、天下を統一した。

[編集] 統一後

光武帝は降伏させた洛陽を最初に都とし、荒廃した長安を得た後も、洛陽をそのまま首都とした。前漢末以来の混乱で中国は大いに疲弊し、前漢最盛期で六千万人ほどいた人口が光武帝の時代には二千万あまりほどに激減していた。これに対する対策の一つとして光武帝は奴隷解放令を何度も出した。自由民を増やす事によって生産力の上昇と民衆の間の王朝に対する人気取りを狙った。また周辺諸国、特に匈奴に対しては懐柔策を取り、王の号を小国にも出した。戦争を避け、民力の回復を待ったのである。

40年、交趾(ベトナム)で漢の支配に反抗した徴姉妹の反乱が起こるが、伏波将軍の馬援を派遣してこれを鎮圧した。

56年建武中元と改元し、封禅の儀式を執り行う。

57年、倭奴の国王が使節を送って来たのでこれに王の金印を授けた。これが後に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。

同年、死去。

[編集] 政治方針

光武帝の政治方針は一貫して庶民の立場に立ったものであった。

度々の奴隷解放令だけでなく、売人法、略人法を公布し、人身売買を厳しく規制した。建武十一年には「天地之性人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言した。豪族の跋扈する郡には、董宣、樊曄、李章といった酷吏と呼ばれる人物を太守に起用し、横暴な豪族を制圧した。そのため犯罪数が前漢時代の五分の一に減少することになった。

税金は以前の三十分の一税に減税し、役所を統廃合して半分以下とした。さらに地方常備軍である材官騎士を廃止するなど、民間へと労働力を解放した。戦時期の将軍もほとんど解任され、非常に小さな常備軍しか持たなかった。

徹底した法家思想の政治方針で、太守はもちろん県令まで一人一人自ら面接して任命した。失態があると皇帝自ら棒叩きにあわせるという、細かくて厳しい法治政治を行った。「礼は庶民に及ばず、刑は士人に及ばず」という儒家的な思想は一切なく、大臣たる三公で職務を全うできたものはごくわずかで、時には下獄して死ぬものもいた。

こうした光武帝の厳罰主義は、「以元元為首(庶民を最優先とする)」と称えられた反面、儒家である士大夫たちに不評であり、班固には「刑罰の根本が正しくない」と批判され、章帝の時代に宰相となった第五倫には「秦の酷政・王莽の苛政のようなもの」と非難された。

[編集] 人物像

体形や容姿については、身の丈七尺二寸(168cm)、当時としては標準身長で、王莽の納言将軍厳尤は降兵を尋問したおり、劉秀について「これ、須(あごひげ)と眉の美しき者なるか」と述べ、朱祜は宴席で「公には日角の相有り(額の上部が隆起して、太陽の如き角に見える)」と述べたのが記録に残っている。 性格は、おとなしく地味で農作業に熱心な姿は、兄の劉縯から劉邦の兄(=農民の劉仲)と見立てられたが、光武帝は極めて胆力のある人物でもあった。 庶民に落された舂陵康侯劉敞の田租のことで時の大司馬厳尤に堂々と陳情したり、兄劉縯の賓客の起こした事件に巻き込まれたこともある。姉湖陽公主(黄)が、劉秀は無位無官の頃に逃亡者や死罪の者を匿ったことがある、と言ったことが記録されている。また、姉(元)婿の鄧晨と地方の官吏をからかって手配されたり、別件で新野で捕えられたりもしている。

銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したため、降伏兵から、「蕭王は真心を持って人を信じて疑わぬ、命をかけてお助けしようではないか」と声が上がった。

皇帝に即位後の建武年間の初期、テロリストが首都に横行する時期においても、微行を好んで遠くまで外出し狩などで遊んで夜中に帰ったため、家臣の幾人かにしばしば諫められた。あまりに繰り返されたため、怒った家臣に門を閉ざされて閉め出しをくったことが少なくとも二度ある。

戦場では、その多くの戦いで最先頭に立ち、自ら得物を奮って戦う勇士であった。皇帝に即位後の鄧奉戦、劉永戦などでも、大軍を持ちながらなお最前線で騎兵を率いて戦う豪傑であった。

その反動か、統一後は、危急でなければ戦のことを口にせず、皇太子(後の明帝)が戦について尋ねても「衛の霊公が陣について孔子に問いても、孔子は答えず。これは汝に関係する話ではない」と結局、戦について語らなかった。

ただし戦場での豪傑的振る舞いと異なり、平時はよく笑う気さくな人物であった。ジョークを好み軽率な発言も多かった。そもそも挙兵以前に予言書により時の大臣の劉秀(光武帝とは別人=改名後の劉歆)が皇帝になるぞという話を話していたとき、「僕じゃないってどうしてわかるのさ」と発言して一同の爆笑を誘ったことがある。また外交の使者として来た馬援と面会した時、軽装で警護も付けずに現れた光武帝に馬援が「我が刺客であったらどうされます」と言うと、「そなたは刺す客ではなく説く客じゃ」などと洒落で返すなど、軽妙な発言には事欠かない。こうしたジョークの多くは周囲の家臣たちや、諧謔を喜ばずという性格の皇后陰麗華を困惑させたであろう。

光武帝は、自身が妙な言を多くすることもあり、言論に寛容であった。家臣はもちろん通りかがりの民間人にまで不遜な文句を言われたことがあるが、すべて笑って許している。周党や嚴光のような処士・隠者が宮中に召されて礼に従わないときでも、その才・気骨を惜しんで罰するどころか恩賞を与えて厚く遇した。

宴会が好きで、統一後も二十八将たちを集めて大騒ぎしたが、本人は酒自体を好んでいない。

太学で尚書を学んだ学識人であり、詔などすべての文章が直筆である。第五倫は光武帝の詔を読むたびに「聖主である」と感嘆したという。

[編集] 二十八将軍

後漢書に「中興の二十八将、前代には天界の二十八宿に対応したという考えもあるが、はっきりとは分からない」とある。元々は明帝が永平年間に、前代の名臣列将に感じて、洛陽にある南宮の雲台に二十八将の絵を描かせたのが由来である(雲台には、その後四人が加えられて三十二将となる)。これは光武帝の即位時に、主君を盛り立てた建国の将臣中から二十八人を、親族外戚を除いて選んだものである。また、耿弇、耿純、劉植と親・兄弟・従兄弟で功臣を排出しても代表一将で、一族が重ならないように選ばれているようである。

二十八将軍で、挙兵以前から面識があるのは鄧禹、朱祜の2人だけで、他の26人は運命であるかのように自らの地位や地盤を放棄して馳せ参じてきた。みな忠節を全うし、光武帝と対立したものはいなかった。戦場に散ったもの、病没したもの、統一後に文官に転身したもの、兵士を返上して進んで引退したもの、少ない常備軍を率いて将軍として働き続けたものなど、みな戦場で馬を並べて命を共にした戦友として、志を最後まで違えることはなかったのである。そのため星座の二十八宿にも擬せられ、正史たる後漢書にも二十八宿説が記載されることとなった。

二十八将軍(序列順):鄧禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異、朱祜、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植。雲台三十二将(二十八将軍に以下四人を加える):李通、竇融、王常、卓茂

名将馬援がここに入っていない。二十八将は建国の将軍なので入らないのは当然なのであるが、雲台の三十二将にも入らなかったのは、馬援の娘が明帝の皇后となったため避けたのである。

[編集] 評価

光武帝は中国史上で唯一、一度滅亡した王朝の復興を旗印としてこれに成功した君主である。彼の成功の背景は、一つには、王莽の新が漢を簒奪し、世の乱れは新・王莽の為であるとして、人民が旧主劉氏の漢を慕ったことである。つまり実際は別の王朝であるが、漢を継ぐという旗印が世に受け入れられたためである。もう一つには、光武帝その人の器量人徳を慕って多くの優秀な人材が集まったことが挙げられる。同じ劉氏でも本家筋の更始帝は酒に溺れて見放されることとなった。この光武帝の主だった家臣は光武二十八将とも呼ばれ、徳川二十八神将のモデルとなったと言われる。

光武帝の業績は中国史上屈指の名君の一人としても差し支えのないものであるが、日本での知名度が低いのは、史記三国志に相当する知名度の高い文献がないからであると思われる。 また光武帝と高祖の大きな違いは、第一に功臣を処断しなかったことが挙げられる。高祖は韓信など、漢の創業に貢献した武将を次々と処断していったため、統一後も暫く戦乱が続いたが、光武帝にはそのようなことがなかった。前述の奴隷解放令などと相俟って、当時としては珍しく道徳観念を失わなかった君主であるということが言える。 帝位に即いて後、光武帝が彼の育った地方を巡った時、宗族の叔母たちは酒が回って上機嫌で共に語って「文叔は若い頃、慎み深くて、人と打ちとけて付き合う事がなかった。ただ生真面目で柔和なだけだった。今やこのような皇帝である」と言った。光武帝はそれを聞いて笑って「我は天下を治めるも、また柔にて行わんと思う」と言ったという。

光武帝を随一の名君として評価した人物に、諸葛亮司馬光がいる。 三国の蜀の宰相諸葛亮は、光武帝は神の如き知謀を持ち常に参謀と意見が一致したため家臣が地味に見えるが、その二十八将から下は馬援に到るまでみな張良や韓信に劣らないとした。光武帝は漢の高祖と違いミスをしないので家臣が目立たないのだという。 資治通鑑の著者司馬光は、光武帝が教化を重んじ学問と道義を大切にしたため200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかったとし、神話時代というべき夏、殷、周の聖王に匹敵するとした。

後漢皇帝
初代
先代:
次代:
明帝
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