宣帝 (漢)
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宣帝(せんてい 紀元前91年 - 紀元前49年 在位紀元前74年 - 紀元前49年)は、前漢の第9代皇帝(中国の歴史家は劉賀の即位を認めていない)。姓は劉。名は病已(へいい)、後に詢(じゅん)と改めた。正式な諡号は孝宣皇帝。廟号は中宗。武帝の曾孫で戻太子の孫。父は戻太子の子・悼皇孫の劉進。生母は王氏である。
紀元前91年、巫蠱の乱により、曾祖母(戻太子の母)である皇后・衛子夫、祖父、祖母・史氏、父、母が死亡すると、生後間もない劉詢も謀反人の孫ということで殺害されるところであったが、乱後間もなく、戻太子の無実が証明されたことで一命を救われ、民間で育てられた。
紀元前74年、大叔父・昭帝が急死し、その後を昌邑王・劉賀が継ぐも、不品行により廃されると、霍光等の推薦により、皇太后(上官氏)の詔を受け、帝位に即いた(宣帝)。
昭帝の死から廃帝賀の廃位を経て、宣帝の即位にいたるまでの一連の流れは、霍光の主導によるものであり、政局は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。
紀元前69年、霍光が死ぬと、肥大化しつつあった霍氏一族の権力、特に軍の指揮権を徐々に剥奪、これにたまりかねた霍光の遺児が反乱を企てると、これを契機に彼等を尽く処刑。右将軍霍禹は腰を切断される厳罰に処された。皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して追放し、霍光の死から二年後、親政を開始した。
宣帝の政策は、減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、中央(中書を通じての皇帝への直接の上奏と尚書の権限の縮小)地方(地方行政を県中心から郡中心へ移行)での行政改革といった、国民を休養させつつ中央政府の権力を強めんとする内政重視のものであり、これらの政策が行われた結果、武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。一方、外政においては、烏孫と連携をとり、西域に進出し、匈奴を弱体、分裂化させ、紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させる等、一時期、弱体化していた漢の国勢を復興させることに努めた。しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強めることとなり、彼等が外戚と組んで政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。