周勃
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周勃(しゅうぼつ、? - 紀元前169年)は劉邦の部下であった人物。子供の一人に周亜夫がいる。
紀元前209年に劉邦が兵を起こしたとき、劉邦に従った。もとは劉邦と同じ地で機織業をしていた。劉邦が死去の際「漢王朝を長らく安んずるものは必ずしや周勃であろう」と、呂后に言い残したとされる。劉邦の死後呂后は自分の一族に優位な事を行ったが、紀元前180年に彼女が死んだ直後呂一族が皇位簒奪を狙っているらしき発言が斉王の弟の耳に入り、斉王が反乱を起こす。楚漢戦争の時から周勃が一方的に仲が悪い(浪人時代に兄嫁と密通していたと噂を流していた)、当時右丞相であった陳平が逆クーデターを共に起こす事を提案し、呂后一族を倒した。直後、この功績により病気と称し官を辞した陳平の代わりに丞相となった。だが、陳平の才能の高さに自信を無くした周勃が陳平に丞相を任し辞任したことがあった。その後、陳平が没したために再び丞相となった。
5代文帝が周勃に臣下の礼を取るほど異常に尊敬されていたが、文帝がそれを袁盎に諫められ、態度が急変。周勃は地方へ赴任するが、処刑を恐れ使者が訪れる度に武装して迎えていた為に反乱の兆しがあると使者から伝えられ獄された。その際に獄吏に賄賂を渡し、周勝之に無実だと書いた手紙を渡す。そして無実だということが袁盎や文帝の母の薄太后に知ることとなり、文帝を諫め釈放する。その際に「かつては百万の軍勢を指揮したことがあったが、獄吏にこのような力があるとは知らなかった」と延べ、その後は領地で静かに暮らし晩年を送る。
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