公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公(こう)は、
- 私(private)の対義(英語のpublic、「公共」)を意味したり、貴人の二人称や尊称とされるなど、多義語として用いられる漢語。publicの意味では「おおやけ」と訓ずる。本項目で詳述。
- 日本のプロ野球球団、北海道日本ハムファイターズの通称の一つ。「公」という字を、縦に読むと片仮名の「ハム」と読めることから。
漢字の成り立ちは、ものごとを個別に細かく分け、回りから見えなくした様をあらわす「私」の旁の部分「厶」に、入り口を開けて包み隠さず明らかにすることをあらわす「八」を組み合わせた会意文字であり、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語であった。また一部に偏らないという意味を含むことから「公平」という熟語を生ずる。
個々人の「私」に対する全体としての「公」は、のちに転じて国家を指すようになり、国家の官職に就いている士を公士といったり、国家に属する民を公民といったりするようになった。さらに、封建制のもとでは国家の支配者である君(君主)が国家を体現する存在であることから、君のことを公という用法が生ずる。古代中国の理念では「王」の称号をもつ君は天子のみであったから、春秋時代までは周以外の国の君は公とのみ称した。天子である王(のちには皇帝)も君であるから公であり、天子の家である朝廷を公上と尊称したり公家と呼んだりすることができる。日本の天皇を古くは「おおやけ」「こうけ(公家)」と呼んだりしたのはこの用法の一例であり、鎌倉時代末期以降、将軍やその幕府を公方と呼ぶようになるのは、将軍の権威が増したことにより、国家を体現する公としての性格を将軍が得たことを示している。また、日本では平安時代以降、大臣に任ぜられた貴族への敬称として名の下に公の敬称をつける他、特に位階に関わらず自らの主君への尊称として名の下に公とつけて呼ぶ例が平安時代以降、江戸時代まで続く。明治時代においては、専ら、公爵を授爵した人への敬称をする。なお、三位以上及び参議に任ぜられた人への敬称として卿とつけて敬称する。
また、周の最高位にある3人の大臣が三公と呼ばれたことから、公は大臣の尊称としても用いられるようになり、のちには身分の高い人や年配の人に対して広く用いられる尊称となった。日本語ではさらに転じて、「忠犬ハチ公」のように動物や友人に対する愛称として、或いは「先公」(先生の意)などと蔑称としても公が用いられるようになっている。
目次 |
[編集] 中国における公の称号
天子の国である周を除く諸国では、君主の称号として王にかわって公がもっぱら用いられた。儒家によって理想化された周の封建制理念においては、諸国の君は周の王である天子によって爵(爵位)を授けられた諸侯であるとみなされるようになったが、そこにおいて諸侯の爵位は公・侯・伯・子・男の五等爵に分かれていたとされ、公の爵位は魯公など周王室の親族出身の諸侯にのみ許される諸侯の最高位であると考えられるようになった。
その後、戦国時代に有力な諸侯が王の称号を名乗ったため天子による王の称号独占は消滅し、さらに漢では有力な皇族や功臣が諸侯として王に封ぜられたので、公の位は王に継ぐ諸侯の称号として皇族や功臣に与えられるようになった。その後、爵位に関する制度の変遷とともに様々に内実を変化させつつ、20世紀初頭の清の滅亡に至るまで、公の称号は皇族や功臣に与えられる爵位として用いられている。
[編集] ヨーロッパにおける公の称号
公は、東アジアにおける五等爵の公から転じてヨーロッパで貴族の称号として用いられるいくつかの語の訳語としても用いられる。公と訳されるヨーロッパ諸語は、大きく分けてラテン語で「第一人者、君主」を意味するprinceps(英語のprince)に関連するものと、同じくラテン語で「指導者、指揮官」を意味するdux(英語のduke)に関連するものの2種類がある。
princeps系統の称号はプリンケプスの項で詳しく述べるように、ローマ皇帝の称号に起源をもち、本来の意味は独立した領邦をもつ君主のことである。これに対してdux系統の称号はもともと辺境の軍事司令官の官職であったが、のちに強力な諸侯を指すようになったものという違いがある。なお、duxの指導者という意味はイタリア語で長く残り、ヴェネツィア共和国の元首の称号「ドージェ」、イタリア王国でムッソリーニが称した「ドゥーチェ」(統領)も,duxの系統にある称号である。
これらの区別は、称号の歴史的経緯を異にする漢字では完全に対応する訳語はつくられていない。そのため西ヨーロッパの王侯貴族の称号を日本語に訳す際には、princeps系統の称号とdux系統の称号のいずれも公と訳されることがあり、しばしば混同される。地域によってはduxの中でも君主(princeps)の地位を認められた者があったり、国王の臣下であるのにprincepsの称号しかもたない者があるなど、両者の関係は複雑に入り組んでいる。
区別のためドイツのprincepsを侯と訳すこともあるが、これとは別に英語のmarquessにあたる称号の訳がほぼ侯爵で定まっているため、この場合も別の混同が生じる。ただしフランスでは、コンデ親王(Prince de Condé)のように、王室から分家してprinceの称号を得た世襲の大貴族を公ではなく親王と訳すことがある。また、「大公」と訳すこともある。princeps系称号のうち領主としての地位を意味するドイツ語のフュルスト(Fürst)は侯、侯爵(近代)などの訳が多い。
[編集] ドイツ
ドイツではさらに複雑で、duxに対応するドイツ語のヘルツォーク(Herzog)は中世までは「大公」、近代以降は「公」あるいは「公爵」と訳す。中世の大公はほとんど定訳であるが、中世末期以降にハプスブルク家のルドルフ4世が名乗ったエルツヘルツォーク(Erzherzog)やグロスヘルツォーク(Grossherzog)も大公と訳している。ドイツではprinceps系称号はフュルスト(Fürst)とプリンツ(Prinz)の2種があり、前者は領主としての地位を意味し、後者は君侯の一族の称号である。前述のように前者は「侯」と訳されることが多い(「公」と訳すこともある。リヒテンシュタイン公国など。)が、後者は「王子」「公子」などの訳が多い。
[編集] イングランド及びウェールズ
イングランドでは、公と呼ばれるのは大陸から借用したdux系統の爵位、公爵(duke)を国王から与えられた王族や有力貴族たちに限られる。princeps系統のプリンス(prince)という称号は用いられていなかったが、ハノーヴァー朝から、王族についてプリンス(prince)の称号が与えられるようになったものである。
これに対してイングランドの隣国ウェールズでは、中世前期に各地方ごとに割拠した君主たちがおり、彼らはイングランド側からプリンス(prince)と呼ばれていたが、これを日本では公と訳している。13世紀にウェールズで最強の君主だったグヴィネズ公のルウェリン・アプ・グリフィズは「全ウェールズの公(Prince of Wales)」という称号を最初に用いたが、これがのちにイングランド王国の王位継承者に授けられるようになったプリンス・オブ・ウェールズの称号の起こりである。
[編集] ロシア圏
東ヨーロッパのルーシ(ロシア)では、クニャージ(князьクニャースィ)という称号を持つ君主が支配していたが、この称号は西ヨーロッパではprinceps系統の称号と同等視されており、日本語においても公と訳すのが定訳となっている。クニャージという称号はドイツ語のケーニヒ(könig)、英語のキング(king)と同じように古ゲルマン語圏の古ノルド語の君主を意味したコンヌング(Konnung)から来ているが、ルーシの言語では「王」を指す言葉(король)が別に存在しており、しかもルーシの歴史では、外国の王を指す場合以外に、「王」の称号が使われたことは歴史的になかった。
現在のウクライナに当たる地域にはヴァリャーグの一族であるルーシ族を権力の中心に据えたといわれるキエフ・ルーシ(最初のロシア統一国家とされる)が建国されたが、その長であったリューリクの後継者が「大公」(великий князьヴィリーキイ・クニャースィ)を名乗り、彼の一族すべてが「公」を名乗った。その後、ヤロスラフ1世(賢公)のあとキエフ・ルーシは各「公」の独立性の強まりと内紛により事実上の分裂状態を迎えるが、この頃になるとリューリクの子孫である「公」は国中に無数にいるという状態となり、その中のごく一部の有力者が自分の「公国」を持つようになった。
当初はその中のひとつであったノヴゴロド公国(共和国)では、地元貴族や市民階級の力の強まりにより「公」は選挙によって選ばれた「市長」または「市長官」と訳される「ポサードニク」(посадник)及び議会によって他の公国から招聘される存在となった。招かれた「公」は町の外に住まわされ、権力は著しく限定され専ら軍事を司る「傭兵隊長」的存在、シンボル的存在となった。また、共和国内での派閥の権力の推移の度に招聘されたり追放されたりしたため、その「公」としての「任期」は短いことが殆どであった。また、戦争に失敗した場合などもやはり追放処分を受けたが、そのときは同時にその「公」を推した「ポサードニク」らも失脚することとなり、これらは一種運命共同体であった。
モンゴル帝国の侵略によりキエフ公国はじめすべての公国はジョチ・ウルスに隷属したが、その中でモンゴル権力に最も近付いたヴラジーミル公国が新たにモンゴル帝国より「大公」に封ぜられてロシア地域におけるモンゴル帝国の冊封体制におけるモンゴルの代理人の役割を担った。
リトアニア大公国やポーランド王国の支配を受けたウクライナでは、「公」は当初の「リューリクの子孫」から「リトアニアまたはポーランド権力によって任命された代表者」に変化し、必ずしもリューリクの子孫ではなくなった。
その後のモンゴル勢力に対する抵抗においては、最も有力なロシア勢力であったヴラジーミル大公国が中心となり、「タタールの軛」を断ち切った後はモスクワ大公国がロシアに新たな中央集権国家が成立した。やがて、イヴァン3世が場合によって自らツァーリ(カエサル、キリスト教権力と東方の権力の後継者を意味する)を名乗り、次のイヴァン4世(雷帝)は「大公」の称号を廃して正式にツァーリとなった。この時点でルーシの「公」たちはツァーリに対して隷属する「勤務貴族」階層に過ぎなくなり、18世紀に正式に成立したとされるロシア帝国においては、クニャージは有力貴族に与えられる爵位称号へと変わる。これがロシア帝国の爵位3等の最上等である「公爵」である。
このように、ロシア圏における「公」には単語は同じкнязьでも実態にはいくつかの種類があり、自称かつ血族の称号であったキエフ・ルーシの「公」、キエフ・ルーシ崩壊後階級の称号となっていったその後の「公」とでは大きく性格が異なる。特に後者では「任命される公」であったことが重要である。
[編集] 概観
キエフ・ルーシの例が典型であるように、ヨーロッパにおいて「公」と訳される称号をもった王侯貴族は、必ずしも公の称号を主君から爵位として与えられた封臣であるとは限らない。とくにprinceps系統の称号の場合、原義が「第一人者」であることからわかるように、本来は一国の頂点に立つ人物の称号であった。公が統治していた国はルーシ諸国のほかにポーランド王国以前のポーランドや、ルーマニアに統合される以前のワラキア、モルダヴィアなどがあげられるが、いずれも国際的に「国王」という地位の承認を受けるまでに至っていなかった小国の君主が公(princeps)の称号を名乗っていた例である。