ポーランド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1795年までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけては東ヨーロッパ屈指の大国であったが、18世紀に周辺諸国に領土を分割されて消滅した。
目次 |
[編集] ピャスト朝
現在のポーランドは10世紀まで地方ごとにいくつかの西スラヴ人の公国によって分割支配されていたが、10世紀後半にピャスト朝によって統一され、キリスト教化されることによってポーランド公国となった。ポーランド公は11世紀に国王の称号を内外から認められるようになり、ポーランド王国を成立させる。
ポーランド王国は建国以前から王家の分権的性格から国王の王権が弱く、常に王族や貴族による内紛が絶えなかった。12世紀後半に即位したカジミェシュ2世の時代には、父の遺言で国土が多くの子供に分割相続されてしまい、ピャスト家の公を頂く複数の公国へと分裂状態に陥る。さらにその後を継いだレシェック1世は、王権の弱さのために三度も廃位されたうえ、最終的には1227年に暗殺されているという有様であった。
1241年にはバトゥ率いるモンゴル帝国軍の侵攻を受け、ワールシュタットの戦いでポーランド軍は彼我の兵力差などから大敗し、国王ヘンルィク2世も戦死してしまった。その後、王位はレシェック1世の子ボレスワフ5世が継いだが、無能なために1259年のモンゴル軍による侵攻を防げずハンガリーに亡命する。そして、このモンゴル侵攻によってポーランド国土は荒廃してしまった。
14世紀はじめに即位した国王ヴワディスワフ1世により、長く分裂状態にあったポーランドはようやく統一された。しかし今度は、神聖ローマ帝国やボヘミア王国などからの外圧を受けるようになる。これに対して、ヴラディスラフ1世の後を継いで即位したカジミェシュ3世(大王)は、巧みな平和外交によってこの外圧を乗り切るとともに、リトアニアへの領土拡張や内政改革による国力増強などに多くの成功を収め、ポーランドの最盛期を築き上げた。
[編集] ヤギェウォ朝
1370年にカジミェシュが後継者を欠いて没すると、カジミェシュの姉の子にあたるハンガリー王のラヨシュ1世が国王ルドウィク1世として迎え入れられたが1382年に没し、その娘ヤドヴィガが女王に即位して再びハンガリーとの同君連合を解消した。
この頃、バルト海沿岸部に陣取るドイツ騎士団がポーランドへの圧迫を加えており、ポーランド貴族はこれに対抗するために強力な指導者を求めた。そこで、当時まだ異教の信仰に留まっていたリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤギェウォ)がヤドヴィカの夫として選ばれ、1386年にヨガイラはキリスト教に改宗してポーランド王ヴワディスワフ2世として即位、ポーランドとリトアニアは同盟関係に入った(ポーランド・リトアニア連合王国)。1572年まで続くヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)の始まりである。
ヴワディスワフ2世はドイツ騎士団を破って服属させる一方、南へは黒海方面への領土拡張に成功を収め、ポーランド・リトアニア合同国家の全盛期を築き上げた。しかし晩年に息子への王位世襲と引き換えに、シュラフタと呼ばれるポーランド貴族たちに多くの特権を与えてしまった。これが、後にポーランドで起こる内紛の一因となってしまう。
ヤギェウォ朝のもとでポーランド王国とリトアニア大公国はポーランド・リトアニア連合としての一体化を進め、リトアニアの貴族たちもキリスト教への改宗を進めてシュラフタたちと同化していった。1569年、ポーランド王国とリトアニア大公国はルブリン合同を結び、共通の君主を頂く同君連合からひとつの王国に合体した。
[編集] 貴族共和制
ヤギェウォ朝は1572年に断絶、翌年からポーランド王国は選挙王制となり、シュラフタはヤギェウォ朝時代からの特権に加えて国王の選挙権を握った。この頃、ポーランドは大航海時代を迎えて人口増加著しい西ヨーロッパへの食料輸出が盛んで空前の好景気を迎えていたが、経済の活況の中からシュラフタの階層分化が進み、彼等の中から広大な領土をもつ大貴族(マグナート)が現われるようになっていた。この時代以降、ポーランド王はシュラフタによる議会政治の代表者となり、シュラフタの有力者であるマグナートたちが国の実質上の権力者となった。この体制を貴族共和制などと呼び、この時代のポーランド王国を「共和国」(Republika)と称することもある。
選挙王制に入ったとき、ポーランドの領土は西では神聖ローマ帝国の境まで、東では現ベラルーシ・ウクライナ中部・ロシア東部にまで及ぶ大国であった。「共和国」のもとでの寡頭政治はポーランドの国政に混乱をもたらしはしたが、ポーランドの大国としての地位は維持された。しかし17世紀に入ると、周辺国との相次ぐ戦争によりポーランドは国力を消耗し、あげくウクライナ・コサックの反乱と新興のスウェーデン王国・ロシア帝国の侵攻が続き、国力は急速に衰微した。この混乱はポーランド史上「大洪水時代」と呼ばれる。
17世紀末には国王に選出されたヤン3世ソビエスキの下、ある程度の中興を果たすが、18世紀以降は強国となったロシア帝国、スウェーデン王国、プロイセン公国(のち王国)に対抗するだけの力を失っていた。大北方戦争ではロシア帝国について勝利国側に辛うじて立ったが、スウェーデンに敗れて一時ポーランド王が廃位され、傀儡王権を立てられるなど失態を犯し、挙げ句の果ては大北方戦争で強大化した、ロシア、プロイセン王国に東西から挟まれると言う脅威が派生し、王権も弱体化する結果となってしまう。
その後、王国ではポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする王位をめぐっての抗争や貴族による内紛が相次ぎ、国力が著しく衰退する。そして、このようなポーランドの国内事情を見たロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国の三大国によって1772年、1793年、そして1795年の三度にわたってのポーランド分割が行なわれた。最後の分割でポーランドの領土は完全に地上から消し去られ、最後のポーランド国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ2世、在位1764年 - 1795年)は退位。ここにポーランド王国は消滅した。
19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトの登場によりワルシャワ公国が成立したが、ナポレオン戦争敗退によって王国復興の望みは完全に絶たれた。その後に待っていたのは、ウィーン体制によるロシア帝国の圧政であった(ポーランド立憲王国)。